第11話
「陽菜、ちょっと上がっていかない?」
「うーん――どうしよっかなぁ。もう、時間も遅いし」
陽菜が、私の家に、自転車を取りに来ていた。さすがに、学校から家まで歩くのは遠いので、陽菜はバスで一度帰宅してから、歩いて私の家まで来ていた。
「まあ、無理にとは言わないけどね」
上がっていかない? と、聞いてはみたけれど、正直、そのまま帰ってほしいという気持ちも強かった。
あの6年前の男の子が、五十嵐君だったと分かった今、私の心は微妙に揺れ動いていた。
私は今まで、はっきりとは口には出さなかったけど、結城君が、あの男の子だったらいいなという気持ちはあった。しかし、あの男の子は五十嵐君だった。
そして、五十嵐君のことが、少しずつ気になり始めている自分がいた……。こんな気持ちで、今、目の前にいる陽菜と、いったい何を話せばいいのだろうか? 私には、分からなかった。
「あら、陽菜ちゃん、いらっしゃい。おじいさんのこと、大変だったわね」
そこへ、お母さんがやって来た。
「おばさん、こんにちは。自転車を預かってもらって、どうもありがとうございました」
「いえいえ、気にしないで。それよりも、ケーキでも食べていかない?」
「ケーキですか? はい。ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えて」
陽菜は靴を脱いで、上がり込んだ。
「すぐに、結衣の部屋に持っていくからね」
「うん。分かった」
「結衣の部屋に入るのって、久しぶりだなぁ」
「そうね」
陽菜が私の部屋に入るのは、6年ぶりだ。
「なんか、ドキドキするなぁ」
「どうして、陽菜がドキドキするのよ?」
「なんか、好きな人の部屋にでも入るみたい」
「――そう」
私は、好きな人という言葉に、ちょっとドキッとしてしまった。
「ふーん――なぁんだ。あの頃と、あんまり変わらないね」
と、陽菜は、部屋に入るなり、キョロキョロと見回しながら言った。
「そう?」
まあ、同じ人が使っているわけだから、そんなに大きくは変わらないだろう。
「あっ、何この犬のぬいぐるみ、かわいいね。ちょっと、古そうだけど」
と、陽菜は、ベッドの上のぬいぐるみを抱き上げた。
「ああ、それ? それはね、東京に引っ越してすぐの頃に、ゲームセンターのクレーンゲームで、お姉ちゃんに取ってもらったの」
「引っ越してすぐの頃にっていうことは、6年前? へぇ、ずいぶん大事にしているんだね」
「――うん。まあね」
「ベッドの上に置いて、もしかして、一緒に寝たりしてるの? 結衣って、かわいいところがあるよね」
「えっ? そんなこと、しないよ。たまたま、ベッドの上に置いてあるだけよ」
実際、一緒に寝ているわけではない。
「ふーん――あっ!」
陽菜が手を滑らせて、ぬいぐるみをベッドの上に落としてしまった。
「ちょっと、陽菜。シロちゃんを、あんまり乱暴に扱わないでよ」
「ごめんごめん――っていうか、シロちゃんって、名前を付けているの? ずいぶん、普通の名前だね。あれ? なんか、シロちゃんって、最近どこかで聞いたことがあるような気が――」
しまった! ついつい、シロちゃんって言ってしまった。
「どこだったっけ?」
陽菜は、思い出せないみたいだ。いいよ、そのまま忘れてくれれば。
「お待たせ」
と、お母さんが、ケーキと飲み物を持って部屋に入ってきた。
「陽菜ちゃんは、コーヒーでよかったかしら?」
「あ、はい。ありがとうございます」
「ゆっくりしていってね」
と、言って、お母さんは出ていった。
「結衣、チョコレートケーキとチーズケーキ、どっちを食べる?」
「どっちでもいいよ。陽菜、好きな方を食べて」
「好きな方かぁ――それじゃあ、チーズケーキにしよっと」
と、陽菜は、チーズケーキを一口食べた。
「うん。美味しい」
と、陽菜は、ご機嫌だ。
私は、カフェでのことを思い出しつつ、『チョコレートケーキが好きじゃなかったのかよ!』と、つっこみたい衝動も、なくはなかったけれど、さすがに口には出さなかった。
「だけど結衣、今日は本当に大変だったね」
と、陽菜が、今日のことを話始めた。
「うん。陽菜、もうその話はいいよ。思い出したくないから……。あっ、お母さんに言わないでね」
お母さんに聞かれたら、心配をかけてしまう。
「分かってるって。こう見えても、陽菜は口が固いんだから」
と、陽菜は笑った。
本当かしら?
