第10話

 私は、藤本さんに連れられて、再び屋上にやってきた。

 途中で、数人の生徒とすれ違ったけど、チラチラとこちらを見てくる生徒はいたけれど、声をかけてくる人は、やはり一人もいなかった。先生とすれ違えば、なんとかなるかもしれないと、淡い期待を抱いたけれど、こういうときに限って、すれ違うことはなかった。


 今日も、あの日と同じく、屋上には他に誰もいなかった。今日は、そこに玲奈さんの姿はなく、私と藤本さんの二人だけだった。これが恋人同士二人きりだったら、ロマンチックな雰囲気にでもなるかもしれないけれども、そんな雰囲気とは、ほど遠かった。

 あの日と同じく、部活中の生徒の声や、野球部の打球音が聞こえてきた。今日は、それに加えて、ヘリコプターが飛んでいる音が聞こえてきた。あのヘリコプターから、誰か助けにきてくれないかしら? もちろん、そんなことが起こるはずはなかった。

「うるさいヘリコプターだな。何か、あったのか?」

 と、藤本さんが空を見上げた。そんなことを私に聞かれても、分かるわけがない。まあ、藤本さんも、私に聞いたわけではないだろうけど。この隙に走って逃げようかと思ったけれど、頭ではそう思っても、体が言うことを聞かなかった。

「それじゃあ、始めようか」

 と、藤本さんが言った。

「あんた、月曜日に、私がここで言ったことを覚えてるか?」

 と、藤本さんが静かに言った。

「は、はい……」

 私は、恐怖のあまり、うまく言葉が出てこなかった。

「そうか」

 と、藤本さんは、ニッコリと微笑んだ。

「分かったうえで、朝から、あんなに人目につくところで、大翔君とイチャイチャしやがって。私に見せつけたかったのか? いい度胸をしてるじゃないか」

「だ、だから、あれは違います。そんなこと、してないです」

 もしも、恋人同士だったとしても、あんなところで、イチャイチャなんかするわけがない。

「違う? どう違うんだ? 説明してみろよ!」

 と、藤本さんは言った。

 はたして藤本さんが、説明をしたところで、分かってくれるだろうか? こういうときにドラマやマンガだったら、さっそうと結城君本人が現れて、助けてくれるんだろうけど、結城君は帰ってしまったから、来るはずがなかった。

 藤本さんは興奮しているけど、手を出してこないのは、玲奈さんがケガはさせるなと、さんざん言っていたのを覚えているからだろう。

「…………」

「何を、黙ってるんだよ! なんとか言えよ!」

 と、藤本さんは、右手の拳を振り上げた!

「きゃあっ!」

 やっぱり、覚えていなかったんだ!

