第5話 水場で

「わぁ! 綺麗だねぇ」


 きらきらと日差しを跳ね返す湖面。

 歓声を上げたテトは、水場に向かって走り出した。透き通った水の中に指先をそっと差し入れる。火照りきった手に伝わってきた水の冷たさにテトは顔を輝かせた。靴を脱ぎ棄て、パシャパシャと湖の中に入って行く。足を踏む度に揺れ動く細かな砂粒が、彼の気分をさらに浮き立たせた。

「気持ちいい!」

「あんまり奥まで入るなよ」

 水を蹴飛ばしてはしゃいでいるテトを横目に、シェラートは馬を木に繋ぐ。だが、夢中になっている少年に彼の言葉はどうやら届かなかったらしい。

 まぁ仕方がないか、と苦笑したシェラートは、すぐ横で馬の鼻先を撫でながら微笑ましそうにテトを眺めているフィシュアに声をかけた。

「何か危ない生物とかいないよな?」

「いるわよ?」

「おいっ!」

 けろりと答えた女の言葉に、魔人ジンは血相を変える。次の瞬間、湖から忽然と姿を消したテトが、シェラートに背を支えられて立っていた。

「シェラート! 何するんだよ!」

 強制的に水からあげられたテトは濡れた指先から水を滴らせ、不機嫌そうにシェラートを睨みつける。フィシュアは、噴きだした。

「嘘よ」

「あのなぁ……」

 笑い続ける女を見やり、シェラートは呻く。あまりにもあからさまな態度に、笑いを引っ込めたフィシュアは、過保護すぎる魔人ジンに呆れた目を向けた。

「そもそも、そんな危険な生き物がいるんだったら、多少遠くってもみんなここじゃなくて、他の安全な水場に行くわよ」

 言外に、そのくらい気付きなさいよ、言う女に、シェラートはむっと眉を寄せる。

 未だむくれた顔のまま、テトは二人の間で首を傾げた。

「何の話?」

「ん? 何でもないのよ、何でも」

 見上げてくるテトに視線を落としてフィシュアは微笑む。怪訝そうな少年の背を促して、フィシュアは湖の根源となる水が湧き出る泉へさっさと向かうことにした。



 木々の葉がそよと揺れ、湖面いっぱいに青い空が映し出される。太陽で熱された砂漠の乾いた風が、湖面と木陰に冷やされて肌に心地よい。

 フィシュアにとって、ここはお気に入りの場所の一つだった。

 この水場の源流である湧水は、湖より少しだけ高い位置にある。土と土の間から勢いよくこぽこぽと湧き出る水が木漏れ日に照らしだされて輝きを増した。

 時を忘れさせる美しい風景。

 ここに来る途中で拾ってきた甕に再び新しい水を汲みなおしながら、頭上の木々を見上げた彼女は、葉と葉の合間から零れる光に目を細めた。

「フィシュア、これしょっぱい」

 フィシュアが頭上の木々から意識を逸らして、声のした方に顔を向けると、テトは杯を片手に思い切り顔を歪めていた。

「当り前でしょう? 塩を入れてるんだから。文句言わないでちゃんと飲む!」

 反論を許さない藍色の双眸。しっかりと睨まれたテトは、急いで杯の中身を飲み干した。

 うげぇ、と舌を出し、さっきよりも酷い顔をしているテトを、フィシュアは「えらい、えらい」と労う。彼女は空になった杯を受け取ると、新しい水を注いでから再びテトに杯を手渡した。塩の入っていない真水を、テトは急いでぐいぐいと飲む。

「あぁ、しょっぱかった!」

 口の中の塩っ気が抜けたせいか、満面の笑みとなったテトから、フィシュアは空の杯を貰い受けると、中をすすぎ、杯を湧水の縁に戻した。

 この水場は、周辺の街の水汲み場であると同時に、隣の街への中継地点でもある。

 その為、ここはよく行商人や旅人の休憩所として使用されてきた。常に湧水のすぐ傍に置いてあるこの杯は共用のものとして、ここで一息つく人々に長く重宝されている。

 そういった理由が少しも思いもつかなかったのだろう。テトは街からは随分と離れた泉に忘れ去られたように置いてある杯を見てひどく驚いた。

 恐らく、この少年には知らないことがまだ多すぎるのだ。誰かが一つ一つ、いろんなことを教えていかなければ。そうして学んだ数ある知識は、ひょんなことから繋がりを見せることだってある。

