第13話
「それじゃあ、こんなところで、よかったかしら? 参考になったら、いいんだけど」
と、お姉ちゃんが言った。
「はい。ありがとうございます、お姉さん。陽菜の質問に、答えていただいて」
と、陽菜が、お礼を言った。
うん? 陽菜の質問? いや、私の記憶が確かならば、質問していたのは、ほとんど五十嵐君と私だったはずだけれど。陽菜は、ただメモを取っていただけだ。まあ、陽菜に言わせれば、メモを取るだけでも大変なんだからって、言いそうだけれど。
「お姉ちゃん、どうもありがとう。お仕事中だったのに(陽菜が)無理を言って、ごめんなさい」
「結衣、そんなこと気にしなくても、いいわよ。私なんかでよければ、いつでも相談にのるわよ。ただし、次からは、事前に言っておいてね」
と、お姉ちゃんは笑った。お姉ちゃんは、すでに、お弁当を食べ終わって、コーヒーを飲んでいた。
「そろそろ12時ね。結衣、あなたたち、このあとはどうするの?」
私は、店内の時計を見た。時刻は、11時55分。もうすぐ、お姉ちゃんの休憩時間も終了だ。
「陽菜、このあとはどうするの?」
「そうねぇ――どこかで、お昼を食べて帰ろうよ」
と、陽菜は、少し考え込んでから言った。
「うん。分かった」
と、私はうなずいた。
「五十嵐君も、行くよね?」
と、陽菜が聞いた。
「ああ、別にいいけど」
「それじゃあ、ハンバーガーでも食べに行こうよ」
と、陽菜が言った。
「ハンバーガーかぁ、いいなぁ。私も、食べたいわ」
と、お姉ちゃんが言った。
「お姉ちゃん、さっき、お弁当を食べたじゃない」
「それとこれとは、別よ」
「太るわよ」
「――そうね。やめとくわ」
やめるも何も、お姉ちゃんは、これから仕事じゃない。
「それじゃあ、私は仕事に戻るわ。みんな、また来てね」
「お姉さん。よかったら、学園祭に来てください。陽菜たちのカフェに、来てくださいね」
と、陽菜が言った。
「学園祭ね。仕事の都合がつけばね」
「えっ? 来なくてもいいわよ」
お姉ちゃんに見られるのは、なんか恥ずかしい。
「まあ、忙しいから、行けるかどうか分からないけどね――あっ、12時ね。もう戻らないと、広瀬さんに怒られるわ」
と、お姉ちゃんが言った。
「えっ? 広瀬さんが、お姉さんに怒るんですか?」
と、陽菜が驚いている。まさか、本当に怒るわけがないじゃない。陽菜ったら、本当に純粋ね。
「ええ、そうよ。広瀬さんって、ああ見えて、怒ると怖いんだからね」
と、お姉ちゃんが言った。
「そうなんだぁ」
陽菜は、完全に信じ込んでいる。かわいそうな広瀬さん……。
私たちは支払いを済ませてカフェを出ると、歩いて10分ほどの、近くのハンバーガーショップに向かった。
「結局、結城君、カフェに来なかったね。どうしたのかな?」
と、陽菜が言った。
私たちは、ハンバーガーショップの二階で、ハンバーガーを食べていた。土曜日のお昼ということで、お客さんも大勢入っていたけれど、ちょうどいいタイミングで、階段のすぐ近くの席に三人座ることができた。
さっき、ケーキを食べたばっかりで、ハンバーガーまで入るかな? とか、言っていたけど、ハンバーガーにポテトまで、しっかりと食べていた(さすがに、みんな若いからね)。
「結衣、メールでも送ってみたら?」
と、陽菜が言い出した。
「えっ? どうして私が?」
「結衣が送った方が、陽菜が送るよりも喜ぶかな? って」
「どうしてよ?」
「まあ、なんとなくよ。結衣が嫌なら、陽菜が送るけど」
と、陽菜は、携帯電話を出そうとした。
「如月、待てよ。俺が送るよ」
と、五十嵐君が陽菜を制して、携帯電話を取り出した。
「あ、うん。分かった」
と、陽菜は、うなずいた。
「今頃、結城君、一人でカフェに来てたりして」
と、メールを打つ五十嵐君を見ながら、陽菜が言った。
「それなら、連絡をしてくるでしょう?」
「分からないわよ。お姉さんと、楽しくお話しているかもよ」
結城君が、お姉ちゃんと何を話すというのだろうか?
