第6話 説教
“説教”という言葉に、ついさっきまで無邪気にじゃれあっていたテトの笑顔は、ぴしりと音を立てて、あからさまにひきつった。
ただ一人、思い当たる節のないシェラートだけが意味を解さず眉をひそめる。
「説教? 何の話だ?」
そういえば、後で説教をすると言った時、この
一見、優しげに見える微笑。にもかかわらず、彼を見据える藍の双眸には有無を言わせぬ厳しさがあった。そのことに気付いたテトは、強張った顔をさらにひきつらせ、思わず後ずさった。
どうやらまだ事態を把握していないシェラートは怪訝そうにフィシュアを見ている。
テトはこれ以上フィシュアの笑顔が恐くならないようにと、シェラートに逆らわないよう、何もしないように、黒い瞳で必死に訴えかけてみた。
だが、眉を寄せたままフィシュアを見ていたシェラートが、テトの懇願に気付くはずもなく――少年の目の前で、彼の
「訳がわからん」
悪びれもなく、
フィシュアが恐い。さっきまであんなに優しかったのに。テトは、半ば泣き出しそうになりながら、シェラートの後ろへとこっそり避難を試みる。が、隠れるよりも早く、目ざとく藍の双眸に見つけられてしまったテトは、蛇に睨まれた蛙の如く、その場からもう一歩も動くことができず、固まるしかなかったのだ。
テトから目線を離したフィシュアは、再度シェラートに焦点を合わせた。
「お心当たりはないですか?」
「ない」
「そうですか」
シェラートの即答に、テトの顔がさっと青ざめる。もうこれ以上、フィシュアの顔を見ないようにと顔を下げたテトは、自分の足先を見つめるのに専念することにした。
突然、口調を変えた眼前の女を、シェラートは不思議に思いながら見ていた。
さっきからにこにこと笑みを保ったまま表情を崩さない彼女は、奇妙でしかない。何が面白いんだか、と彼はさらに首を傾いだ。
女は微笑を広げて、口を割る。
「あなたは今日、どうして倒れたのか分かりますか?」
「日射病だろ?」
シェラートは答えを口にした。それ以外に答えは見当たらない。彼にしてみれば至極当然のこととして辿りついたものだった。むしろ、なぜこのようなことを尋ねてくるのか、そればかりを不可解に感じる。
なら、と彼女は問いを重ねた。
「なぜ日射病になったのかは、分かりますか?」
「水がなかったからだ。あと、日に当たりすぎた」
「じゃあ、その原因は?」
「水を盗られたからな」
シェラートの返答に、女の深い藍の双眸が揺れた。その上で眉がぴくりと跳ねる。
――あぁ、なるほど。
ようやく納得のいったシェラートは、眼前の女を呆れた目で眺める。分かりにくいにも程がある。ただ笑っているだけで、分かれと言う方が無理な話だ。
シェラートは面倒さに後頭部を掻く。目の前にいる女がどうやら自分に対して怒っているらしいことに、彼はやっとのことで気がついた。
やはり、この
フィシュアは、見通せないほどに濃い藍の双眸に怒りを湛えながら、しかし、静かに口を開いた。
「あなたは
「あぁ、それは……」
理由を続けようとしたシェラートは、真横にいたテトの存在に気付き、口を閉ざした。答えれば、テトにも非があったと認めることになる。その事実を、彼は理解したらしかった。
「知ってるわ。テトが水を取り返すのをやめてほしいとあなたに頼んだのでしょう? テトから聞いたもの」
シェラートは反射的にテトを見た。俯いた少年は、唇を噛み締めて、今にも泣き出しそうに見える。
「……テトは何も知らなかったんだ」
「そうでしょうね。だけどあなたにはテトを説得することができたでしょう? なのに、しなかった。そして倒れた。倒れたのがあなただったから、まだよかっただけよ。でも、テトだったらどう? その可能性だって充分有りえた。現に、テトだって倒れる寸前だったと思う。それくらいには、脱水症状を起こしかけてた」
それに、とフィシュアは、