 そのときだった。

「絵里香! 止めなって!」

 と、後ろから声が飛んだ。一瞬、結城君が助けにきてくれたのかと思ったけれど、やってきたのは玲奈さんだった。

「絵里香、ケガだけはさせないでって、この前も言ったでしょう。本当に、後で面倒なんだからね」

 玲奈さんは、過去に本当に面倒なことがあったのだろう。

「――分かってるよ」

 と、藤本さんは、振り上げていた右手を、ゆっくりと下ろした。

「暴力をふるうんだったら、私は協力しないよ」

 と、玲奈さんは言った。玲奈さんは、いい人なんだか悪い人なんだか、よく分からない人だ。

「うるさいな! 分かったって、言ってるだろう!」

 と、藤本さんは、玲奈さんに言い返した。なんだかよく分からないけど、突然、仲間割れが始まった。

 玲奈さんは、ゆっくりと、藤本さんのところへ近づいてくると、

「絵里香は、いつもそうだよ。口より先に、手が出るんだから。最近は、出さなくなってきたと思ったのに」

 と、言った。

「なんだよ! 私に、説教するのかよ!」

 最初に会ったときから思ってはいたけれど、玲奈さんがとても冷静なのに対して、藤本さんは、ちょっと血の気が多い(ちょっとどころでは、ないかもしれないけど)みたいだ。

「だいたい、絵里香は、いつもそうなんだよ。私がいなかったら、とっくに停学になっていても、おかしくないんだからね」

「…………」

 藤本さんも自覚はあるみたいで、それについては反論できないみたいだ。

「う、うるさいな。そんなこと分かってるよ、玲奈」

 私は、まるで母親と反抗期の娘のような二人のやり取りを、ポカーンと見ていたけれど――これは、チャンスじゃないのか? 藤本さんも玲奈さんも、私の存在なんか忘れているのか、全然こっちを見ていない。

 今のうちにと、私は一歩一歩、静かにゆっくりと、前を見たまま後ずさりしていった。

 もう少しかな? 後ろが見えないから、よく分からないけれど――

 そのときだった。突然、強風が吹いて、開いていたドアが、ドーンと音をたてて閉まってしまった。その音に驚いて、こっちを振り向いた藤本さんと玲奈さんと、目が合ってしまった。

「…………」

 誰も声を出すこともなく、一瞬の静寂の後、最初に口を開いたのは――

「す、凄い風でしたね……」

 私だった。自分でも、よく分からなかったけれど、思わずそんなことを言ってしまった。

「ちょっと待てよ! 何を、逃げようとしてるんだ!」

 と、藤本さんが言った。

「あっ、いえ……。逃げようとしたわけじゃあ……。ちょっと、風に押されて……」

 と、我ながら、意味不明なことを言っている。

「ふーん、そうか風か――それじゃあ、仕方がないね」

 と、玲奈さんが言った。

 あれ? ごまかせた? 意外と単純?

「そうだね。あんた、見るからに、体重が軽そうだもんね」

 と、玲奈さんが笑った。

「い、いえ……。それほどでも……(最近、ちょっと太ったかもしれない)」

 と、私も笑った――かなり、ひきつった笑いだったと思うけれど……。

「嘘をつくんだったら、もっとましな嘘をつくんだね」

 と、玲奈さんは言って私の方に歩み寄ると、私の手を引っ張って藤本さんの前に連れていった。

 やっぱり、玲奈さんは、悪い人だ――

「さて、本題に入るか」

 と、藤本さんが言った。

「この前も聞いたけどさ、あんた、大翔君とどういう関係なのさ?」

 と、藤本さんが聞いた。

「ですから、この前も言ったように、ただのクラスメイトです。本当に、それだけなんです」

 それ以外に、なんと説明すればいいのだろうか――

「いや、カフェでの、あんたの大翔君を見る目は、ただのクラスメイトを見ている目じゃなかったよ。まるで、昔からの憧れの人を見ているような目だったよ」

 と、玲奈さんが言った。私には、そんなつもりは全然なかったけれど、玲奈さんにそう見えたのならば、おそらくそのときは結城君のことを、あのときの男の子だと思っていたからだろう。

「玲奈、そうなのか? あんた、そういうことが分かるのか? すごいな」

 と、藤本さんは、妙なところに感心している。

「ああ、伊達に、恋愛小説や恋愛マンガを読んでないさ」

 と、玲奈さんは笑った。

「私も、読もうかな」

 と、藤本さんが言った。

 小説とマンガ? なんだろう、このコントのようなやり取りは? 私は、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。

「それで、どうなんだ? あんた、大翔君のことが好きなんだろう?」

 と、藤本さんが聞いた。

「ですから、それは誤解なんです! 私は、別に結城君のことなんて、好きでもなんでもないです!」

 どうしたら、藤本さんは分かってくれるんだろう?