「でも、五十嵐君が助けてくれて、よかったね」
「――うん」
「五十嵐君って、普段は悪そうに見えるけど、本当は、とっても優しい人なんだよ。ねえ、結衣もそう思ったでしょう?」
と、陽菜はケーキを食べながら、嬉しそうに言った。
「――うん」
「結衣? ちょっと、聞いてるの?」
「…………。えっ?」
「結衣、大丈夫? もしかして、五十嵐君が来るまでに、どこか殴られたりした?」
「ううん。そんなことないよ。玲奈さんが、止めてくれたから」
「玲奈さん? 誰のこと?」
「カフェで陽菜が見たって言っていた、同じ学校の人よ」
「ああ、あの人か。あの人も、五十嵐君と同じ中学だっけ?」
「うん――ねえ、陽菜」
「何?」
「陽菜って――五十嵐君のことが、好きなんだよね?」
何故か、私は突然、そんなことを聞いていた。
「えっ!? な、な、な、何を言い出すのよ急に。そ、そんなこと――」
と、陽菜は、めちゃくちゃ焦っている。
本当に、分かりやすい。
「違うの?」
「違……、わない……けど。どうして、分かったの?」
「そんなの、見てれば誰でも分かるわよ。私だけじゃなくて、お姉ちゃんも結城君も分かってるわよ(おそらく、五十嵐君自身も……)」
「なんだぁ。やっぱり、ばれてたんだ」
「陽菜、いつから五十嵐君のことを好きなの?」
「きっかけは、今年の体育祭かな。結衣は知らないかもしれないけど、うちの学校って、5月の終わりに体育祭をやるのよ。そのときに陽菜がケガをして、五十嵐君が、保健室に運んでくれたの。そのときは、まだ好きっていう気持ちは、そこまでなかったんだけど。その後しばらくして、五十嵐君が楽しそうに犬の散歩をしているのを見たの。そのときから、だんだん好きになってた」
犬の散歩――
やっぱり……。
私は、確信した。さっき、五十嵐君から、はっきりとした返事は聞けなかったけど、もう間違いはないだろう。
「五十嵐君には、陽菜の気持ち内緒にしておいてね」
「――うん。分かった」
「でも結衣。どうして、急にそんなこと聞くのよ? 恥ずかしいじゃないの。汗をかいたわ」
「うん、ちょっとね」
「あっ! 思い出した!」
と、陽菜が突然叫んだ。
「なによ? びっくりするじゃない」
「シロちゃんよ」
「えっ?」
「あの白い子犬の名前も、シロちゃんだったよね? ぬいぐるみにまで、同じ名前を付けてるんだ」
「別に、いいでしょ」
「結衣、やっぱり、その男の子のことが忘れられないんでしょう?」
「そんなこと……」
「それじゃあ、どうして、同じ名前を付けてるの?」
「そ、それは……」
「結衣、男の子の顔を思い出したって言ってたけどさあ、本当に思い出したの?」
「うん。本当だよ」
と、私は、はっきりと言った。
「そっかぁ。結城君じゃなかったんだよね?」
「うん」
五十嵐君だったとは、口がさけても言えない。
「それじゃあ、五十嵐君と結城君に、心当たりがないか聞いてみれば? その男の子は、五十嵐君と結城君と同じ小学校なんだよね? 陽菜が聞いてみようか?」
「――私が、自分で聞くからいいよ」
「そんなこと言って、結局、聞かないんじゃないの? 結衣、陽菜に、何か隠していることってないよね?」
「――そんなこと、あるわけないでしょ。陽菜、私のことが信じられないの?」
と、私は笑顔で言った。
「そうだよね。結衣が、陽菜に、隠し事なんてするはずないよね。分かった。結衣の好きなようにして」