「あなたはテトがどれだけ必死で私のところに走ってきたのか、分かっているの? どれほど不安で、どれほど心配していたか、本当に分かっているの?」
シェラートは言葉を失った。彼にしてみれば、それは容易に想像できることで、だからこそシェラートは何も言い返すことがかなわなかった。
フィシュアは、
「テト。あなたが何を間違ったのか、もう分かったわね?」
テトは声も出せず、頷いた。同時に、黒い瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「テトは知らなかったんだから、悪くないだろう」
シェラートはたまらずフィシュアに抗議した。険を宿した翡翠が、フィシュアを睨みつける。しかし、フィシュアは、少しも怯むことなく真っ向から
「そうね。一番、責があるのはあなただと思うわ。テトが何も知ることができなかったのは、あなたが何も言わなかったから。だけど、今回のことは知らなかったからと言って、許されることでもないの」
再度、テトに視線を戻したフィシュアは、俯いて震える少年の濡れた頬を両手で挟さみこんだ。上向かせたテトの黒の双眸としっかりと向き合う。
「今回は倒れたのが
フィシュアの言葉に、テトはびくりと身体を震わせる。しゃくりあげる声に伴って、次々溢れる雫をフィシュアはそのままにしておいた。落ちた涙は、地面の色を変えて、吸い込まれる。
「水場の位置をはっきり把握してもいないのに、砂漠を水なしで渡るなんて自分から死にに行くようなものなの。そのくらい、砂漠では水が大切。食料よりも、何よりもね。だから、テト。あなたは水を取り返すべきだった」
それに、とフィシュアは口調を強めて言った。
「
テトは、頷く。
それは、絶対だ。
だからこそ、人々は
「テト。あなたはまだ子どもだから、この
「――もういいだろう!?」
シェラートはフィシュアが次に続けるだろう言葉に気付き、それを遮った。フィシュアから、テトを引き剥がす。テトの頬にあてがわれていた彼女の手は、宙をさまよった。
フィシュアは、握りしめた手を、自身の両膝の上に置く。
シェラートは、泣き続けるテトを背後に庇い、女を睨んだ。
けれども、フィシュアはシェラートには目もくれず、テトだけを捉え続けた。
シェラートの後ろに隠れて、テトの姿は半分も見えない。少年が、震える。それを見てとった藍の双眸は、誰も気がつかぬほどの一瞬、微かにさざめいた。
揺らぎを消すかのように、女は一度目を閉じる。
再び、瞼を押し上げるのと同時に、フィシュアは唇を動かした。
「……そうしないと、あなただけでなく、この
テトは大きく頷いた。
相変わらずしゃくりあげ続ける少年の黒眼からは、とめどなく涙が流れる。けれども、彼はもう俯いてなどいなかった。しっかりと、顔を上げたテトの黒い双眸が、まっすぐにフィシュアを見据える。
フィシュアは、自ら前に進み出てきた少年に手を伸ばした。濡れた頬を掌で拭う。
「そのことを忘れては駄目よ。あなたが、この
首肯したテトに、フィシュアは表情を和らげた。慰めるように柔らかなテトの茶色い髪をなでる。
「分かったのならいいのよ。これからテトがちゃんと気をつけていけばいいだけ」
「…………ごめんなさい」
ほとんど消え入りそうな声で、テトは言った。微かな声。それでも、フィシュアの耳には確かに届いた。
フィシュアは、満足気に目を細めて少年を見やる。
「それは、私に言う言葉ではないでしょう?」
「ごめんなさい」
テトは、彼の
先よりもはっきりとしたテトの謝罪に、シェラートは息を呑んだ。契約者のすぐ脇に膝をついている女を目の端に入れた彼はひどくばつの悪そうな顔になる。
「俺こそ、本当に悪かったな」
うん、と首肯したテトがはにかむ。その顔に、涙はもうなかった。
「さて」