「五十嵐君、どう? 結城君から、返事はきた?」
と、陽菜が聞いた。
「いや、まだ何も――」
いくらなんでも、そんなに早く返信してこないだろう。
「電話を、かけてみたら? 陽菜が、かけようか?」
「――電話か」
と、五十嵐君は、ちょっと困ったような表情を見せた――ような気がしたけど。
気のせいだろうか? 何か、結城君に電話をかけたくない事情でも、あるんだろうか?
「じゃあ、陽菜がかけちゃおうっと」
と、陽菜は言って、携帯電話を取り出すと、結城君に電話をかけた。
「――あれっ?」
「陽菜、どうしたの?」
「電源が入っていないか、電波の届かないところにって言ってる。結衣がかけたら、出るかな?」
まさか、出るわけがない。
「そうか。それじゃあ、メールも読んでないな」
と、五十嵐君が言った。何か、五十嵐君が、ほっとしているように見えたのは、これも気のせいだろうか?
「電波の届かないところって、結城君どこにいるんだろう? どこか、ビルの中にでもいるのかな?」
と、陽菜が言った。
えっ? そっち? 普通に、電源が入っていないだけだと思うけど――っていうか、ビルの中でも電波は普通に届くと思うけど。陽菜の言うビルとは、どれだけ壁が分厚いのだろうか?
「如月、お前、何を言ってるんだよ。たぶん、犬を動物病院にでも連れて行ってるんだろう」
と、五十嵐君が笑った。
どこまで本気で言っているのか分からないけれど、こういうところが陽菜のかわいいところでもある。男の子は、こういう女の子が好きなのだろうか? 私は、陽菜を見つめる五十嵐君を見つめながら、考えていた。
「ふーん。動物病院も、携帯電話の電源は入れちゃいけないの?」
「さあ。俺は行ったことがないから、知らないな」
っていうことは、あの子犬は(もう、子犬ではないか)、今でも元気なのだろう。
「結衣は、行ったことある?」
「私? 私は、行ったことないわよ。ペットを飼っていたことが、一度もないから」
「五十嵐君は、犬を飼ってるんだよね?」
と、陽菜が、五十嵐君に聞いた。
「俺? まあ、飼ってるけど」
「名前は、なんていうの?」
「名前? そんなこと聞いて、どうするんだよ?」
「えっ? どうするって言われても――別に、どうもしないけど……」
「じゃあ、別にいいだろう?」
五十嵐君は、頑なに名前を言いたくないみたいだ。ここで名前がシロだと言ってしまうと、まずいことになると、五十嵐君も思っているんだろうか?
「でも、普通、名前くらい聞くでしょう? ――ねえ、結衣?」
陽菜は、五十嵐君の想像していなかった反応に、とまどっているみたいだ。
「えっ? ええ――でも、五十嵐君が言いたくないものを、無理に聞いても……」
「そう? 結衣まで、そう言うんなら――」
陽菜は、まだ納得していないみたいだ。
「もしかして、五十嵐君。犬に、何か変な名前を付けているんじゃないの?」
「なんだよ。変な名前って」
「何か、人に言えない、卑猥な名前でも付けているんじゃないの?」
卑猥な名前って?
