第3話 少年
女が、少年に連れられてやって来た場所に倒れていたのは、一人の男だった。
と、言っても、初めて男を目にした時、彼の顔の上に上着がかけられているのを見た彼女は、死人かと思い、心底ぎょっとしたのだが。
男の髪色は茶味がかっているが、この国では珍しい黒。瞳の色に関しては、今はまだ、瞼がかたく閉じられているので確認のしようがない。顔の外観で男を評価するならば、よくて中の中ぐらいだろうか。面立ちも、この国のものとはどこか違っていて、異国人のようだった。
黙りこくったまま立ちつくす女を、少年が心配そうに見上げる。
それに気付いた彼女は、慌てて男の傍に膝をついた。まじまじと人間観察している場合ではない。
女は、男の額に手を伸ばす。
「どう?」
少年が、不安げに尋ねた。
「どうって……」
女は少し呆れ気味に少年の方を見、次いで、意識を手放したまま横たわっている男へと視線を動かした。
男の顔はかなり赤い。体は熱を帯びて火照っている。
どう考えても、これは。
「日射病ね」
ただし、下手をしたら、命にかかわるほど重度の。しかし、これについては言わないことにした。
「助かるの?」
少年の黒い瞳が、また泣き出しそうに揺れ動いた。今ここで、泣きだされたら、今度はこの少年が脱水症状に陥って倒れてしまいそうだ。
助けるわよ、と、女は溜息をつきながら、答える。
「ここまで来たんだから。それに……この人、
女は、傍らの男を指して尋ねた。
初めは、異常なほど赤い顔ばかりに気を取られていて気付かなかった。しかし、男の手首を見て、目を疑う。
手首に刻まれた黒の紋様。それこそが、彼が
けれども、目の前の男の手首に刻まれている紋様だって充分細緻に絡み合っており、具体的に何が描かれているのかさえ一切見当がつかない。よく街の若者たちが、
初めて目にするものではあったが、確かにこの紋様ならば、人に真似することができないだろう、と女は納得する。
「うん、そう。
少年が頷く。女は、それを認めると、少年を安心させるよう微笑んだ。
「なら、大丈夫よ。
少年は今度こそ心から安堵したように、ほっと、溜息をつき、表情を緩ませた。
女は、彼に問う。
「あなた、水は持ってないの?」
少年は、きょとんとして答えた。
「うん、今はないよ?」
「ここまで来る間に全部飲んじゃったの?」
「ううん、途中で盗まれちゃった」
なんてこともないように少年は話す。女は、驚いて尋ねた。
「でも、
「うん、シェラートは取り返そうとしてくれたんだけどね、その人たちの中には、僕よりも小さい子たちがいたから、僕より喉が渇いてるんじゃないかって。可哀相だと思ったから、僕がやめてって言ったの」
少年の答えに、女は言葉を失った。
少年は、目の前にいる女が何に対してそんなに驚いたのか、ちっとも気付いてないらしく、相変わらずきょとんとしている。
この少年は、まだ幼い。だから、仕方がないのかもしれない。けれども、事の重大さが全くと言っていいほど分かっていないのも事実。
砂漠を水なしで、しかも徒歩で横断するなど、倒れて当り前、死んで当り前の自殺行為である。
シェラートというのはこの
なぜ無理矢理にでも盗人から水を取り返さなかったのか。
「あなたね……」
女は、自身の額に掌を押し当てる。
今までとは違う女の声音から、いち早く何かを感じ取ったのだろう。少年は体をびくりと震わせた。少年の様子を見た女は、怒りを通り越して、途方もない呆れを感じてしまった。
「まあ、いいわ。説教は後にしてあげる」
それを聞いて、少年は目に見えてしゅんとした。どこで何を間違ったのかは、未だに理解できてはいないようだが、この
女は、肩を竦めると、少年の栗色の頭をぽんぽんと撫でた。少年が、びっくりして女を見返す。
確かに、少年だけを怒るのは筋違いだ。きっと、少年は本当に何も知らなかったのだろう。この幼さだ、砂漠を渡ることだって、もしかせずとも、初めての経験だったに違いない。
しかし、だからと言って許されるような問題ではなかった。もしも、意識を失っているこの男が