フィシュアは、パンッと手を叩いて立ち上がった。裾についた砂を手で払って、彼女は笑む。
「それじゃあ、私は帰るわね」
「え!? フィシュア、もう行っちゃうの!?」
あまりに唐突な別れに、テトは声を上げた。驚いた顔をフィシュアに向ける。既に止まっていはいるものの、涙の乾いていな黒の瞳は、その名残のせいか潤んでいる。
「そうね。本当は、もう少しだけ一緒にいてあげたかったんだけど、もうそろそろあの水を運ばなくちゃいけないから」
考えるだけでげんなりしそうな気分を押し殺して、フィシュアはたっぷりの水を汲みなおしたばかりの水甕を示した。
テトは、馬たちとは少し離れた木陰に置いてある甕に目を向ける。続いて、少年はシェラートを見上げた。明らかに『止めてほしい』と訴えてくるテトの眼差しに、シェラートは「うっ」と小さく呻く。
「……あーーー。その甕、運ぶの手伝ってやろうか?」
テトの懇願に負けたシェラートは仕方なさそうに水の入った甕を見やった。
けれども、フィシュアはその申し出に首を振る。
「遠慮しておくわ。手伝ってもらったら、何を言われるか分からないし」
どちらにしても領主があまり嬉しくはない要求をしてくることだけは確実だ。領主の顔が脳裏をかすめ、フィシュアはものすごく疲れた顔をした。
「でも、僕たちまだ何のお礼もしてないし……」
「その気持ちだけで充分よ」
必死に食い下がるテトを、フィシュアは微笑んでかわす。
「――うっ」
きらきら、と。無邪気な圧力はシェラートに向かった。今度もテトの懇願を一身に受けてしまったシェラートは、渋々口を開く。
「まぁ、礼は……確かに、しなくちゃならないだろうな。借りを作ったまま別れるのもなんだ」
シェラートの言葉に、テトの顔がぱっと輝く。
口に出さないまでも自分の言い分を通した契約者の少年と、端からこの幼い契約者に甘すぎる
肩を落として嘆息したシェラートは、いかにも面倒臭そうな顔をして、フィシュアに向き直った。
「借りは返す。礼に一つだけ願いを叶えよう」
意外な申し出に、フィシュアの藍の双眸は驚きに見開かれた。
「願い? 何でもいいの?」
いかにも嬉しそうにフィシュアは尋ねてくる。シェラートは、心底うんざりした気持ちになった。早くも、うっかり口にしてしまった発言を取り消したくなる衝動にかられる。これが、さっきまで怒っていた女と同一人物なのか、という疑念さえ彼の中に沸き起こった。
「できる範囲でならな。あと、テトが許す範囲でなら」
「分かった。一つだけなのよね?」
「当り前だ」
フィシュアの念押しに、シェラートは溜息混じりで即答する。
眉を寄せたフィシュアは、必死に考えを巡らせた。
うんうんとフィシュアは唸り続ける。一向に願いが決まる気配のない彼女を、シェラートは辛抱強く待ちながらも、ひどく嫌そうな顔になった。できれば外れてほしい推測を、彼はあえて口にする。
「……お前、今、どの方法がより自分に有益か考えてるだろう」
「――ばれた?」
「お前なぁ」
「だって、叶えて欲しい願いは、いくつかあるのよ。それに順番なんてつけられっこないでしょう? 一つの願いで全部叶えてもらう方法を考えなくっちゃ」
フィシュアは、悪戯がばれた子どものような顔をして楽し気に笑う。「言っておくが」と、シェラートは、この女に前もって忠告をしておくことにした。
「願いを増やすっていう願いは駄目だからな」
「あ。それは思い付かなかった」
シェラートは盛大に溜息をついた。嫌な予感がする。
「決まった」
フィシュアは、告げた。テトは好奇心に顔を輝かせて、シェラートは達観と後悔の入り混じった顔で、それぞれフィシュアに注目する。
フィシュアは不敵に笑いかけた。二人を前に己の願いを口にする。
「私を誘拐して欲しい」
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