「それじゃあ、あんた、玲奈が嘘をついてるって言うのか?」

「い、いえ――別に、そういうことでは……」

 もう……。どうしよう……。私が、困り果てていると、私の携帯電話が鳴った。

「なんだ? メールか?」

 と、玲奈さんが聞いた。

「は、はい」

 と、私はうなずいた。

「ふーん――いいよ、読んでも」

 と、玲奈さんが言った。

 私は、メールを開いた。陽菜からだ。

「ちょっと、貸しな!」

 と、藤本さんが、私の携帯電話を強引に取り上げた。

「あっ」

 そんな、乱暴に――

「えーと――なになに。なんか、ある人から、今すぐに体育館の裏に来てくれって呼び出されたんだけど、その人、探してもどこにもいないんだよね。おかしいなぁ。誰か他の人からの、いたずらメールだったのかなぁ? その人、陽菜のメールアドレス、知らないはずだからね。だけど、送ってきた人は、どうやって陽菜のメールアドレスを知ったんだろう? 結衣は、今どこにいるの? さっき駐輪場に行ってみたけど、いないし。もう帰ったのかと思ったけれど、外靴が、まだあるみたいだけど――だってさ」

 と、藤本さんは、陽菜からのメールを読み上げた。

「へぇー。あの子、いたずらメールだって気づいたんだ。なんか、いつもボーッとしてる子だから、気づかないかと思ったわ」

 と、玲奈さんが言った。

「ど、どういうことですか?」

 まさか、藤本さんと玲奈さんが、陽菜にいたずらメールを送ったのだろうか?

「あなたたちのクラスにいる私たちの友達に、陽菜っていう子のメールアドレスを調べてもらったのよ。それで、大和君の名前を使って、体育館の裏に呼び出したの。あの子がいると、邪魔だからね」

 と、玲奈さんが言った。

「そんな……。ひどい……」

「あなたにも、見せてあげようか?」

 玲奈さんはそう言うと、私の返事を待つことなく、自分の携帯電話をカバンから取り出して、メール画面を私に見せた。

「突然、こんなメールを送って、ごめんな。大和だけど。陽菜に、とても大切なことを伝えたいんだ。もう、我慢できないんだ。俺の本当の気持ちを、陽菜に聞いてほしいんだ。俺からだっていうことは誰にも言わないで、今すぐ、陽菜一人だけで体育館の裏まで来てほしい。きっと、来てくれるって信じてる――五十嵐大和」

 メールには、そう書かれていた。それで、陽菜は嬉しそうに行ってしまったんだ。

「こんなメールを真に受けるなんて、陽菜っていう子も、そうとうおめでたいよな」

 と、藤本さんが大笑いした。

「大和君が、こんなことを言うわけ、ないだろう? そんなキャラじゃないだろう」

 と、玲奈さんも笑った。

「私が、体育館の中から隠れて見ていたら、あの子が嬉しそうに走ってきてさ。キョロキョロと、辺りを探していたよ。探したって、どこにもいるわけがないのにさ。おかしくて、もっと見ていたかったけれど、早くこっちに来なきゃいけなかったからね」

 と、玲奈さんが言った。

「絵里香、もしも、陽菜っていう子が、ここに来たら面倒なことになるからさ。そろそろ、終わらせようよ」

「そうだね。まあ、ここが分かるっていうことは、ないだろうけど」

 私は、いったい、これから何をされるんだろう? まさか、ボコボコに殴られたりするんだろうか? いや、玲奈さんが、そんなことはさせないと思うけれど……。

「心配するなよ。殴ったりしないから。ちょっと、ここに一筆、書いてもらおうか」

 と、藤本さんは、カバンの中から何かを取り出した。

「あの……。何ですか? これ?」

 私は、藤本さんから、一枚の紙切れとペンを渡された。その紙切れには、

『私、一之瀬結衣は、今日から、クラスメイトの結城大翔君と、授業等の必要な最低限のことしか話しません。必要以上に近づきません。もしも約束を破ったら、どんな罰でも受けることを誓います』

