第26話 名の由来【2】
パピレイユを食べ終えた後、フィシュアはリティシアに貸してもらった地図を食卓に広げた。
気をきかせてくれたのだろう。リティシアは片付けをしてしまうといって席を離れ、彼女の夫も窓際の席へ引き返していった。
地図を見たことがない、というテトは、食卓いっぱいに広げられたダランズール帝国の地図を物珍しそうに見つめている。
「いまさらだけど、テトの村ってどこなの?」
フィシュアは、テトとシェラートに問いかける。
ミシュマール地方ということは聞いていたから、ここまでは街道沿いに迷いなく走ってきたが、もう少し進むと分岐点に差しかかり、同じ地方内でも目的の場所によって選ぶべき道が大きく変わる。道順を決めるためにも、そろそろ正確な位置を知っておく必要があった。
フィシュアの問いかけに、テトは地図をますます覗きこむ。ところどころ印のように描かれている絵図をたよりに自分の村らしき場所を探しているが、結局、読み方はわからなかったらしい。かぶりを振ると、フィシュアを見あげて答えた。
「地図でどこかはわからないけど、ミシュマール地方の端のほうだよ。エルーカ村っていうの」
エルーカ村、エルーカ村、と呟きながらフィシュアは、ミシュマール地方の外枠をなぞる。
「あった。ここね。端って、今いるチェドゥン地方との境じゃない。ここなら、今日と同じペースで走れば、あと四日もあればつくわよ?」
フィシュアの言葉に、テトが「本当?」と嬉しそうに聞き返す。
頷いて、フィシュアは「見ていて」と、地図の一点を指し示した。
「今、私たちがいるのがここね。で、テトの村はこっち。この大きな街道をまっすぐ進んだあと、ここの小さな道に入って少し山を登ればつくわ」
テトは、地図の中のエルーカ村を見ながら、「わぁ!」と歓声をあげた。フィシュアの指が辿った道筋を、テトの視線が何度も何度も行き来する。
「本当に、あともう少しでつくんだね……」
「そうよ。あともう少し、頑張りましょうね」
フィシュアは励ますように、栗色の髪をふわふとわとなでる。テトは嬉しそうに目を細めた。
なぁ、と同じく地図を覗き込んでいたシェラートが、地図を指さす。
「これって、山、だよな?」
「そうよ。茶色の線で囲まれている部分は山脈ね」
「なら、二日もあれば充分かもしれない」
どうして、と首を傾げたテトとフィシュアに、シェラートもまた地図を使って説明した。
「ここまでお前と同じ道を通って移動するだろう?」
シェラートの指はフィシュアが示した街道の途中の街で止まった。それから山の方へと指を滑らせる。
「この街からまっすぐテトの村に飛んで行ったほうが早い。この辺りなら山続きだから人家も少ないだろうし、こまごまとした村さえ避ければ特に問題はないだろう。その街からは一日で着く」
「なるほど……。空を飛べるんだから、そのほうが早いわね。この街からなら明日少し遅く出たって、充分余裕でつく距離だし」
そうしましょう、とフィシュアは頷く。
二人のやりとりの間に取り残されていたテトは、地図を見つめ呆然と立ちつくす。
いつもと様子の違うテトに気付いたシェラートは、テトの前に屈みこんだ。
「どうした?」
本当? と、テトはシェラートの腕に、こわごわと手を伸ばす。
「本当にあと、二日で着くの?」
まだ信じられないという顔をしているテトの栗色の髪をシェラートがわしゃわしゃ、とかき回した。
「あぁ、あと二日だ。もうすぐ母さんに会えるぞ」
その言葉を聞いたとたんテトは何かが切れたように、わぁっ、と泣き出すと、シェラートに飛びついた。
突然、響きだした大きな泣き声に夫妻は驚いてこちらを見たが、フィシュアはそんな二人にひらひらと手を振って、大丈夫、気にしないでください、と微笑む。
ひっくひっくとしゃくりあげながら泣くテトを抱えあげ、シェラートは小さな背中をぽんぽんと叩いた。
「ここまで、よく頑張ったな」
シェラートの肩でテトが小さく頷く。テト自身泣きやもうと、時折ぐっと息を詰めるが、どうもうまくいかないらしい。肩越しに、ぎゅっと握りしめられる服をそのままに、シェラートはそれ以上なにも言わなかった。
心配そうに離れた場所から、様子を見守っていた夫婦も、静かに辞儀をして、居間から自室へと引きあげていった。
夜も更けた窓の外からは、チリチリ、と虫の音が聞こえてくる。
しだいにすすり泣きへと変わった嗚咽は、急に聞こえなくなったと思ったら、すとんと落ちるように、規則正しい寝息になっていた。
すっかり寝入ってしまったテトを、あらかじめ案内されていた客室に抱えて運ぶ。シェラートは寝台の端に腰掛け、起こさないようテトを寝台に寝かせた。
フィシュアも対の端に腰をおろし、テトの首もとまで、そっと掛布をかけていく。
愛らしい寝顔を覗きながら、汗でくっついているテトの前髪をフィシュアが優しく払ってやった。
「泣き疲れちゃったのね」
瞼も、涙のあとが残る頬も、あかく腫れていて、見るからに痛々しい。
「ずっと、我慢してたのよね」
「ああ」
「そうよね、こんなに小さいんだもの。よく笑っていたから、……笑っていることが、すごいんだってこと気づかなかった」
「ああ」
ね、とフィシュアは、問いかけた。
「契約が終わったら、あなたはテトから離れるの?」
「そういう決まりだ」
眉根を寄せて、
「テトのお母様、ご無事だといいわね」
「あぁ、そうだな」
「……ねぇ、こんなこと、本当は言いたくないんだけど。もしも……、もしも最悪の結果になったとしても、それはあなたのせいじゃないわよ? もちろんテトのせいでも」
フィシュアは立ちあがると、向かいでじっと押し黙っている
「もし、そんなことになれば、きっとあなたのことだから、自分を責めてしまうでしょうけどね。誰のせいでもない、ってこと、ちゃんと覚えておいて」
ね、とフィシュアは、向かいの黒髪に手を伸ばすと、ぽん、と指先ではじいた。
「おやすみなさい」
囁いた声は、はたしてきちんと届いたのか知れない。
返事は待たず、フィシュアは部屋をあとにした。
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