「それじゃあ、そろそろ帰るね。お父さんが、帰ってくるまでに帰らないと」
「うん。また明日ね」
私と陽菜が外に出ると、ちょうど私のお父さんが帰ってきた。
「結衣、ただいま」
「お父さん、おかえりなさい」
「おや、陽菜ちゃん。来てたのかい」
「おじさん、こんばんは。もう、失礼するところです」
「ああ、気をつけてね」
と、お父さんは言うと、家の中に入っていった。
「じゃあね、結衣」
と、陽菜は帰っていった。
陽菜が帰ったあと、私はしばらく、外でボーッと空をながめていた。だんだん、日の入りの時刻も早くなり、辺りは、もう暗くなっている。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。寒くなってきたので、私が家の中に入ろうとしたとき、
「結衣、ただいま」
と、お姉ちゃんが帰ってきた。
「あっ、お姉ちゃん、おかえりなさい。今日は、早いね」
「今日は、5時までよ。お出迎えとは、いい心がけね」
「違うよ。陽菜が来てたから、見送りに出てきたの。そこに、たまたま、お姉ちゃんが帰ってきただけよ」
「たまたま? それにしては、ずいぶん長く外にいたのね」
お姉ちゃん、なんで知ってるんだろう?
「陽菜ちゃんは、自転車を取りに来たの?」
「そうだよ」
「それだけ?」
「――それだけだよ」
「ふーん――まあ、結衣がそう言うなら、いいわ」
と、お姉ちゃんは言うと、家の中に入っていった。
――まさか……。
お姉ちゃんは、バス停から歩いて帰ってきたはずだ。バス停は、陽菜の家の方角だ。ということは、お姉ちゃんは帰ってくる途中で、陽菜とすれ違ったはずだ。
陽菜が、お姉ちゃんに何か話したんじゃないだろうか? でも、陽菜には口止めをしたし、陽菜も口が固いと言っていたけど――
あっ! 私は、お母さんには言わないでとは言ったけど、お姉ちゃんには言わないでとは言わなかった。しまった……。
陽菜は、お姉ちゃんに、どこまで話したんだろうか? お姉ちゃんには、6年前のことも、まだ話していないけれど、そのことも話したんだろうか?
「結衣、風邪ひくよ」
と、お姉ちゃんが、玄関から顔を出した。
「あっ、うん」
私は、急いで家の中に入った。
翌日――
私は、学校の玄関で、陽菜が登校してくるのを待っていた。教室だと、もうすでに来ているであろう結城君に、聞かれる可能性がある。
陽菜が登校してくると、私は、すぐに陽菜に話しかけた。
「ねえ、陽菜」
「あっ、結衣、おはよう。何? 陽菜を待ってたの?」
「おはよう、じゃないわよ。陽菜、昨日帰る途中で、お姉ちゃんに会って話したでしょう?」
「うん。話したけど――」
と、陽菜は、あっさりと認めた。
「なんで、話したのよ」
「なんでって――結衣、お母さんには言わないでとしか言わなかったじゃない」
「確かに、そうだけどさあ。言わなくても、分かるでしょう? ――それで、お姉ちゃんに、どこまで話したの?」
まあ、ちゃんと言わなかった私が悪いから、陽菜を責めても仕方がないけど。
「どこまでって――昨日のことと、6年前のことも少し」
やっぱり、6年前のことも話したんだ。
「もうっ! お姉ちゃんには、6年前のことは話してなかったのに」
「うん。そうなんだってね。てっきり、知ってるのかと思ってた。なんで、話していないの?」
「別に、いいでしょ。それよりも、お姉ちゃん、何か言ってた?」