 と、書いてあった。

「――これって、何ですか?」

「まあ、誓約書みたいなものだな」

 と、藤本さんは言った。

「誓約書? ――ですか?」

 まさか、こんなものを用意しているとは。

「ああ、そうだ。ここに、今日の日付を書いて、フルネームでサインを書いてくれ」

 と、藤本さんは、紙の下の方を指差した。

「この、どんな罰でもっていうのは?」

「そうだな――もう二度と学校に来れないようにしてやっても、いいんだよ」

 と、藤本さんは、ニッコリと笑った。

 どういう意味だろうか? まさか、暴力的なことを? 私は、玲奈さんの方をチラッと見た。

「なんだよ、その目は? もしかして、私に助けを求めているの? まあ、絵里香が、学校外で何かやっても、そこまでは私は知らないよ。私だって、四六時中、絵里香に付いているわけにはいかないからね」

 と、玲奈さんが言った。

 そんな……。 どうして私が、結城君のことで、こんな目に合わなきゃいけないの? もちろん、結城君自身が悪いわけではないんだけど。

「おしゃべりは、もういいから。ほら、さっさと書けよ! 私も、いつまでも、あんたにかまってる暇は、ないんだよ!」

 と、藤本さんが言った。

「は、はい……」

 もう、いやだ……。私は、今すぐにでも、ここから解放されたいという思いで、紙とペンを手に取った。

 そのときだった。私の携帯電話に、再びメールの着信があった。

「なんだよ。また、陽菜っていう子からだよ。よっぽど、あんたのことが好きなんだな」

 と、私の携帯電話を持ったままの、藤本さんが言った。

「なになに――」

 藤本さんは、再び陽菜からのメールを読み始めた。

「さっき、なんでか五十嵐君が戻ってきたから、陽菜に送られてきたメールを見せたの。そうしたら、結衣はどうしたのかって聞かれたから、分からない、行方不明なのって言ったら、突然走り出して、どこかに行っちゃった――だってさ。なんだ、大和君、まだいたのか。帰ったのかと思ってた。大和君に、嘘がばれちまったな。あんた、早く書いてくれよ。大和君に見つかる前に、私たちも帰るからさ」

 と、藤本さんが言った。

「ねえ、絵里香、まずいよ。大和君、ここに来るんじゃないの?」

 と、玲奈さんが不安そうに言った。

「そんなにすぐには、ここだって分からないだろう?」

「いや、大和君なら――」

 と、玲奈さんが言うのと、ほとんど同時だった。

 勢いよく、屋上への扉が開いた。


「――やっぱり、ここか。藤本、佐々木ささき、お前ら、一之瀬と、こんなところで何をやってるんだ? 一之瀬に、何か用でもあるのか?」

 屋上へやって来たのは、五十嵐君だった。佐々木っていうのは、玲奈さんの名字だろう。

「五十嵐君……。どうして、ここが?」

 五十嵐君は、かなり息が切れている。おそらく、ここまで、全力で走ってきたのだろう。私は転校してきて初めて、五十嵐君のことが、かっこよく見えた。

「うん? 一之瀬、なんだよ、その紙切れは?」

 と、五十嵐君は、私の持っている紙切れを指差した。

「あ、これは――」

「ちょっと、俺に見せてくれ」

 と、五十嵐君は、私の手から紙切れを取り上げた。

「ちょっ、ちょっと、大和君! 見るなよ! あんたには、何も関係ないだろう!」

 と、藤本さんが、五十嵐君の手から紙切れを取り戻そうと、右手を伸ばした。紙切れを掴むことはできたけれど、男である五十嵐君の力にかなうはずもなく、藤本さんの右手には、破れた紙切れの端の部分が、わずかに残っていただけだった。