しかも、この
つまり、責任はどちらにもある。怒るという行為は、怒る側も、怒られる側も、決していい気分になるものではないし、ものすごく疲れる。ましてや、この炎天下。砂漠の真ん中で説教などしていたら、自分まで倒れる可能性は否めない。そんなの御免こうむりたい。怒るなら、どこか日陰に移動した後。二人纏めていっぺんに、だ。
その為にも、まずこの
そう結論付けた女は、腰にくくりつけていた水袋を取り出すと、喘ぐ
女は、ついと眉根を寄せる。どうやら、
自力で水を飲む力すら、もう残っていないのか。仕方がない。彼女は、あてがっていた水袋を、
「どうしよう、本当に大丈夫?」
少年の顔がまた不安気に曇る。女は、大丈夫だ、とまた少年の頭を撫でてやると、自分の口に水袋を傾け、水を一口含んだ。
頭をかがめて、自身の唇を男の唇に押し当てる。相手の頭を支えながら、水が零れぬようにと塞いだ口へ水を流し込んだ。目の端に映った視界で、男の喉がこくりと動く。
問題なく嚥下された水に、女は胸をなでおろした。これで、飲み込めるのならひとまず安心だ。本当は塩があった方がいいんだけど。
思いながらも、再度口に水を含んで、同じように男の口内へ流し込んでやる。それを数回繰り返した後、女は、男の体を冷やす為に仕える布がないか、と少年に尋ねる為に振り返った。少年を見て驚く。
「どうしたの!? 顔が……真赤だわ!?」
まさか、この子も日射病にかかってしまったのではないかと思い、彼女は急いで水の袋を少年に差しだした。無理矢理少年に水を飲ませる。少年も、急いで袋の中の水をごくごくと飲んだ。
ぷはぁっと息をついた少年は、女の顔を伺いつつ恐る恐る問いかける。
「今のって、キス?」
少年の言葉に、女は一瞬、硬直した。少年の目が、ちょっと輝いているような気さえする。女は、空を仰ぎたくなった。
さっきまで、
心配して損した。女は、盛大に溜息をついて答えた。
「今のは、ただの
少年は、水袋を手にしたまま、目を丸くする。彼女は少年の手の内から、無言で水袋を取ると、彼を放っておくことにした。
とりあえずは、男の体を冷やす為の布の用意が先決だ。女は、自身が纏うスカートの裾を両手で思い切り引き裂いた。破りとった布を、さらに何枚かに裂く。水袋から水を垂らして、充分に濡らした布を、男の両脇と首筋、額にあててやった。
応急処置としては、これでいいだろう。本当は、日陰に連れて行った方がいいとは思うが、自分とこの少年だけで、この
女は、とりあえず自分が陰となることにした。じりじりと肌を焼く太陽を背にし、つくった陰へ、可能な限り
「あなたも、こっちに来て陰に入っておきなさい。水も、もう少し飲んで」
少年は素直に頷くと、駆け寄って来て女の陰へ入り、ちょこりと腰かけた。女から、水袋を受け取り、こくこくと水を飲み進める。
水を飲み終わった少年は、ぷはぁっと息を吐き出すと、女を見上げ、首を傾げた。
「お姉さんは、陰に入らなくて大丈夫なの?」
「そうねぇ、ちょっと暑いけど、このくらいなら大丈夫よ。そんなに長くここにいるわけじゃないし」
第一、ここには女がつくり出す陰があるのみで、他に入れそうな陰は一切見当たらない。
心配しないで、と言うように、女は少年に微笑みかけた。だが、それを見た少年は途端顔をしかめる。
「だけど、シェラートは大丈夫だって言って、僕に上着で陰をつくってくれただけで、自分はほとんど陰に入ってなかったから、いきなり倒れちゃったよ?」
少年が、少し怒ったように言う。
女は、呆れた目で、ちらりと自分の陰の中に横たわる
そんなことをしていたのか、と未だ意識の戻らぬ
しかも、彼の行動こそが結局、少年を多いに困らせることになっているのだから、どうしようもない。全く、自分の契約者に、しかも、こんなに小さい子どもに心配をかけさせるとは。目を覚ました時には、この子の倍、説教しなくてはならない。
女が、少年に視線を戻すと、まだ少年の黒い双眸がじっとこちらを見つめていた。
「分かった。私も陰に入っとく」
