第6話 恋なんてさ風邪を引くようなもの 6
嫌な予感はあった。
あの含み笑いされてから、何となくだが、みなとは心のどこかで覚悟はしていた気がする。
オフィスに入って行ったみなとは、親しげに手を振るその人物を見た瞬間、固まってしまう。
「来ちゃった」
来ちゃったじゃない。
眉間に皺を寄せたみなとが、小声で呟く。
「もう、みなとがいない職場は地獄だった」
涙ぐみながら再会を喜ぶ初音に、みなとは殺意さえ抱く。
再会と言っても、一週間も間は空いていない。
大袈裟に喜ぶ初音を横目に、みなとはげんなりする。
転勤になった理由は、大体想像がつく。
失敗続きで、居ずらくなった初音は自ら、みなとがいる千葉の営業所への異動願い届を出したのだ。
村上にとって、願ってもない届である。
出されたその日にあっさり受理され、にこやかに送り出されたのだった。
職場が変わっても初音は初音である。
配属当初はあったはずの笑顔はなく、渋顔で誰もが初音に仕事を依頼するのだが、その大半がやり直ししなければならないのは、相変わらずである。
「あの人ってさ」
回りくどく、初音のことを言ってくる女性社員たちに、みなとは笑顔を振りまき、
「本当、困っちゃいますよね」
と、話を合わせておく。
しかし腹の中は、煮えくり返っていた。
懐くな。寄るな。関わりたくね~。が本音である。
時計を見上げるみなとの中で、カウントダウンが始まっていた。
上司は誤魔化せても、初音にはウルウル作戦は通用しない。まくしかないのだ。
5時ぴったりに席を立ったみなとは、一目散に更衣室へ向かう。
「みなと、ちょっと待って、一緒に」
冗談じゃない。
慌てて着替えたみなとは、猛ダッシュで駅へ向かう。
ヒールで走るものではない。
靴擦れで足がかなり痛んだ。
この先が思いやられてしまうみなとである。
イライラを解消したみなとは、何気に携帯を開く。
着信履歴に村上の名前を見つけ、みなとは顔を顰める。
父親と同じくらいの年の上司。
みなとは父親に、愛されていたのか自信がない。
家に寄り付かず、帰って来ても、母親と口論するか家から追い出されるかのどちらかだった。母親が言うように、愛らしく甘えられたら、少しは変わっていたのだろうかと、ふと考えてしまう。
みなとは村上と会う時はいつも、パパ、パパ。と呼んでいた。
べたべたと甘えて、おねだりをして、腰を振るのだ。
それはそれで嫌じゃなかった。しかし、妻にばれて修羅場というのは、御免である
着信拒否を設定したみなとは溜息を吐く。
深入りは禁物である。
人の波に押され改札を出たみなとは、固まってしまう。
「ああ、みなとちゃん。今日もきっちりこの時間に着いたんだ」
「何であんたがこんなところにいるのよ」
「営業だよ。こっちの取引先の人と会う約束があって、もうそろそろみなとちゃんが、帰ってくる頃かなぁって思ってたら、本当に出てきたから、驚いちゃった」
無視をして通り過ぎるみなとの隣へ慌てて並んだ樫野が、ニコニコと話し掛ける。
「ご飯、まだでしょ。俺、奢るから、どこか行かない?」
「行かない」
「そんなこと言わずに」
ギロリと、みなとに睨まれた樫野が、お道化て見せる。
「私、用事がありますから」
「大丈夫。俺、日本料理のうまい店、知っているから」
「何が大丈夫なんですか? 用事があるって聞こえませんでした?」
「みなとちゃん、あいつだけはやめておいた方がいい。悪いこと言わないから」
その言葉を聞いて、みなとは頭に血を上らせる。
「はぁ? 何であんたがそんなこと知っているのよ。ストーカー? 気持ち悪い」
「ストーカーなんて、止してよ。僕は純粋に」
「これ以上続けるなら私、ここで大声出すわよ」
大きく息を吸い込むみなとを見て、樫野は慌てふためく。
「分かった。分かったから。今日のところは帰ります。だけど、忠告は素直に聞いた方が」
「すいません、誰か……誰か、この人、痴漢です」
本当に大声を出された樫野は、慌ててその場から逃げ去って行くのだった。
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