「…………」

 五十嵐君は、その紙切れに書かれた文章を、無言で読み始めた。

 一瞬の静寂の後(ヘリコプターの姿も、すでになかった)、大和君が口を開いた。

「なんだ、これは? ――そうか、大翔をね。ふーん――それじゃあ、俺が近づくことは、なんの問題もないな?」

 と、五十嵐君は、落ち着いた口調で言った。確かに、五十嵐君については、何も書かれてはいない。

「藤本――お前、まだ、こんなくだらないことをやってるのか?」

「くだらないとは、なんだよ――大和君には関係ないって、言ってるだろう! それ、返せよ!」

 と、藤本さんは言った。藤本さんは、五十嵐君に見られたことで、かなり焦っているみたいだ。

「本当に、懲りないやつだな。お前、大翔に、一度振られてるだろう? いや、二度だったか? それとも、三度か?」

 えっ? そうだったんだ。しかし、同じ相手に、二度も三度もとは――時々聞くけれど、本当にいるんだ。

「う、うるさいな……。余計なお世話だよ」

「藤本、お前、大翔のストーカーか何かかよ? 誰と仲良くするのかは、大翔が決めることだろう? 違うのか?」

「…………」

 藤本さんは、黙り込んでしまった。

「だいたい、佐々木も佐々木だよ。お前も、いつまで、藤本のバカみたいなことを手伝ってるんだ? もっと他に、やることはないのか?」

「大和君に、そんなこと言われたくないよ。そんなの、私の勝手だろう? 絵里香には、私が付いていないと、だめなんだよ」

 と、玲奈さんが言った。

「佐々木、お前が、そうやって、藤本を甘やかすから、こんな弱いものいじめみたいなことをするんだろう?」

「うるさいな! もう、ほっといてよ! もう、いいわよ――絵里香、ごめん。私、もう行くわ」

 と、玲奈さんは言うと、屋上から、さっさと出ていった。

「ちょっ、ちょっと、玲奈! 待ってよ!」

 藤本さんも、あわてて玲奈さんを追って、屋上から出ていこうとした。

「藤本、ちょっと待てよ!」

 と、五十嵐君が、藤本さんの右腕を掴んだ。

「なんだよ! 放せよ! 痛いだろう! 人に偉そうに言っておいて、自分は暴力をふるうのかよ!」

 と、藤本さんは、大げさに痛がってみせた。

「おお、悪い悪い」

 と、五十嵐君は言ったけれど、腕は掴んだままだ。本当に、悪いと思っているのだろうか?

