第7話  どうしてこうなるんだ 1

  しょんぼりと帰って行く樫野を見やりながら、みなとはやれやれと首を振る。

 とんだ災難の日である。

 厄払いに行きたいところだが、今は一秒でも早く、榊に会いたい。

 ここまで誰かを恋しく思ったことが、かつてあっただろうか。

 思い通りにならないから、なおさらなのかもしれないが、グラスを差し出す榊のきれいな長い指が、たまらなくそそられてしまうのだ。

 店の看板が見えてきて足を速めるみなと。突然、クラクションを鳴らされ、暗がりへ目を凝らす。

 歩道の脇、ワゴン車が停められ、初音と義三がその横で嬉しそうに手を振っていた。少し離れたところには、泰一までがタバコを吸っている姿があった。唖然である。


 まったく、何を考えているんだ。


 本社で共に働いていた時には、こんなこと一度もなかったというのに……。帰りにどこかへ寄ることもない、ましてや休日に会う発想もなかった二人である。どうして急に初音がこんな行動をとるのか、謎である。怒りたいところだが……、面倒。

 「何、どうかしたんですか、先輩」

 よそ行きの声で話しかけられた初音は、何がそんなにおかしいのか、ギャハハハと腹を抱えて笑う。

 「いやだこの子、他人行儀で話してんですけど、これって、怒っているってことかしら? 超ウケる」

 「そんなこと、ないだろう。なぁみなとちゃん。そんなことないよなぁ」

 「あります。何なんですか? この前といい、今日といい。まるで私のことつけまわしているみたいじゃないですか?」

 面を食らった初音が、ケラケラと笑い出す。

 「だってさ、折角、また一緒の職場で働けるようになったのにさ、みんなでまたお祝いしようと思っているのに、いつも一人で帰っちゃうだもん。もう酷いよ。みなと、私をいつも置いてきぼりにして」

 初音が行き成り抱き付いて来て、みなとは苦笑いで剥ぎ取る。

 本当にこいつはゾンビか。

 「もうつれないなぁ」

 ふて腐れるように言う初音を見やりながら、つい舌打ちが出てしまうみなとである。

 「みなとちゃん、折角だからこれから」

 「行きません」

 「おおお、今日はご機嫌ななめですな」

 きっぱり言い切るみなとを見て、義三は目じりを下げ大喜びする。

 プイと向きを変え、行ってしまおうとするみなとに、タバコを足でもみ消した泰一がおもむろに口を開く。

 「あんた、本当にここ、通っていたんだ」

 仕事帰りらしく、作業着を着た泰一に言われ、みなとは口を尖らせる。

 「別にいいじゃん。私の自由でしょ」

 「まぁまぁここでは何だからさ、中へ入ろう」

 初音が割って入る。

 「俺、ここの店、やばくねぇ」

 多少は自覚があるらしく、義三が躊躇するのを横目で見ながら、みなとが鼻で笑う。

 「他、行けばって顔、今しましたよね?」

 苦笑で義三が言う。

 何かを言い返してやろうかとも思ったが、ばからしく思ったみなとはそのまま無視して、階段を下りていく。

「待って待って」

 ちゃっかり、初音がみなとの腕を取り、にこやかに二人を手招く。

 「ちょっと」

 「良いから良いから」

 