「例えば、どんな名前だよ?」
「えっ? た、例えばって、その――」
陽菜は、元々自分で言い出したくせに、顔が真っ赤になっている。
「陽菜、もう、やめなさいよ。他の人たちに聞こえたら、恥ずかしいじゃない」
隣のテーブルのおじさんが、この高校生たちは、何を話しているんだ? という目で、こっちのテーブルを見ている。
「結衣、ごめん。陽菜、トイレに行ってくる」
と、陽菜は、席を立った。このハンバーガーショップは、一階にトイレがある。陽菜は、階段を駆け下りて言った。
「なんだ、如月のやつ。あんなに急いで、漏れそうなのか?」
「…………」
私は、その質問には答えなかった。五十嵐君は、こういうデリカシーに欠けるところもあるけれど、本当はいい人なんだ――と、私は自分自身に言い聞かせた。
こうして私は、五十嵐君と二人きりで、席に残された。
「…………」
しばしの沈黙の後、五十嵐君が静かに口を開いた。
「一之瀬。大翔は、いくら待っていても来ないぜ」
「えっ? どうして?」
「さっきメールを送ったけど、午前中で解散して、みんなもう帰ったからって書いたからな」
と、五十嵐君は表情一つ変えずに、淡々と語った。
「――どうして? どうして、そんな嘘を?」
「――ちょっと、大翔に来られると、邪魔だからさ」
邪魔? どういう意味だろうか?
「如月が、電話をかけたときは、正直ちょっと焦ったけどな。電源が入っていなくて、本当に助かったぜ」
「でも――私が、結城君に話せば、ばれるでしょう?」
「一之瀬が黙っていれば、分からないさ」
「私が黙っていても、陽菜が話すと思うけれど――」
陽菜は、絶対に話すだろう。
「一之瀬が、如月に口止めさせればいいだろう?」
私が? そんな無茶な……。でも、何のために?
「まあ、俺が黙っていろって言えば、如月は絶対に黙っているだろうな。あいつは、俺に惚れているからな。俺の言うことなら、なんでも聞くぜ」
五十嵐君は、いったい何を言っているんだろう? 私は、五十嵐君の考えていることが、まったく理解ができなかった。
「五十嵐君――私、五十嵐君の言ってる意味が、よく分からないんだけど……」
「一之瀬、お前も、俺のことが好きなんだろう?」
「えっ? あ、あの――そ、それは……。なんていうか、でも――」
私は、顔が真っ赤になって、しどろもどろになった。これでは、認めたも同然のことだ。
「一之瀬――いや、結衣。俺も、お前のことが好きだ」
私は、結衣と名前で呼ばれたことと、五十嵐君の突然の好きだという告白に、どうしていいのか分からなかった。
「結衣――お前が、あのときの女の子なんだろう?」
「…………、うん」
私は、ゆっくりとうなずいた。
「ワンちゃんは、今も元気なの?」
私は、それが、ずっと気になっていた。
「ああ、もちろん元気だぜ」
よかった――
「結衣。あの日、犬を抱いたお前を助けてから、ずっとずっと、お前のことが忘れられなかったんだ」
「五十嵐君……。私も……、ずっと忘れられなかったの……」
「それじゃあ、俺と付き合わないか?」
「…………。でも、陽菜が――」
陽菜の気持ちを考えると、素直にイエスとは言えなかった。
「別に、如月のことなんか、どうでもいいだろう? なあ。今のうちに、二人で店を出ようぜ」
「そ、そんなことは……」
どうでもいいだなんて、そんな酷い――それに、いくらなんでも、陽菜を置き去りになんてできない。月曜日に、どういう顔で会えばいいのか――
「如月だって、子供じゃないんだ。一人で帰れるだろう?」
それは、帰れるだろうけど――いや、帰れるとか帰れないとか、そういう問題ではない。
「五十嵐君……。五十嵐君の気持ちは、すごく嬉しいけど、陽菜の気持ちが……」
「――結衣。如月のことを思う、お前の優しい気持ちは分かったよ。だけど――結衣。お前自身の気持ちは、どうなんだ?」
「私……、の気持ち? ……」
「ああ、そうだ。お前も、ずっと忘れられなかったって、言ったじゃないか」