言って、女は男の体にかけっぱなしになっていた上着を取った。広げた上着で、頭を覆い、陰をつくる。
少年は、満足そうに笑みを広げた。
「いい子ね」
女がそっと少年の頭を撫でて、囁く。褒められたことに照れたのか、少年の頬がかっと色づいた。栗色の髪は、子ども特有の柔らかさがあり、気持ちがいい。
きっと、少年は女も
優しく髪を撫でゆく女の手。心地よさそうに目を細めていた少年は、突然「そうだ!」と声を張り上げた。
「まだ、お姉さんの名前を聞いてなかった!」
そう言えばそうだったわね、と答えながら、女は少年のあまりの唐突さに、くすくすと笑みを零してしまった。
「私は、フィシュアよ」
「フィシュア、……さん?」
「フィシュアでいいわ」
フィシュアが笑いかけると、少年は大きく頷いて言った。
「うん。フィシュア……、うん。フィシュアの茶色の髪は、お日様に当たると、きらきら金色に光って綺麗だね! それに瞳の色も! すっごく綺麗な藍! 僕、海ってまだ見たことないんだけど、すっごく綺麗なんだって! きっと、フィシュアの瞳の色とおんなじなんだろうね!」
身を乗り出しながら、少年は女の容姿を褒めた。その熱心さに、彼女は、思わず声を立てて笑いだす。
「何か僕、変なこと言った?」
急に笑い出したフィシュアを見て、少年は不思議そうに首を傾げる。それがまた、フィシュアにとっては可笑しかった。
「違うの。そんな風に言ってもらったのは初めてだったから、嬉しかっただけ」
フィシュアは、眦に滲み始めた涙を指先で拭う。
今までも、この髪と瞳の色を褒めてくれる人がいなかったわけではない。けれど、ここまで率直な感想は初めてだった。そして、少年の素直な感嘆は、飾り気がない分、今まで貰ったどの褒め言葉よりも、すとんと身の内に落ちて、本当に嬉しいものだったのだ。
「本当? なら、よかった」と少年は、ほっと胸をなでおろす。
「うん。ありがとう」
フィシュアは、ふわりと微笑んで、礼を述べた。それから、
「えっと、この
「そう、こっちはシェラートで、僕はテトラン」
「
「うん! お母さんがつけてくれたの!」
テトランは、勢い込んで頷く。
「素敵な名前。きっといいお母様なのね」
フィシュアがそう言うと、テトランはすごく嬉しそうな顔をした。が、同時に、少年の顔が少し翳ったようにも見えた。
しかし、フィシュアが、少年が持つ違和感に首を捻りかけた時には、テトランの明るい声が、その考えを打ち消していたのだ。
「だけど、みんなは、僕のことテトって呼ぶの。だから、フィシュアもテトって呼んで?」
「分かったわ」
フィシュアが答えると、テトは笑みを返した。にこにこと笑みを広げる無邪気な少年。フィシュアは、あることを思いついて、にやりと意地悪く口の端を上げる。
「テト」
フィシュアに名前で呼ばれて、テトは嬉しそうにパッと顔を輝かせる。
――と、フィシュアの顔が近づいてきたかと思った次の瞬間、テトの頬に何か温かく柔らかなものが触れ、再び離れていった。
「よく頑張ったわね」
フィシュアの囁きが耳元をくすぐる。次いで、また髪を撫でられたかと思ったら、終にはその手も額から離れた。
テトは何が起こったのか分からず、目の前のフィシュアをぼんやりと見つめた。
フィシュアは人差指を自身の唇にあてがい、艶やかに笑う。
「キスっていうのは、こんな風に心のこもったものを言うのよ」
それは、自分が彼女に何をされたのか悟るには充分な言葉だった。テトの顔が一瞬にして、火がついたように真赤になる。
フィシュアは、可笑しそうにくすくすと笑った。耳まで火照らせて、固まっている少年の頬へ、彼女はそっと手を伸ばす。
だが、フィシュアがテトに触れようとしたその時。彼女の手は、突然別方向から伸びて来た手に掴まれ、阻まれた。
「――触るな。お前、テトになんてことを!」
怒気も露わな低い声。フィシュアが、声のした方向へ目を向けると、翡翠色の双眸が、彼女を鋭く睨みつけていたのだ。
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