「うん。陽菜が、お姉さんに話しちゃったっていうことは、結衣には黙っておいてって。結衣が、嫌がるかもしれないからって」
お姉ちゃんらしいや。
「そう――って、今、話しているじゃない」
「あっ、そうか――でもまあ、いいじゃない」
どこが、口が固いのよ。べらべらしゃべってるじゃないの。
「もう、他の人には言わないでね」
「言わないわよ。陽菜は口が固いって、昨日も言ったでしょう?」
陽菜の言う固いとは、どれくらいのレベルなんだろう? 薄く張った、氷くらいだろうか? 一見、固そうに見えるけど、簡単に割れてしまう――みたいな。
「一之瀬、如月、なんの話だ? 何が固いって?」
そこに、五十嵐君が登校してきた。
「あっ、五十嵐君、おはよう」
と、陽菜が、笑顔で言った。
「――五十嵐君、おはよう」
私も、笑顔で言ったつもりだったけど、意識をしすぎるあまり、かなり不自然な笑顔になっていたかもしれない。
「おはよう。それで、何が固いって?」
「あのね。陽菜の口が――」
と、陽菜が言いかけるのを、
「何でもないよ! 昨日食べたケーキが固かったねって、話していたの」
と、私はさえぎった。陽菜が、余計なことを言い出したらまずい。
五十嵐君が6年前の男の子だったということが、陽菜にばれたら、どうしたらいいのか、今はまだ分からない。
「ケーキが固い? なんだそれ? お前ら、どんなケーキ食ってるんだ?」
と、五十嵐君は、首をかしげている。
「結衣、そんなに固かった?」
と、陽菜が、不思議そうな顔をしている。
「ちょっと、チョコレートがね……」
我ながら、おかしなことを言っているとは思ったけれど、言ってしまったものは仕方がない。
「それじゃあさ、また同じメンバーで、カフェに行こうよ」
と、陽菜が言い出した。
「なんで、そうなるのよ?」
「いいじゃない。中間テストが終わったら、行こうよ――ねえ、五十嵐君もいいよね?」
「ああ、そうだな」
と、五十嵐君は、私に微笑みかけた。
「――うん。五十嵐君が、そう言うなら……」
私は、胸がドキドキしてきた。
まずい。陽菜に、悟られないようにしないと。
「ちょっと、結衣。どうして五十嵐君ならよくて、陽菜だといやなのよ?」
と、陽菜は怪訝そうな顔をした。
「べ、別に、いやだなんて、一言も言ってないでしょ。昨日、助けてくれた、お礼よ」
と、私は、苦し紛れの言い訳をした。
「そう。それじゃあ、決まりね」
と、陽菜は、納得したみたいだ。
それから中間テストが終わるまで、私も五十嵐君も、6年前のことについて何も話さなかった。五十嵐君と、二人きりになるタイミングがなかったからだ。
私は、五十嵐君に対する陽菜の気持ちと、自分の気持ちとの間で揺れていた。
そして、中間テストも無事に終わった。私と陽菜は、結城君に勉強を教えてもらったこともあって、それなりにいい点数が取れた。
そして11月の学園祭に向けて、私たちのクラスでは、何を行うかの話し合いが行われていた。
「それじゃあ、うちのクラスでは、カフェをやるということで決定でいいですね?」
と、新垣先生が言った。最終的に、クラス全員による投票で、カフェに決定した。
「それじゃあ、次にリーダーを決めましょうか。基本的には、リーダーを中心に、みなさんでやってもらいますからね。先生は相談にはのるけど、みなさんで考えてやっていってください。それじゃあ、リーダーに立候補したい人はいますか?」