 店へ入って行くなり、気が付いた榊が声を掛けてくる。

 「みなと、お帰り」

 それを聞いた初音の目が輝く。

 「ええ~良いなみなと。私も、言って欲しい」

 30過ぎの女が語尾を上げて言うのではない。

 どっ突きたいが、ここは大人の対応である。

 「良いじゃないですか。成瀬さんだって、粳さんがいるじゃないですかぁ」

 本当、くたびれる相手である。

 わざとらしく語尾を上げて話すみなとに大喜びしながら、初音がいやだーと躰を押してくる。

 ムッとしながら、それでも引き攣り笑いをするみなとを、泰一が冷ややかな目で見る。

 「何よ」

 「別に」

 それにしても、初音ののりは少々尋常ではないような気がしたみなとは、それとなく義三に尋ねる。

 「今日の先輩、おかしくないですか?」

 「いや~いつもこんなもんじゃないの」

 義三では話にならないと思ったみなとは、何となく泰一を見てしまっていた。

 仏頂面した泰一と目が合い、慌ててみなとは目を反らす。

 変な空気が流れていた。

 泰一はつまらなそうに酒を煽り、義三はひたすらにやにやと意味もなく相槌を打っている。初音は何がそんなにおかしいのかと尋ねたくなるくらい笑いが止まらずにいた。

 いよいよ我慢しきれなくなったみなとが、威勢よく席を立つ。

 「何々どうした?」

 向かいに座っていた義三が、大げさに驚いて見せる。

 無視をしたみなとはそのままくんたー席へと移って行く。

「大丈夫ですか?」

 話に盛り上がっている初音たちを見やってから、みなとは小さく笑い、首を竦める。

「無理」

 一言で片づけたみなとに、榊は苦笑しながらお冷を差し出す。

 「なかなかバラエティに富んだ仲間ですね」

 「仲間じゃないから。あの人たちが勝手に群がっているだけなんです」

 満面の笑みで答えるみなとに、榊は体よく愛想笑いで済まし、スッと離れて行ってしまう。

 榊はいつもそうだった。

 掴みどころなく、するするとみなとの気持ちをもてあそんでは、するりと抜けて素知らぬふりをする。

 それは今まで、みなとが男たちにしてきたことだった。

 複雑な心境でいるみなとは名前を呼ばれ、初音の隣に座り直す。

 「みなと、今度の日曜って、何か予定、入っている?」

 男と別れたばかりで、そんなものない。

 目の端で榊を捕えながら、ほほ骨筋をこれでもかというくらい上げたみなとは、曖昧な笑みを浮かべ、サラダスッティックヘ手を伸ばして行く。 

 「海に、行きましょうよ」

 「海ぃ?」 

 みなとは思わず顔を顰める。

 何が悲しくて、休日をつぶして、こんな奴らと過ごさなければならないんだ。

 心の声がダダ漏れのみなとに気が付く由もなく、初音がどんどん話を進めて行ってしまう。

 「私、水着を衝動買いしちゃったって話したら、日曜にでも、海、行くかって話になったの。みなとも行くでしょ」

 「行かない」

 ニコニコしたまま即答するみなとに、初音は大げさにのけぞる。

 「折角知り合ったわけだし、お互い、仲良くやりませんか」

 真面目ぶった義三の言葉に、みなとは、かったるいと思いながら、もじもじした仕草で、勿体つける。

 「別に良いんじゃねぇ。行きたくない奴と行ってもしらけるだけだし。て言うか、成瀬さんてさ、結構えぐい人でしょ? 虫一匹も殺せません。て素振りしてるけど、ぜってーそんなことないよね。もうそういうの、なしにしません。酒が不味くて仕方がねぇ」

 敵意をむき出しにする泰一に、みなとは怒りが沸騰しそうである。

 「おーい泰一それはちょっと言い過ぎじゃないか」

 「みなと?」

 みなとは黙ったまま、静かに席を立つ。

 「みなと? 気にすることないよ」

 「そうだよみなとちゃんは誰よりもかわいい。俺の女神さまだ。惚れ、泰一謝れ」

 「私、トイレに行ってくる」

 「じゃあ私も」

 「ごめん、ちょっとだけ一人になりたい」

 「みなと」

 この手の演技はお得意のもの。足早にトイレに姿を消したみなとはほくそ笑む。

 粳泰一、責められなさい。そして私へ降伏するがいい。

 あんな言葉で、へこたれるみなとではない。

 

 時計を見やり、出て行くタイミングを計る。

 トイレの扉がノックされ、初音が声をかけて来るまで3分50秒。

 「みなと、大丈夫?」

 「みなとちゃん、俺からも謝ります。だから」

 ドアを開けて出てきたみなとを見て、二人は困惑しながらご機嫌取りをしてくる。

 「大丈夫」

 無理に笑うみなとの瞳は、赤く潤ませていた。

 席に戻り、みなとは自分の荷物を手にすると、頭をさげる。

 「今日は私、帰ります」

 「みなとちゃん」

 義三の呼びかけを振り切り、カウンターにいる榊へ、自分の分の会計を頼む。

 これは一石二鳥である。

 訳ありの瞳。これを見て、揺れない男はいない。

 お金を受け取りながら、チラッとそんなみなとを見る。

 さりげなくみなとは目線を外し、お釣りを受け取り、そのまま立ち去ろうとした時だった。

 「お客様」

 ヨッシャ、来たー。

 一呼吸置いたみなとが振り返る。

 「これ、良かったらお使いください」

 差し出されたものを見て、みなとはきょとんとしてしまう。

 「知り合いがやっているペンションなんです。人手が足りないとかで、俺、そっちに移るかもしれないから」

 「行きます」

 ぱっと明るい顔になったみなとを見て、榊が微笑む。

 

 夜風が吹く表に出たみなとは、勝ち誇った面持ちで店を顧みる。


 割引券とともに渡された、榊のアドレスが掛かれたメモ書きを眺め、ほくそ笑む。


 恋の駆け引きはお手の物。


 浮かれ気分で歩くみなとへ、追いかけてきた初音が声をかける。

 「ラッキーだったね」

 「まぁね」

 「明日の6時、集合でいい」

 ん?

 足を止めたみなとは、いつの間にか横へ並んで歩く初音の顔をまじまじと見る。

 「明日、楽しみだね。じゃあ」

 「先輩、私、行きませんよ」

 「ダメダメ、あのお店の人も、誘っちゃったから」

 嘘?

 初音はにこにこと手を振りながら、当然のように義三が運転するワゴン車へ乗り込み、みなとの横を走り去って行ったのだった。

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