 それを抜きにしても、この少年はさしあたって生きる為に不可欠な最低限の知識を知っておく必要があるだろう。

 フィシュアは塩水を嫌々飲んでいた幼い少年に「テト」と呼びかける。

「水だけじゃなくって、塩も大事なのよ?」

「どうして?」

 テトは、首を傾げる。

 フィシュアは、充分な水分補給をしたからか、テトの額にじんわりと浮きあがり始めた汗を指差して言った。

「テトの汗はしょっぱいでしょ?」

「うん」

「汗の中にはね、塩も入ってるの。だから、しょっぱいのよ」

 へぇ、とテトは感心したように目を丸くする。素直な反応に、フィシュアは微笑んだ。

「汗をいっぱいかいた時は、水と一緒に少しは塩も取らないといけないの。だから、今日は嫌でも塩水を飲まないといけなかったのよ。分かった?」

「そっか。塩って僕にとって、とっても大切なんだね」

「そうよ」

 フィシュアは、「よくできました」とテトの頭を撫でる。

「お前、あんまりテトに触るな」

 二人のやりとりを見ていたのだろう。空の杯を片手に、テトの背後からやって来たシェラートは、不機嫌さを隠しもせずフィシュアを睨んだ。

 フィシュアは、顔を顰める。

「あなたにだけは言われたくないわね。さっきからテトのこと撫でまくってるじゃない」

「俺は、いいんだよ」

 あっさりと言い放たれた極論に、フィシュアは閉口する。

 反論したのは、二人の間に立たされていたテトだった。

「僕もシェラートとフィシュアは僕の頭を撫ですぎだと思う。おかげで、背がちっとも伸びないじゃないか」

 半ば拗ねたように言うテトに、フィシュアとシェラートは顔を見合わせた。互いに相手が、『それはないだろう』と呆れているのを見てとって、彼らはきまり悪そうに苦笑する。

 でもね、と二人を交互に見上げたテトは、嬉しそうに続けた。

「僕、二人に頭撫でられるのすごく好きだよ。シェラートのはちょっと乱暴な時もあるけどすごく安心するし、フィシュアのはふわふわしてすっごく気持ちいいから」

「テト! なんて可愛いの!」

 ぎゅっとフィシュアはテトを抱きしめる。するとテトは、くすぐったそうに笑った。

 テトの身体を抱きしめたまま、ふとフィシュアが顔を上げると、やはりシェラートは注意深そうに自分たちの様子を伺っていた。彼の手に握られたままの杯に目を留めて、フィシュアは首を傾げる。

「もしかして、あなたも塩水しょっぱくて嫌だった?」

 瞬間、シェラートは顔を強張らせた。

 その姿に、フィシュアとテトは、同時に噴きだす。けたけたと笑いだした二人に、シェラートはさらに渋面となった。

「そうならそうって早く言えばよかったのに」

 フィシュアは、シェラートの手から杯を取って、新しく水を注いでやる。

 手渡された杯の水を、シェラートは何とも不本意そうな顔で飲んだ。空になった杯をすすぎ、彼は無言で元あった場所に杯を戻す。

 魔人ジンを見上げたテトは腰に手を当てると得意げに言った。

「シェラート、塩はとっても大切だからしょっぱくてもちゃんととらなくっちゃダメなんだよ?」

「知ってる!」

「わっ、ちょ、やめてよ、シェラート! 背が縮むんだってば! フィシュア、助けてっ!」

 ガシガシと抑えつけられるように頭を撫でられて、テトは悲鳴をあげる。けれども、その叫び声すら楽し気で、フィシュアは二人を眺めながら、一緒になって笑い出した。

 ついさっきまで、魔人ジンとその契約者の存在を危惧していたはずなのに、早くも二人に馴染み始め、しかも彼らを微笑ましいとまで思っている自分に、フィシュアは自嘲する。

 そうして、彼女は安易な雑念を打つ消すべく、まだじゃれあっている二人に向かって、意地悪そうにニヤリと口角を持ちあげたのだ。


「さて。それじゃあ、約束していた説教を始めましょうか」

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