と、新垣先生が、クラス中を見回しながら聞いた。しかし、こういうことを積極的にやりたい人が、このクラスにはいないみたいだった。
「何? 誰もいないの? みんな消極的ね。先生が学生の頃は、みんな我先にと、積極的に立候補したものよ」
と、新垣先生は、少し寂しそうだ。
「先生、カフェをやりたいって言い出した、一之瀬さんがやったらいいと思います」
と、誰かが言い出した。
「えっ!? 私?」
確かに、私が言ったことは事実だけど、私がやりたかったわけではなくて、陽菜が言い出したのだ。何故か、陽菜が自分で言わずに、私に言ってくれと頼んできた。まさか陽菜は、自分がリーダーをやらされるかもしれないということを考えて、私に言わせたんじゃないだろうか? と、疑いたくなった。
陽菜が小声で、ごめんと言っている。
「で、でも、私……。まだ、転校してきたばかりだし……」
「一之瀬さん。そんなことは、気にしなくても大丈夫よ。そういえば、一之瀬さんのお姉さんは、カフェの店員さんだったわね。ちょうどいいんじゃない?」
と、新垣先生が言った。
「でも……」
お姉ちゃんがカフェの店員だからといって、私が、そういうことが得意なわけではない。
私が困っていると、
「一之瀬さん、大丈夫だよ。リーダーなんて、形だけのものだよ。俺も協力するよ」
と、結城君が言った。
クラスメイト全員が、私を見ている。これは、断れる雰囲気ではない。
「――分かりました」
私は、しぶしぶながらも引き受けることにした。クラスメイトから、一斉に拍手が起こった。
「それじゃあリーダーは、一之瀬さんで。あとは、サブリーダーも決めましょうか」
と、新垣先生が言った。
「はい。俺がやります」
と、結城君が、真っ先に手を上げた。
「それじゃあ、結城君、お願いね」
放課後――
「ちょっと、陽菜。もともと陽菜が言い出したのに、どうして私がリーダーをやらないといけないのよ?」
と、私は、陽菜に詰め寄った。
「ごめんごめん。まさか、こんなことになるなんて、陽菜も思ってなかったから。でも、いいじゃない。結城君が、手伝ってくれるんだから――ねえ、結城君」
と、陽菜は言った。
「一之瀬さん、大丈夫だよ。そんなに難しく考えなくても」
と、結城君が言った。
「うん。結城君、ありがとう」
「心配しなくても、如月も手伝ってくれるよ――なあ、如月?」
と、結城君が、陽菜に聞いた。
「えっ? 陽菜も? まあ、そうね……」
と、陽菜は、いまいち、はっきりしない。
「大和も、手伝ってくれるよな?」
「俺も? まあ、いいけど」
と、五十嵐君が言った。
すると、すかさず陽菜が、
「もちろん、陽菜も手伝うよ。今、言おうと思ってたんだ。だって、陽菜が、やりたいって言ったんだからね」
と、言った。
五十嵐君が、手伝ってくれると分かった瞬間にこれだ。なんとも調子がいいというか、素直というか――
「それじゃあさ、明日、カフェに行こうよ」
と、陽菜が言った。
「明日? どうして?」
「結衣のお姉ちゃんに、話を聞きに行こうよ」
「お姉ちゃんに?」
「うん。学園祭でカフェをやるのにあたって、いろいろと注意点とかさ」
「別に、カフェまで行かなくても、私が、家で聞けばいいじゃない。それに、仕事中に迷惑よ」
「それじゃあ意味がないよ。カフェをやる以上は、ちゃんとカフェで聞かないと」
と、陽菜は力説した。
ふーん。そういうものなのかしら?
