第7話 誘拐
ザイールは、指先でインクペンの軸先をこつりと叩いた。
書き終えた書面を眼鏡越しに確認し、まだ二十も半ばを過ぎたばかりの年若い領主は軽く息をつく。
ザイールは、入室の許可を求める侍従の声に、面を上げぬまま応じた。終了した仕事を脇にはけ、次の書類に取りかかる。
初老の侍従は静かに部屋に入ると、慣れた仕草で小棚の上に盆を置いた。
「フィシュア様が、お戻りになられましたよ」
「そうか」
書類から目を離して、領主は頷く。侍従は運んできたカップを上向けながら、穏やかに目元を細めた。
「思ったより早かったな」
ザイールは口端を緩めた。窓の外は明るい。陽は空の頂点からは随分と傾いたものの、夕暮れにはまだ時間がある。
「そうだな、少し休憩するか」
目頭を指先で揉みほぐし、ザイールは外した眼鏡を書類の上に置く。一度大きく伸びをした彼は、おもむろに椅子から立ち上がった。丁寧に束ねられた焦げ茶の髪先が彼の肩で跳ねる。
まっすぐに部屋の出口へと向かったザイールは、茶の用意をしている侍従の横を通り過ぎると、扉の取っ手に手をかけた。
「フィシュア様のところへおいでですか?」
「そうだ」
ザイールは扉の取っ手を回す。と、同時に、かちゃりと茶器が音を立てた。ザイールが目を向けてみれば、初老の侍従はひどく恨めしそうな顔をして「このお茶はどうするのです?」と尋ねてくる。
ザイールは思わず苦笑した。確かに、彼に茶を淹れるよう頼んだのは他でもない自分だ。
「じゃあ、一杯いただこうか」
「ええ。そういうところがお好きですよ、ザイール様」
笑んで、侍従はすぐさまカップに茶を注ぎ入れる。こぽこぽと調子のよい音に導かれて、柔らかな白湯気が立ちあがった。
「本当にお前には敵わない」
ザイールは、差しだされたカップを素直に受け取る。
子どもの頃から、自分の面倒を見てくれているこの初老の男は、ザイールにとって従者というよりもむしろ家族に近しい存在だった。自分には祖父がいた記憶がない。だからこそ、この侍従と話す度に祖父がいたらこんな感じだろうか、とザイールは幼い頃からずっと密かに思っている。
ザイールは侍従が淹れてくれた茶を一気に飲み干した。空になったカップを侍従に返し、彼は今度こそ扉の取っ手を回す。が、少し扉を開けたところで、ザイールはふと手を止めると、部屋の中に立つ侍従を振り返った。
「お前も少し休憩しておけ。私が戻って来るまで、残りの茶でも飲んで待ってろ」
ゆっくり休め、と言い残して、ザイールは部屋を出た。
領主の後ろ姿が扉の向こうへ消えると同時に、扉がパタンと音を立てて閉まる。
部屋の中に残された初老の侍従は、言われた通りにもう一つのカップを茶で満たした。温かな茶を一口含み、侍従はふっと息をつく。
「本当にザイール様には敵いません」
呟いた侍従は、どの祖父よりも祖父らしい顔をして、今は閉まっている扉を眺めたのだ。
部屋を出たザイールは、迷うことなく客室へ足を向けた。
屋敷を縦に貫く回廊は長く広い。だが、幅が広くとられていると言っても回廊自体は、別段豪奢と呼べる代物ではなかった。むしろ、屋敷の規模の割に、装飾品すら置かれていないこの回廊は一見味気なく思える。
加えて、強烈な太陽の日差しと砂漠から運ばれてくる細かい砂粒を避けるべく設計された回廊の窓は小さく景色を楽しむのには向かなかった。
領主の館と言っても、ここは田舎だ。土地が余っているからこそ、栄えている街にある他の領主の館と並ぶくらいの敷地面積はあるが、言ってしまえばそれだけである。ある程度資産を築いた商人であれば、ここと同程度の屋敷を建てるのは訳ないだろう。
