第4話 魔人
シェラートが目を覚ますと、見知らぬ女がいた。
頭の高い位置で一つに束ねられた薄茶の長い髪は、光に透けて琥珀にも見える。女が掲げている上着のせいで、顔のほとんどが翳りを帯びていたが、その中でどこまでも深い藍色の双眸が、自分を見下ろしていた。
その顔が嫌悪感を取り繕いもせず歪む。女が眉を寄せたのが、シェラートには見てとれた。
「別にいいじゃない。減るもんじゃないし。というより、わざわざ助けてあげた相手に対する第一声がそれなの?」
不機嫌さの入り混じった女の言いように、シェラートはわずかばかりむっとする。
「テトの村ではキスは結婚相手としかしてはいけないと決まっているんだ」
「ああ」
女は一人得心して頷いた。
「なるほど。だから、あんなに顔が赤くなったのね。それなら、テトはミシュマール地方の出身なの?」
「そう! よく分かったね」
まぁね、と答えた女の背後から、テトがひょっこりと顔を出す。彼の目から見れば随分と幼い少年は嬉しそうに声を弾ませた。
「シェラート!」
「心配かけたな」
テトの頭を撫でようとシェラートは腕を伸ばす。だが、起こそうとした身体は、女の手に押し戻された。再び、仰向けに寝かされたシェラートが顔を顰めれば、女は深い藍の双眸を細めて睨み返してくる。
「今、起き上がったら、また倒れるわよ。私は、二度もあなたを助ける気なんかないから」
呆れを多分に含ませた女の物言いにシェラートは口を曲げた。彼女の言い分が的を射ている分、反論もできずに、彼は口をつぐむ。
女はシェラートから視線を逸らすとテトに呼びかけた。
「テト。さっきの水、取ってくれる?」
「うん」
当初よりも随分と少なくなった水袋を彼女はテトから受け取った。目で飲みなさい、と示し、水袋をシェラートに差し出す。
手渡された水袋の口をシェラートは無言で傾けた。自力で水を飲んだシェラートに、テトは顔を輝かせる。瞬間、シェラートは自分がどれだけテトに心配をかけていたのかを自覚した。
「本当に悪かったな、テト」
シェラートを見上げたテトは、左右に首を振って、笑った。
「ううん、いいの。それよりも、シェラート。フィシュアがシェラートのこと助けてくれたんだよ!」
「フィシュア?」
「私の名前よ」
声のした方へ顔を向けると、女の深い藍の瞳とかち合った。
「そうか。一応、礼を言う」
「全く礼になってないんですけど」
フィシュアは不機嫌そうに息を吐く。
「まぁ、いいわ。それよりもここから動きたいんだけど。あなた浮かべる?
フィシュアの言を受け、寸の間、力の状態を確認したシェラートは肩を竦めた。
「できるけど、今は無理だな。できて物を出すくらいだ」
「物? なんでも出せるの?」
「大抵は。ただし、何もないところから作り出せるわけじゃない」
「そういうこと? それならどうやって出すのよ」
訳が分からないわ、とフィシュアは首を傾げる。横から顔を出したテトは、シェラートに代わって答えた。
「あのね。シェラートは別のある場所から物を取り寄せることしかできないんだよ」
「けど、それはテトが嫌がるからな」
「だって、泥棒みたいなんだもん」
テトは、ぷくっと頬を膨らませる。
みたいじゃなくて完璧泥棒だけど、とフィシュアは心の中で思いながらも、頬を膨らませたままのテトを見て、苦笑した。
だけど、今は仕方がない。特にこの二人はできるだけ早く日陰に入って休んだ方がいいだろう。手持ちの水は残り少ないのだ。このまま長時間ここに留まることになれば、自分まで倒れかねない。
「ねぇ。物を取り寄せることができるのなら馬を二頭と塩を一握りくらい出してほしいんだけど」
フィシュアの提案に、シェラートは『どうする?』とテトに目を配せた。テトは少し困った顔をして考え込む。
「大丈夫よ。別に盗みにはならないわ。馬と塩は私が仕えている領主の館から取り寄せて借りればいいだけだし。あそこなら馬もたくさんいるから二頭ぐらいいなくなっても分からないと思う。もしも、ばれた時は私が事情を説明するから」
それなら、と今度はテトがシェラートを見る。それを認めて、シェラートは片眉を上げた。
「ラクダじゃなくて、馬でいいのか?」
「馬の方がいいの。ここから水場まではそんなに遠くないし、長旅じゃない限り場所が分かっているのなら、馬の方が足が速くて役に立つから」