確かに……。
確かに、そうだ――
「五十嵐君……。私……」
陽菜……、ごめんなさい。
「ごめーん。待ったぁ?」
そこへ、タイミングよく、陽菜が笑顔で戻ってきた。
「――陽菜……」
ハッと、私は我に返った。
「待ってないよ。もう、大丈夫なの?」
「――うん。大丈夫」
と、陽菜は、うなずいた。
「もう! 五十嵐君が、急に変なことを言い出すから、びっくりしたじゃない」
と、陽菜は、五十嵐君の肩を叩いた。
「なんだよ。暴力をふるうなよ。そもそも、如月が、言い出したんじゃないか? なあ、一之瀬?」
と、五十嵐君は、今までのことが何もなかったかのように、平然とした表情で言った。
また、呼び方が、名字に戻っている。
「えっ? ……。あ、うん。そうだったかも?」
「結衣、どうかしたの? なんだか、顔が赤くない? 熱でも、あるんじゃないの?」
と、陽菜が、心配そうに言った。
「ううん。なんでもないよ」
顔が赤いのは、熱があるせいでは、もちろんなかった。
「――そう? ――結衣、汗をかいてるじゃない! 風邪でも、ひいたんじゃないの?」
私は、自分でも気づかないうちに、汗をかいていたみたいだ。
「大丈夫よ。ちょっと、お店の暖房が暑すぎるんだと思うわ」
と、私は、無理に笑ってみせた。
「本当に? そんなに、暖房がきいてるかな?」
と、陽菜は、不思議そうだ。
「一之瀬は、暑がりなんだろう」
と、五十嵐君が言った。
「――暑がり? そうだったっけ?」
と、陽菜は、首をかしげている。
「結衣、どうする? 体調が悪いんだったら、もう帰ろうか?」
陽菜は、私のことを、本当に心配そうにしている。
「――うん。帰るわ」
私は、これ以上、陽菜を騙して、ここにいるのがたえられなかった。
「五十嵐君、ごめん。陽菜、結衣を送って帰るわ」
と、陽菜が言った。
陽菜は、もっと、五十嵐君と一緒にいたかっただろうけど。
「仕方がないな。分かった」
と、五十嵐君は、うなずいた。
「――あれ? もしかして、五十嵐君、陽菜も帰っちゃうのが寂しいの?」
と、陽菜が、冗談っぽく笑った。
「はぁ? なんで如月が帰ると、俺が寂しいんだよ?」
「――そうだよね。冗談だよ。うん……」
陽菜の方が、寂しそうだ。
「あっ、そうだ、如月」
「何? やっぱり、寂しくなった?」
「バカ。違うよ。そんなことよりも、今日ハンバーガーを食いに行ったことは、大翔には内緒にしておいてくれ」
「えっ? どうして?」
と、陽菜が聞いた。それは、そうだろう。陽菜には、結城君に、内緒にしておく意味が分からないだろう。
「実は、大翔のやつは、ハンバーガーが大好きだからな。自分だけ食えなかったって分かったら、俺が殺される」
と、五十嵐君は、大真面目に言った。まさか、そんなわけがない。五十嵐君ったら、もう少しうまい言い訳を、思いつかないのかしら?
「――ふーん、そうなんだ。分かった」
と、陽菜は、素直にうなずいた。
えっ? それで、納得するんだ……。
「それじゃあ、結衣、行こうか」
「うん」
私は、陽菜に促されて、席を立った。
「五十嵐君は、どうするの? 一緒に帰る?」
と、陽菜が聞いた。
「俺か? 俺は、もう少し、ここにいるよ」
と、五十嵐君は、コーヒーを飲みながら言った。
「――そう。それじゃあ、月曜日に学校でね。さよなら」
と、陽菜が言った。
「ああ、じゃあな」
と、五十嵐君は、右手を上げた。
私は、階段を下りるときに、なんとなく五十嵐君の方をチラッと振り返って見た。五十嵐君は、私たちの方を見ていた。五十嵐君と目が合うと、五十嵐君はニコッと微笑んでみせた。私は、今までに見せたことのない笑顔を見せられて、さらに顔が赤くなり、汗が出てきた。
カフェからハンバーガーショップまでは歩いてきたけれど、帰りは、ハンバーガーショップの近くのバス停からバスに乗った。
バスに乗ってから、しばらく陽菜は無言だった。やっぱり、陽菜は、まだ帰りたくなかったんだろうな。
「――ねえ、結衣」