「藤本、お前、まさか、このまま何も言わずに行くのかよ?」

「はぁ? どういう意味だよ?」

「謝りもせずに、行くのか?」

「なんで、私が謝らなけりゃいけないんだよ」

「悪いことをしたら、謝るのは当然だろう? 藤本、お前、高校生にもなって、そんなことも人に言われないと分からないのかよ」

 まさか、五十嵐君の口から、そんなセリフが出てくるなんて。私は、素直に驚いてしまった。

「ちっ――分かったよ。悪かったな」

 と、藤本さんは、しぶしぶ五十嵐君に謝った。

「藤本、謝る相手が違うだろう? 俺に謝って、どうするんだよ?」

「…………」

「どうした? このまま一緒に、職員室に行ってもいいんだぜ」

 五十嵐君のその言葉に、藤本さんの顔色が変わった。

「な、なんだよ、脅すのかよ。分かった……。分かったよ……」

 と、藤本さんは、観念したみたいだ。

「――悪かったな……」

 と、藤本さんは、小さな声で、私に謝った。

「聞こえねえよ」

 と、五十嵐君が言った。

「悪かったな! これでいいだろ!」

 と、藤本さんは、声を荒らげた。

「本当に、反省しているのか? 心がこもってないけどな」

「ねえ、五十嵐君。もう、いいよ。私は、大丈夫だから」

 私は、ここまで黙って、五十嵐君と藤本さんのやり取りを聞いていたけど、ちょっと藤本さんがかわいそうになってきた。

「一之瀬、こういうやつには、もっときつく言わないと分からないんだよ」

 五十嵐君の言うことは、その通りなのかもしれないけれど――

「でも――本当に、もういいから。離してあげて」

「――そうか。まあ、一之瀬が、そこまで言うなら分かったよ」

 と、五十嵐君は、藤本さんの腕を離した。

「藤本、この紙切れは、捨てておくからな」

「好きにしろよ。ったく――いつまで掴んでるんだよ」

 と、藤本さんは、ぶつぶつ言いながら、屋上から出ていった。

 まさか、五十嵐君、藤本さんの腕を触りたかっただけっていうことは、ないよね? さすがに、それは考えすぎか。助けてくれた人に対して、失礼なことを考えてしまった。

「一之瀬、大丈夫か?」

「うん――ありがとう、五十嵐君。でも、どうして屋上にいるって分かったの?」

 と、私は聞いた。ここには、放課後に来る生徒は、ほとんどいないみたいだけど。

「ああいう不良みたいなやつらの考えることなんて、俺にはお見通しなんだよ」

 と、五十嵐君は、意味ありげに微笑んだ。それはつまり、五十嵐君も、そういう人ということか――

「そうなんだ」

 私は、あまり深く追及しないことにした。

「でも、どうして来てくれたの? 結城君と、帰ったんじゃなかったの?」

「ああ、帰ろうと思ったんだけどな。大翔の話では、俺が休んでるときから、一之瀬の様子がおかしいっていうことだったから、もしかしたら藤本のやつが原因かと思ってな。それで、大翔と戻ってきたんだ。そうしたら、如月にメールを見せられてな」

 そうだったんだ。

「どうして、藤本さんだって?」

「だって一之瀬、お前、藤本のフルネームを知っていただろう?」

「えっ?」

「今朝、如月が、あいつのことを聞いたときだよ。俺も大翔も、藤本って、名字しか言わなかったけど、藤本絵里香ってフルネームを知っていたじゃないか」

「――あっ」

 言われてみれば、確かに言ったような気がする。

「ずっとこっちにいる、如月ですら知らなかったのに、先月から来た一之瀬が知っているのは、おかしいと思ってな。お前、大翔に、誰かに見られているみたいな気がするって言っただろう?」

「うん」

「それが、藤本のことだったんだな。いったい、何が原因なんだ?」

 私は、カフェに行ったときから、今日までのことを五十嵐君に話した。

「そうか、佐々木が、あそこにいたのか。全然、気がつかなかったな。俺は、一之瀬の姉さんしか、見えてなかったからな」

 と、五十嵐君は笑った。

「えっ?」

 五十嵐君ったら、まだそんなことを? もしかして、本気で、お姉ちゃんのことを?

「冗談だよ。本気にするなよ」

 と、五十嵐君は、一人で大笑いしている。

「なんだ、一之瀬。俺が、姉さん姉さんって言うから。お前、もしかして、自分の姉さんに、嫉妬しているのか?」

 と、五十嵐君が突然、とんでもないことを言い出した。

「ちょっ、ちょっと、五十嵐君! どういう意味よ?」

 それは、つまり――

「やっぱり一之瀬も、俺のことが、気になるんじゃないのか?」

 と、五十嵐君が言った。

「そんなわけ……」

「だから、冗談だって」

 と、五十嵐君は笑った。

「そ、そうよね……。冗談――だよね」

「当たり前だろう? カフェで、全力で否定されたからな」

「――うん」

 でも、あのときは……。

「そうだ。五十嵐君、私が傘を借りちゃったせいで、風邪をひかせちゃって、ごめんなさい」

「うん? ああ、気にするなよ。おかげで、堂々と学校を休めたからな」

「傘、結城君に渡しておいたから」

「ふーん。そうか。俺たちも、そろそろ行こうぜ」

 と、五十嵐君が、屋上から出て行こうとした。

「――ねえ、五十嵐君」

 私は、五十嵐君を呼び止めていた。

「どうした?」

「――6年前に、私と会ってるよね?」

「6年前に? さあ、何のことだ?」

 あれ? 五十嵐君じゃないのかしら?