「分かった」
シェラートが了承するのと二頭の馬が現れたのはほぼ同時だった。いつの間にか、シェラートの右手に握られていた小さな袋に、フィシュアは驚く。
「早いのね」
「まぁな」
シェラートはふらつきながらもなんとか立ち上がると、塩の袋をフィシュアに手渡した。
ほとんど無意識で受け取った塩袋をフィシュアは見つめる。テトは黒の瞳をきらきらと輝かせて彼女を見上げた。
「ね! すごいよね。本当に魔法みたいだと思わない?」
「みたいじゃなくて、魔法だって何度も言っているだろう」
言いながら、シェラートはテトの頭を掻き撫ぜる。
フィシュアは呆然と二人の様子を眺めた。その中途、合わさった翡翠の目が不可思議そうな色を宿した。
「どうかしたか?」
シェラートは訝しげにフィシュアに尋ねた。続いて、フィシュアの様子に気付いたテトが、心配そうに彼女の藍色の双眸を覗き込む。
「大丈夫、フィシュア? フィシュアも日射病になっちゃったの?」
気遣う声に、フィシュアははっとする。慌てて笑顔を形作った彼女は、首を振った。
「何でもない。大丈夫」
「本当に?」
「ええ」
それでもなお、心配そうな顔を崩さない少年に、フィシュアは「ありがとう」と微笑んだ。そっとテトの頬に掌を寄せた彼女は、腰を屈めると、そのままテトの柔らかい頬に口付ける。途端、テトの顔は赤くなった。
「おまっ、また! テトになんてことするんだ!」
シェラートは、慌ててテトを自分の背後にかばった。
その反応具合が可笑しくて、フィシュアはくすくすと笑う。
「さっきも言ったけれど、いいじゃない別に減るものじゃないし。それにほっぺだから大丈夫よ。ミシュマール地方の婚姻のキスは口にだったはずだから全く問題ないわ」
「そういう問題じゃないだろう!」
「あら。あなたもして欲しかった?」
「断る」
即座に拒絶されたフィシュアはわずかに眉を寄せた。
「心外だわ。喜ばれることはあっても、断られることなんて一度もなかったのに」
フィシュアは、ふいとシェラートから顔を逸らす。
シェラートは、彼女の言葉を無視すると馬上に、まだ顔をほてらせたままのテトを乗せた。自身も、テトの後ろに跨る。
それを見たフィシュアは、ますます表情をむっとさせた。
「あなた、ちゃんと道、分かってるの?」
「大体の方向しか分からない。正確な場所が分かっているのなら、とっくの前に転移している」
「……へぇ」
フィシュアは、何でもない風に答えたシェラートの言葉を噛み締める。つまり、正確な場所が分かってさえいれば、
頭上に位置するシェラートを一睨みしてから、フィシュアも馬に跨った。
「付いてきなさい」
手綱を操り、フィシュアはすぐさま馬を走らせる。
シェラートは溜息をついて、一つに纏めた薄茶の髪をたなびかせて前を行く女の後ろ姿を見据えた。
前に座らせているテトは、まだ赤い顔のまま頬を押さえている。
もう一つ嚥下し損ねた溜息を落としたシェラートは、テトが間違っても馬から落ちないようにと身体を支えてやりながら、先を走るフィシュアに続いて、馬を走らせ始めた。
フィシュアは、薄色の空と砂漠の境目を睨み、馬を駆る。
シェラートの使った技を間近に見て、
瞬時に、異なる場所にあるものを取り寄せることができる。正確な場所さえ分かれば一瞬で移動することも可能。他にはどんな技を使うことができるのか。
どの技にしても、人が成しえない力であることには違いない。
そして、その力は、強大すぎるほどに強大だ。
シェラートの場合は契約者がテトであるから特に問題はないように思う。
しかし、もしもこの強大な力を手に入れたのなら、人間は何をしでかすか分からない。もとは善良であった人間でも力に溺れ、狂いださないとは言い切れないのだ。
その時、自分たちは、本当に彼らに対抗するだけの力を持ちうるのだろうか。答えの出ない問いに、フィシュアは苦い笑みを浮かべた。
とりあえずは、
だから、ひとまず思考を中断させることにしたフィシュアは手綱を握り直すと、今度こそ真っ直ぐに前を見据えて、水場へと砂の道を走り続けた。
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