第5話 恋なんてさ風邪を引くようなもの 5
――配属されて三か月。
「みなとちゃん。次の日曜日さ」
軽々しく話し掛けてくるこの男、樫野琥太郎(かしのこたろう)を、うざいと思いつつ、やんわりとみなとは払いのける。
どういうわけか、この樫野だけには、どんな手を使っても通じないのだ。
樫野は営業課でもダメ社員で通っている男で、熊のような体格に、禿げかかった頭をポリポリ書きながら、みなとを見つけては誘ってくるのだ。
課が違うと言っても、本社とは違って狭い営業所。ブースで区切られているだけの職場なゆえ、顔を合わす機会が多々ある。
おかげで日に数度、このようなやり取りをしなければならない。
打てず嫌わずのみなとだが、このむくっと汗だくの樫野だけは、ベッドを共にしようとは、どうしても思えないのだ。
みなとは時計をちらりと見上げ、デスクを片付け始める。
「城ヶ関君、今日少し」
上司の言葉何度まるで耳に入っていないみなと。
スッと横をすり抜け、そそくさと帰って行ってしまうのだ。
何が何でも快速に乗りたいみなとなのだ。
仕事に支障をきたすようならと、やんわりと居住を替えることを進めてくる上司の言葉も何の其の。
「ええ~、でも~、ママが~」
「お母さんがどうかしたの?」
俯き涙をためたみなとが、鼻を一回啜り上司を見詰める。
ロックオン。
「少し、体調が悪くって~」
まんざら嘘ではない。
「どこが悪いの」
「原因不明で。今、検査入院しているんですぅ」
目にいっぱいの涙をためての名演技に、上司がもらい泣きで励ましてくる。
しめしめである。
これで当分、残業は頼まれないであろう。
とにかく、狙った獲物を手に入れるまでは、抜かりなく遂行せねばならないのだ。
横浜に着くなり、みなとはトイレへと駆け込む。
念入りにメイクをし直して、いざ出陣。
今まで出会った男の中で、榊はなかなか手強い。いろんなモーションを掛けるが、靡いて来ないのだ。好きとか嫌いとか、もうそんなものはどうでも良くなってきているみなと。もはやこれは女の意地である。
ジャズが流れる店内。カウウターにいる榊がみなとを見つけ、お帰り。と声を掛けてくる。
あの日以来、みなとはこの店へ通い詰めているのだ。
みなとは指フェチで、この長く細い指が好きで好きで堪らない。
カクテルを作る榊を、ついつい見とれてしまうみなと。
だが、この至福のひと時を往々にして壊す者がいる。
「みなと、見っつけた」
露骨に嫌な顔をするみなとを見て、初音が嬉しそうに隣へ座ってくる。その横には義三までいた。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないでしょ。みなと、いくら連絡しても連絡くれないから、探しに来ちゃった」
はぁ? である。
千葉の営業所へ移ってから、縁が切りたくて、あえて、無視していたのだ。
なぜ、気づかない?
「良かった。多分ここじゃないかなって、思っていたんだ」
その根拠は何なんだ。言ってやりたいが、今は榊の前。本性を曝け出すわけにはいかない。
ここはひとつ、大人になって……。
「ごめん。何かと不慣れで。それどころじゃなかった」
「そうだよね。遠いもんね」
「いっらしゃいませ。ご注文は?」
お冷を差し出す榊の手を、つい見とれてしまうみなとを見て、初音がにやにやとする。
「いいわ。その正直さが男を魅惑するんだね。マスター、私、とりあえずビールで」
何を言ってんだこいつ。少しは空気を読め。
目を大きくするみなとに全く気が付かない初音である。
「俺は焼酎をロックで」
そこで、初めて義三がいることに気が付いたみなとは、容姿を見て二度びっくりする。
何かのパーティの帰りなのか、スーツなど着込んでいるのだ。それが笑えるほど似合っていないというおまけつきだった。
「あら蝦方さん、どこか行ってきたんですか?」
「ども。義三で良いっす。俺はいつもこんな感じっす」
それを聞いた初音が、キャハハと笑い出す。
「良く言うわ。みなとに会うから、気張って来たんでしょ」
「え~そうなんですかぁ」
甘ったるい声で言われ、義三の顔が赤くなる。
「あぁごめんごめん。席、変わってあげる」
チッ。
舌打ちをするみなとに気が付かず、初音は自分の席を譲り、ニコニコと二人を見る。
よしてくれ~。
みなとの心の声である。
みなとはちらちらと榊を見る。
気が気で仕方なかった。
まだ、特別な関係になったわけではないが、獲物を狙った雌ライオンとしては、予定が狂ってしまうではないか……。
「あっそうだ。私、みなとに報告があったんだ」
含み笑いで話す初音を、憎悪の目でみなとは見ていた。
ウウウ。ぶっ飛ばしてやりたい。でも……、榊が見ている。
引き攣り笑いをして、
「なぁに、報告って」
これでもかというくらいに頬を上げるみなとを見て、初音は勿体ぶる。
「私ね、フフフフ。やっぱりいいや」
「何よ。言いなさいよ」
ついにイライラが爆発してしまったみなとだったが、ハッとなり慌てて榊を見やる。
セーフ。
榊はほかの客のところへ行っていて、まったく気が付いていない様子だった。
そんな二人のやり取りを黙って聞いていた義三が、立て続けにお代わりを二杯すると、勢いよくグラスを置き、立ち上がたのだった。
いちいち榊を意識しているみなとを見て、腹が立ってきた義三である。
「もうそろそろ、違う店、行かないか?」
「私は別に良いけど、みなとはどうする?」
そう言いながら、初音がみなとを見る。
「ええ、私? 私は良いよ。お二人さんでどうぞ」
「そう言わず行きましょう。俺、奢りますよ。ふぐでもうなぎでも任せてください」
「だから私は」
義三はさっさと支払いを済まし、先に店を出て行ってしまう。
「じゃあマスター、また来るね」
渋るみなとを強引に立たせた初音が、苦笑する榊に手を振る。
最悪だ。最悪最低。
店を一歩出たみなとは、初音の手を振り解き、怒りを顕わにする。
それに驚いたのが、義三だった。
「良いねみなとちゃん。俺、そっちの方が好きだな」
呑気に言う義三をひと睨みすると、みなとは一人で帰って行ってしまうのだった。
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