しかし、ある特定の時間になると、この回廊は様相を変える。夕刻よりもまだ早い時間帯。ちょうど傾きだした陽が黄金の輝きに辺りを染め始める少し前、白壁の上部の窓に嵌め込まれた色硝子は一心に陽の光を受ける。青や黄色といった様々な色の硝子は、有り余る陽光を溶かしこんで回廊を華やかに照らし出す。白い土壁に映し出される光は、溜息が出るほど美しい。歴代の領主と同じく、ザイールもまたそれで充分だと思っていた。
ザイールは、三つ目の角を曲がる。そこで、彼は目的の人物と行きあたった。
後頭部で束ねられた少し癖のある薄茶の髪は、柔らかに彼女の背に流れる。お世辞にも白いとは言えぬ程度には焼けしてしまっている肌は、何も彼女が今日、砂漠に出ていたからだけではない。そして、何よりも、どこまでも深い色味を持つ強い意志を湛える藍の双眸。
初めて出会った時は何とも思っていなかった女を、その日の暮れには知らず目が追っていた。
まさか、回廊の真ん中で出会うとは思っていなかったのだろう。わずかに目を瞠っている彼女に、ザイールは呼びかけた。
「フィシュア」
「ただいま、戻りました。ザイール様」
フィシュアは慇懃に腰を折り、辞儀をする。若い領主は「あぁ」と首肯した。
「こんなに早く戻るとは思っていなかったから、出迎えが遅れた。悪かったな」
「いえ」
フィシュアは首を横に振る。口を緩めかけたザイールは、だが、彼女の纏う衣服に気付いて顔色を変えた。
いかにも動きやすそうな下履き。腰の辺りを紐で縛っている上衣は裾が長く、ちょうど膝まで届く。色のくすんだ生成りの上下は、この屋敷を初めて訪ねてきたフィシュアが纏っていたものと全く同じものだった。
「フィシュア。今朝は侍女の服を着ていなかったか?」
「……あれは、ちょっといろいろあって、裾が破けてしまいました。申し訳ありません」
曖昧に言葉を濁しながらも、フィシュアは素直に頭を下げる。対してザイールは、彼女が口にした陳謝の内容に眉根を寄せた。
「何があった」
「転んで藪に突っ込みました」
表情も変えずに、フィシュアは答える。どう考えても苦しい言い訳だったが、彼女に答える気はないらしかった。ならば、これ以上問い詰めてもフィシュアが口を割ることはまずない。それが分かり切っていたからこそ、ザイールは「そうか」と相槌を打つに留めた。
「言ってくれれば、ドレスくらいいくらでも用意したものを」
「……あれは、動きにくいので結構です」
フィシュアは領主の申し出を辞退する。心底嫌そうな彼女の表情にひとしきり笑ったザイールは、改めて彼女の服装を上から下まで眺め直した。
「だが、その格好は、もう侍女とは言えないな。“働かざる者食うべからず”なんだろう、フィシュア? それとも、ようやく私と結婚する気にでもなったのか?」
ザイールは、フィシュアに手を伸ばす。彼女の頬にかかる、結びきれていない薄茶の横髪。それを一房手にしたザイールは、顔を寄せると薄茶の髪に口付けた。
間近に寄せられた男の顔。けれども、フィシュアは少しも頬を染めることなく、自身の髪に触れたままのザイールの手をやんわりと退ける。
「それは何度もお断りしているはずです」
いつもと代わり映えのない反応に、ザイールは今回もまた微かな落胆を覚えた。だが同時に、一向に取り会おうとしない彼女の姿勢さえ、愛おしく思う。その愚かさに、ザイールは苦笑した。
「侍女として働けないのなら、また水を汲みに行ってもらおうか」
告げれば、途端、眼の前の女の顔は思い切り崩れる。
「嫌ですよ。大体あの罰は何なんですか」
「別に嫌がらせでやったわけではない。私の命を聞かなかった屋敷の者には、いつもあの罰を与えている」
「結婚しろ、というのは、侍女に対する命として間違っていると思いますが」
「確かに」
じとり、と胡乱気に睨みあげてくるフィシュアを見つめ返し、ザイールは口端を上げた。