降りるバス停が近づいてきたとき、陽菜が口を開いた。
「何?」
「――うん……。もう、大丈夫なの?」
「えっ? うん。大丈夫だよ」
私たちは、バスの一番後ろの座席に並んで座っていた。私が窓側に、陽菜が隣に座っていた。前の方に数人乗っていたけど、私たちの周りには、誰も座っていなかった。
「そう。よかったわ」
と、陽菜は微笑んだ。私も、うすうす気づいてはいたんだけれど。ハンバーガーショップでトイレから戻ってきてから、陽菜の様子が少しおかしいような気がした。なんだか、元気がないみたいだ。
「陽菜――陽菜の方こそ、大丈夫? ちょっと、元気がないみたいだけど?」
「…………」
「陽菜?」
やっぱり、陽菜の様子がおかしい。
「ねえ、結衣」
「何?」
「――何か、陽菜に隠していることがない?」
「――隠していることって?」
まさか――
陽菜は、気がついているんだろうか? 私と、五十嵐君のことに。
「…………。結衣……。隠さなくても、いいんだよ」
「えっ?」
「少し前から、怪しいなとは思っていたんだけれどね。陽菜、さっきトイレから戻ってくるときにね。階段のところで、結衣と五十嵐君の話し声が聞こえたの」
「…………」
私は、言葉が出てこなかった。
「驚いちゃった。五十嵐君が、あのときの男の子だったんだね」
「――うん。陽菜、ごめんなさい。隠すつもりは、なかったんだけど……。言い出せなくて……」
と、私は謝った。
「どうして、結衣が謝るのよ。よかったじゃないの、男の子が誰だったのか分かって。ずっと――好きだったんでしょ?」
「――でも……。陽菜が……」
「――陽菜のことなら、気にしないで。結衣は、小学生の頃から、五十嵐君のことが好きだったんでしょ? 陽菜は、高校生になってからだもん。結衣の方が、断然早いんだからさ」
と、陽菜は言った。その声は、少し震えているみたいだった。
「そんな――」
早い者勝ちっていうわけでは、ないだろう。
「で、でも……。五十嵐君が私のことを、本当はどう思っているのかは――五十嵐君のことだから、付き合ってほしいっていうのも、本気で言ってるのかどうか……」
私は、いったい何を言っているんだろうか? そんなことを言っても、なんの慰めにもならないだろう。陽菜を、余計に惨めな気持ちに、させるだけじゃないのか……。
「…………」
陽菜は無言のまま、右手を私の方に振り上げた。私は、思わず目を閉じ、両手で顔をかばった。
「よし!」
と、陽菜が小さく叫んだ。
「――えっ?」
私は、何が起こったのか、よく分からなかった。
「やっと、陽菜がボタンを押せたよ。いつも、結衣に先を越されるからね」
と、陽菜が笑った。
ボタン?
「結衣、何やってるのよ? 陽菜が、殴りかかるとでも思ったの? そんなことを、陽菜がするわけないでしょ。藤本さんじゃあるまいし」
と、笑う陽菜は、いつもの陽菜のようだった。
「べ、別に、そういうわけじゃ……。条件反射みたいなものよ」
本当は、殴られると思ったけど。
「条件反射? なによ、それ」
静かに、バスが停まった。
「結衣、降りよう」
私たちは、運賃を払って、バスを降りた。
バスを降りると、私たちは、私の家に向かって歩き出した。私の家までの、ほんのわずかな距離が、とても長く感じた。
「陽菜、これからどうする? 上がっていく?」
「――今日は、いいや。帰るよ」
陽菜は、しばらく考え込んでから、そう言った。
「そう……。分かったわ」
「ちょっと、一人で泣きたい気分」
と、陽菜は笑った。
私は、なんてバカなことを聞いたんだろう。こんな状況で、好きな男の子をとられた相手(といっても、私は、まだ五十嵐に、イエスと言ったわけではないけど)の家に、上がるわけがないだろう。
「陽菜、本当にごめんなさい」
私は、再び陽菜に謝った。
「結衣――だから、謝らないでって言ってるでしょ。結衣は、優しすぎるのよ」
「そんなこと……」
「それじゃあ、これで帰るね」
「――うん」