私は、何か釈然としなかったけれど、それ以上は反対しなかった。
「それじゃあ、五十嵐君。10時30分くらいに、カフェで待ち合わせでどう?」
と、陽菜は、五十嵐君に聞いた。
「まあ、別にいいけど」
結城君には、聞かないのね。要するに、五十嵐君とカフェに行ければ、それでいいのね。
「それじゃあ、結衣も結城君もいいよね?」
「俺も、いいよ」
と、結城君は、うなずいた。
「だめって言っても、どうせ行くんでしょ。分かったわよ」
「それじゃあ、決まりね」
と、陽菜は嬉しそうに言った。
本当に学園祭の為に行くんだか、デートに行くんだか分からないわね。
でも――
五十嵐君と一緒に行けることに、嬉しく思っている自分がいることも、事実だった。
その日の夜――
私は、お姉ちゃんに相談をする為に、お姉ちゃんが帰ってくるのを待っていた。麗華にも相談に乗ると言われていたけれど、やっぱり、お姉ちゃんに相談をするのが一番だろう。ちょうど、お姉ちゃんが帰ってきたみたいだ。
「お姉ちゃん、おかえりなさい」
「結衣、ただいま――どうかした?」
「ちょっと、あとで相談があるんだけど、私の部屋に来てくれる?」
「そう。分かったわ。でも、あとでは面倒だから、今すぐ聞くわ」
「えっ? 今すぐ?」
ちょっと、まだ心の準備が……。
「お姉ちゃんの部屋に、いらっしゃい」
「あ、うん……」
私は、お姉ちゃんに続いて、お姉ちゃんの部屋に入った。
お姉ちゃんの部屋に入るのは、久しぶりだ――というか、こっちに帰ってきてからは、初めてかもしれない。
あぁ、何か、いい香りがする――って、そんなことは、どうでもいい。お姉ちゃんの部屋は、私の部屋よりも、さらにシンプルだ。
「それで、相談って何?」
と、お姉ちゃんは、部屋着に着替えながら聞いた。
「うん……」
「何をじろじろ見てるのよ。恥ずかしいじゃない」
えっ? お姉ちゃんが、勝手に脱ぎ出したんじゃない。
「ご、ごめんなさい」
とりあえず、謝っておいた。しかし、着替えているお姉ちゃんは、私と違って、とてもセクシーだ。
「相談って、陽菜ちゃんの話していたことと関係があるの?」
「うん」
「そう……。6年前の、あの日。結衣は、びしょ濡れで家に帰ってきたんだっけ。まさか、そんなことがあったなんてね。どうして、今まで黙っていたの?」
「――なんか、恥ずかしかったから……」
「別に恥ずかしがることなんて、ないじゃない。結衣は、いいことをしたんだから」
それは、そうなんだけど――
「その当時は、何故か分からないけど、恥ずかしかったのよ。それに――怒られると思ったから」
「どうして、怒るのよ?」
「だって――そんな危険なことをしてって」
「そうね。その当時だったら、怒ったかもね。でも、あんな浅い川で溺れないでしょう」
と、お姉ちゃんは笑った。つられて、私も笑った。
「それで、相談って?」
「――うん。お姉ちゃんって、友達と同じ人を好きになったことってある?」
「あるわよ」
と、お姉ちゃんは即答した。
「えっ? あるの?」
私は、意外な答えに驚いてしまった。
「だてに、結衣よりも9年も長く生きてないわよ。それが、どうかしたの?」
「…………」
「結衣?」
「五十嵐君だったの……」
「何が?」
「6年前に助けてくれた男の子が、五十嵐君だったの……」
「なるほどね。結衣は、6年前に助けてくれた男の子に、恋をしたのね。そして、それが陽菜ちゃんの好きな五十嵐君だったのね」
「うん……。私、五十嵐君のことなんて、全然好きじゃなかったんだけど、6年前の男の子が、五十嵐君だと分かってからは、だんだん五十嵐君のことが気になって……。でも、陽菜のことを思うと、どうしたらいいのか分からないの……」
私は、知らず知らずのうちに、涙を流していた。
「結衣……。結衣は、優しいのね。自分のことよりも、友達のことをそんなに考えているのね」
お姉ちゃんが、私を優しく抱きしめてくれる。
「でもね――もっと、自分の気持ちに素直になっていいのよ」
「お姉ちゃん……」
「――なんて、私も、人のことは言えないけどね」
「どういう意味?」
「お姉ちゃんもね、結衣と同じくらいの年の頃にね、友達と同じ人を好きになったの」
「それで、どうしたの?」
「お姉ちゃんもね、友達のことを考えて、何もしなかったの。そうしたら、友達が男の子に告白をしたのよ。そこに、お姉ちゃんも付いていったの」
「えっ? どうして?」
「一人で行くのが、不安だからって」
「それで、どうなったの?」
「その子は、振られちゃったわ――他に、好きな女の子がいるからって」
最悪のパターンか。でも、お姉ちゃんにとってはチャンスなのかな?