「だが、フィシュアに与えた罰は冗談のつもりだった。取り消す前に“上等だ”と叫んで、飛び出して言ったのはフィシュアの方だろう」
明かした真実に、フィシュアは目を見開く。己のしでかした失態に激しく後悔しているらしく、彼女はおもむろに呻くと、がっくりと肩を落とした。
「……まぁ、いいです。今はそれどころじゃないですから。首飾りを返してください」
「これか?」
ザイールは失くさぬように首に下げ、服の中に仕舞っていた首飾りを取りだした。革の紐に藍色の石が一つ無造作に通してあるだけの首飾りを、彼は言われるがままフィシュアの前にさらす。
「そんなにこれが大事なのなら、これと一緒にフィシュアもここに留まればいい。これを返したら、お前は行ってしまうのだろう?」
「当たり前です」
「なら、駄目だな」
あっさりと結論付けて、ザイールはこれ見よがしに藍石を手に包み込んだ。愛しい女の双眸と同じ色を持つ石に、彼はそっと口付ける。
けれども、彼の予想を大きく外れて、眼前の女は強く焦燥を滲ませた。
「そんなこと言ってる場合じゃないんです! この街に
「
突如出された
「
だから早く、とザイールの腕を掴んできたフィシュアは、ますます焦りを帯びて見える。その尋常でない様子に、ザイールは寸の間、思案すると頷いた。
「この石が
「そんなこと言ってるんじゃないっ!」
ザイールは、叫ぶフィシュアの身体ごと自分の方へと引き寄せた。落ち着け、と彼は自身の肩に彼女の額を押し付ける。
「……もうそろそろいいか? 俺もそんなに暇じゃないんだが」
呆れきった男の声音が、天井から響く。
顔を上げたザイールは、頭上高くに浮く一人の男の姿に目を疑った。黒髪の男は腕を組み、悠か上から一組の男女を見下ろす。
「
話でしか聞いたことのなかった存在。だが、相手が宙に浮かんでいるという事実は、およそ普通の人間では有り得ない。フィシュアが懸念していた存在の出現に、ザイールは驚愕する。
「そうだ」
まさか、と思いたい事実は、あっさりと
ザイールは咄嗟にフィシュアを背に庇った。常備している短剣を抜き、切っ先を
鋭く尖った剣先は、だが、
「いくらお前の腕がいいからと言って、
問いかける
信じられぬ現実に、ザイールは驚きよりも、焦りを感じて、ぎりと奥歯を噛み締めた。わずかな動きも見落とさぬよう、目を
だが、ザイールの意識を
「フィシュア?」
ザイールは怪訝さに顔を強張らせて、いつになく近くにある藍の双眸を見つめる。
フィシュアは笑んだ。まるで名残惜しむように向けられた微笑は、ザイールがフィシュアに出会って初めて目にする類のものだった。
「正直こんなに守ってもらえるとは思っていなかったので、最後の最後で心が揺れてしまいましたよ?」
苦笑気味に告げるフィシュアの言葉には、幾分かの申し訳なさが入り混じる。その言葉が示す意味に、ザイールは目を見開いた。
「何を」
「早く私の他にいい
ぐん、とフィシュアの顔がザイールに近づき、頬に柔らかな温度が優しく触れる。
「あなたに幸運を」
耳元で囁かれた祈りに、ザイールの身体は硬直した。思考の止まった頭の隅で、衝動だけが空回りする。
その隙を逃さず、ザイールが首に下げていた首飾りは、フィシュアによって無情にも引きちぎられた。後には焼けつくような痛みだけが首裏に残る。
「守り主はお前か?」
ザイールの元を離れたフィシュアは、
「フィシュア!」
ザイールは声をあらげて叫ぶ。だが、彼が我に返った時、そこにはもう愛しい女も、突然現れた
跡形もなく消えた痕跡。白壁に囲まれた広い回廊で、ただ一人、取り残されたザイールは呆然と立ち尽くすしかなかったのだ。
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