「でも――カフェで持っていたリュックの中に、カギが入っていたよね?」

「カギ? さあ、そんなもの入っていたか?」

「うん。白い子犬のキーホルダーが、付いていたよね?」

 一瞬の静寂の後、五十嵐君が口を開いた。

「一之瀬、もしかして、お前が例の――」

 やっぱり……。

「五十嵐君が、あのときの男の子だよね? 6年前に、私と子犬を助けてくれた――」

「いや、俺は――」

 五十嵐君は、そう言うと、何か考え込んでいる。まさか、忘れてしまったのだろうか?

「そうか……。ふーん。一之瀬がね――」

 何か微妙な反応だけど、覚えているっていうことだろう。でも、ついに会えたんだ。まさか、あのときの男の子が、五十嵐君だったなんて……。

 そのとき、屋上へ誰かがやって来た。

「なんだ、大和、こんなところにいたのか。急に走り出すから、探したぞ」

 屋上にやって来たのは、結城君だった。

「一之瀬さんも、ここにいたんだ。こんなところで、何をやっていたの?」

「大翔、これだよ」

 と、五十嵐は、紙切れを、結城君に渡した。

「…………」

 結城君は、無言でそれを読んでいる。

「みんな、ここにいたんだ」

 と、陽菜も、屋上にやって来た。

「ちょっと、結衣。屋上で、何をやっていたのよ? ――何その紙?」

 陽菜は、結城君の横から、覗き込んだ。

「何、これ?」

 と、陽菜は、目を丸くしている。

「一之瀬さん。なんか、ごめん。俺のせいで」

 と、結城君が、私に謝った。

「そんな……。結城君のせいじゃないよ。謝らないで」

「そうだよ。こんなの、結城君のせいじゃないよ! あの、藤本っていう人が悪いんじゃない!」

 と、私よりも、陽菜の方が怒っている。

「でも、そういうわけにはいかないよ。俺のせいで、一之瀬さんに、怖い思いをさせてしまったんだから」

「結城君……。ありがとう」

 本当に、結城君って優しい人ね……。

「俺、明日にでも、藤本と話してみるよ」

 と、結城君が言った。

「えっ? あんな人、ほっとけばいいじゃん」

 と、陽菜が言った。

「いや、はっきりと断らなかった、俺のせいでもあるから。明日、はっきりと言っておくよ」

 結城君は、どこまでも紳士的だ。

「もう、その話はいいだろう。俺たちも、帰ろうぜ」

 と、五十嵐君が言った。

「そうだな。帰ろうか」

 と、結城君が言った。

「でも、このメール、五十嵐君からじゃあ、なかったんだ」

 と、陽菜が言った。

「当たり前だろう? 俺が、如月に、何を告白するんだよ?」

「それは……。いろいろと、あるでしょう……」

「…………」

 五十嵐君は、黙ってしまった。そんな二人を見ていた私は、何故か胸が締め付けられるような気分だった……。

「そうだ。もう騙されないように、みんなでメールアドレスと携帯番号を交換しようよ」

 と、陽菜が言い出した。

「は? なんで、そうなるんだよ? だいたい、もうこんなことはないだろう」

 と、五十嵐君が言った。

「大和、いいじゃないか。交換しておこうよ」

 と、結城君が言った。

「なんだよ、大翔まで――分かったよ。大翔が、そう言うんなら」

「ほら、結衣も」

「えっ? 私も?」

 私も、陽菜に言われるがままに、メールアドレスと携帯番号を交換した。

「それじゃあ、もう帰ろうぜ――如月、用もないのに、電話してくんなよ」

 と、五十嵐君が、陽菜に言った。

「うん。分かった」

 と、陽菜は、ニコニコしている。絶対に、分かっていないなと、陽菜以外の三人は思っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る