「――結衣。もしも、五十嵐君と上手くいかなかったら、いつでも言ってね」
「えっ?」
「陽菜が、いつでも五十嵐君を引き取るからね」
と、陽菜が笑った。
「…………」
「なによ、その顔は。冗談よ。ちょっと、からかってみただけよ。じゃあね」
と、陽菜は言うと、自転車に乗って、こちらを振り返ることなく帰っていった。私は、遠ざかる陽菜の背中を、いつまでも見つめていた。
陽菜は、冗談だと言っていたけれど、陽菜の目には涙が溢れていた。
「お母さん、ただいま」
「おかえりなさい。早かったわね。お昼ごはんは?」
「うん。ハンバーガーを食べてきた」
「そう。陽菜ちゃんは?」
「もう、帰ったよ」
「あら、そうなの? せっかく、ケーキを買ってきておいたのに」
と、お母さんは、ちょっとガッカリしている。
「――うん。なんか、用事があるんだって」
私は、思わず、お母さんから視線をそらしてしまった。
「――そう。ケーキ食べる?」
「後で、食べるよ」
と、私は言うと、部屋に戻った。
――お母さんに、嘘をついてしまった。心が痛い――
私は、無意識のうちに携帯電話を握り、電話をかけていた。
「もしもし? 結衣? 久しぶり。何か用? 用がなければ、電話なんかしないよね」
と、電話の相手は笑った。
「もしもし? 結衣?」
「あ、ごめんなさい……。えっと――誰?」
「誰って――自分から電話をかけてきたくせに、酷いことを言うわね」
と、電話の相手は呆れている。
「麗華よ。二宮麗華。もう、忘れちゃったの? 酷いわ」
「ああ、麗華か……」
「麗華か、とはなによ。失礼ね」
「ごめんなさい……」
どうやら、無意識に、麗華に電話をしたみたいだ。
陽菜や五十嵐君に、かけないでよかった。
「結衣、どうしたの? 何か、元気がないみたいだけど?」
「――ううん。なんでもないの……」
「なんでもないっていうことは、ないでしょう。電話をかけた相手も、分からないほどなのに」
「今日――男の子に、告白されたの」
「告白された? えっ? えっ? どういうこと? 結衣が、男の子に好きだって?」
麗華は、とても驚いている。私が告白されることが、そんなにも意外なんだろうか?
「それで、どうしてそんなに元気がないのよ? 相手が、不細工なの?」
「ううん。そういうことじゃないの……」
「じゃあ、どういうことなのよ?」
「――陽菜の気持ちを考えると……。私、どうしたらいいのか……」
「ちょっと、意味が分からないんだけど――落ち着いて、最初から、ちゃんと説明してよ」
私は、麗華にすべてを打ち明けた。
「なるほどね。そういうことか」
「麗華、どうしたらいいと思う?」
「そうねえ――結衣は五十嵐君のことが好きで、五十嵐君も結衣のことが好きなら、付き合っちゃえばいいんじゃないの? 他人のことを考えていたら、誰とも付き合えないよ」
確かに、それはそうかもしれないけれど……。
「それとも、他にも何か気になるところがあるの?」
「――うん。五十嵐君って、見かけによらず、いい人だと思っていたんだけど。陽菜が自分に惚れているから、なんでも言うことを聞くとか、陽菜のことなんか、どうでもいいだろうとか、そんな酷いことを言ったの。それから、結城君に嘘をついたり」
「ふーん。確かに、酷いかもね。でも、本気で言ったんじゃなくて、冗談で言ったのかもしれないわよ」
そうだろうか?
「私、五十嵐君が、本当はどういう人なのか、分からなくなってきたわ」
「それで、結衣は、どうしたいの? 6年間、思い続けていたんでしょう?」
「正直、分からないの……」
「そう。まあ、どちらにせよ、結衣自身がよく考えて、結論を出すのね」
「うん。麗華、ありがとう」
「結衣、あんまり力になれなくてごめんね――あっ! お姉さんは、元気?」
「うん。元気だよ」
「それじゃあ、お姉さんに、よろしくね」
「分かった」
私は、電話を切った。
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