「その男の子は、お姉ちゃんの方をチラチラ見ていたわ」
「それって――」
その男の子が好きだったのは、お姉ちゃんなんじゃ――
「まあ、それは、お姉ちゃんが自意識過剰なだけで、勘違いかもしれないけどね」
と、お姉ちゃんは笑った。
「それじゃあ、お姉ちゃんが男の子と付き合ったの?」
私の問いかけに、お姉ちゃんは、ゆっくりと首を横に振った。
「――付き合わなかったわ」
「どうして、付き合わなかったの?」
お姉ちゃんは、しばらく考え込むと、
「どうしてかしらね……。やっぱり、友達のことを考えるとね……。友達が振られるところを一緒に見ていて、その相手と私が付き合うということは、できなかったの」
と、言った。
「お姉ちゃん――後悔しなかったの?」
「もちろん、後悔しなかったと言ったら、嘘になると思うわ……。私も、自分の気持ちに素直になって付き合っていたら、今頃は結婚していたかもしれないってね」
「お姉ちゃん……」
「だから、結衣には後悔してほしくないのよ」
「お姉ちゃん……。ありがとう」
私は、お姉ちゃんに抱きしめられながら、涙を流していた。
そのとき、
「結菜、帰ってるの? 結衣の姿が見えない――」
と、誰かが、ドアを開けたような気配がした。
「…………」
誰かは、そのまま無言でドアを閉めた。
「――お姉ちゃん、今、ドアが開かなかった?」
「気のせいよ」
と、お姉ちゃんは微笑んだ。(その頃お母さんは、姉妹で抱き合っているなんて――ま、まさか……、と、思っていた。)
「そうだ、結衣に、これを返しておくわ」
と、お姉ちゃんは、タンスから何かを取り出してきた。
「何?」
お姉ちゃんに、何か貸していたかしら? 私は、それを受け取った。
「――お姉ちゃん、これって……」
「やっぱり、結衣のだったのね。お姉ちゃんの洗濯物の中に、紛れ込んでいたの。もっと早く聞こうと思っていたんだけど、何年も忘れていたわ」
それは、白い子犬の描かれた、あのハンカチだった。
「お姉ちゃんが、持っていたんだ。どこにいったのかと思ってた」
「6年前、結衣がびしょ濡れで帰ってきて、お姉ちゃんが洗濯したんだよね。それで間違って、お姉ちゃんのところにハンカチだけ紛れ込んじゃっていたみたいなのよ。もしかして、そのハンカチって――」
「うん。6年前に、五十嵐君にもらったの」
「そう、やっぱりね。こんなハンカチ、持っていなかったもんね――でも、あんまり五十嵐君のイメージに合わないわね」
確かに、五十嵐君っぽくはないかもしれないけれど、昔のことだしね。
「小学生の頃は、五十嵐君も、もっとかわいい子供だったんだよ――たぶん」
ちょっと想像がつかないけど。
「――ねえ、結衣」
「何?」
「6年前の男の子は、五十嵐君で本当に間違いないのね?」
「えっ? どうして?」
「どうしてっていうことは、ないんだけど……」
「私があげた、子犬のキーホルダーを持っていたし。お前が例のって、五十嵐君が言ってたから」
「例の? そう……」
お姉ちゃんは、何か考え込んでしまった。
「お姉ちゃん、今日はありがとう」
「最終的にどうするのかは、結衣自身が後悔のないように、よく考えて決めるのよ」
「うん……。分かった」
私は、お姉ちゃんの部屋を出た。
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