第壱話 カレー屋の看板娘

 カレーの香りと雨音だけが、お店に漂う日だ。

 毎週いつもの時間に、いつもの席に座るお客さんがいた。

 今日もそろそろ来る頃だ。

「いらっしゃいませ」

 扉の鈴の音を聞き挨拶をすると、噂のお客さんだった。

 今日は大雨でお店が暇だったけれど、ようやく一名様をご案内できる。

 そのお客さんはいつものステッキに、シルクハットを身につけた、老紳士だ。

「いらっしゃいませ。足元の悪い中、ようこそ。お冷になります」

 お客さん用の浄水を差し出すと、わざわざ手を差し出して受け取ってくれた。手が触れると、老紳士はニコニコと微笑んだ。

「いやはや、今日は大雨ですなー。老体に堪えますのう」

「うふふ、大変でしたね。それでは、ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」

 手をそっと離して、私は調理場に戻った。

 この時間はお母さんも出かけており、店番は私一人。ちょうどお客さんの入りが少ない日にこの雨、もうお客さんは来ないかもしれない。

 ガス代が無駄にならなかったと、カレーをかき混ぜる。

 するとお客さんから声がかかった。

「お嬢さん、ちょっとよろしいですかな」

「はーい。……お待たせしました。ご注文はお決まりですか」

「豆カレーを小盛りで一皿、それからナンを頼もうかな」

「豆カレーの辛さはどれくらいがよろしいですか」

「いつものより、すこし甘いものが食べたい気分ですな」

「かしこまりました」

 お客さんが熱心に私を見つめているけれど、目を見ているわけではないみたい。今は気にせず厨房に戻る。

 やはり視線が気になるので振り返ると、お客さんはにっこりとシワを蓄えた顔で会釈した。

 エプロンの下の服が学校の制服だから気になるのだろうか。

 愛想笑いで返し、注文を用意する。

 


 出来立ての豆カレーとナンをトレーに乗せて、お客さんに給仕した。

「お待たせしました。ご注文のお料理でございま……お客様、どうされました? 天井に何か?」

「……おっと、私めとしたことが失礼をば。徳を積み終えたばかりでしてな」

「『徳』? 難しい日本語は私にはちょっと」

「お気になさらずに。では、いただきますかな」

 お客さんは香りと味に満足そうだ。



 しばらくすると、レジに呼ばれた。

「大変、美味・・でしたよ」

「ありがとうございます。ちょうど頂きます」

「では、また来ますので」

「はい。ありがとうございました」

 扉の鈴が鳴り、お客さんは帰っていった。

 テーブルの後片付けをしていると、また大量に使用済みの紙ナプキンがお皿に置かれていた。口を拭ったりしたものではない、そんなに汚れてないものもあり、いつも何に使っているのか不思議に思う。

 ふと気になり、匂いを嗅ごうと口を近づけた。

「シャンティ、今帰ったわよ」

 お母さんが帰ってきたので急いでテーブルを片付ける。

「おかえりなさい。料理教室、お疲れ様」

「今日は、雨であまり生徒さん来なかったけれど楽しかったわよ」

「そう、良かった」

 お店はまた、雨の音とカレーの香りだけが漂った。

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