第9話
私は、しばらく時間がたってから屋上を後にすると、玄関のところまで下りてきた。
辺りをキョロキョロと見回してみたが、どうやら、藤本さんと玲奈さんは、もう帰ったみたいだ。
私は、ホッと息をついた。私は、まだ胸がドキドキしていた。現実に、こんなことってあるんだ――私は改めて、そう思った。
私は、そんなに、結城君とイチャイチャしていたように見えていたのだろうか? そんなつもりは、まったくなかったんだけれど……。
私は、一応、結城君の下駄箱を見てみた。結城君は、やっぱりもう帰ってしまったみたいだ。
――私も、もう帰ろう。
私が、上履きを脱いで下駄箱にしまおうとしたとき、突然後ろから、
「あら、一之瀬さん」
と、話しかけられた。
「は、はいっ!」
私は、藤本さんたちが、まだいたのかと思って、驚いて振り返った。
「どうしたの? そんなに、驚いた顔をして」
「あっ、新垣先生――」
そこに立っていたのは、藤本さんたちではなく、担任の新垣先生だった。
「あっ、あの……。突然、話しかけられたんで、びっくりしただけです」
「あら、それは、悪いことをしたわね」
と、新垣先生は笑った。
「一之瀬さん、まだいたのね。もう帰ったのかと、思っていたわ」
「は、はい、ちょっと……。先生は、これから部活ですか?」
新垣先生は、赤いジャージに着替えていた。
「ええ、そうよ。一之瀬さんもよかったら、バスケットボールやってみる? 楽しいわよ」
と、新垣先生は、フリースローの真似をしてみせた。
「あっ、いえ、私は、運動の方はあんまり――」
私は、体を動かすのは、あんまり得意な方ではない。もしも、犬と走り回り、戯れることができる部活(どんな部活だ?)があれば、今すぐにでも入るけど。
「やってみると、楽しいわよ。30歳にもなると、疲れもたまるけどね」
と、新垣先生は笑った。新垣先生は、30歳なんだ。
「一之瀬さん、学校はどう? 楽しい?」
「あっ、はい。楽しいです(今日の放課後以外は)」
「そう、よかったわ。あっ、そうだ、一之瀬さん。昨日、如月さんと五十嵐君と、それから結城君もかな? 四人で、新しくできたカフェにいたでしょう?」
私は、結城君の名前に、過剰に反応してしまった。藤本さんたちは、聞いてないよね? 私が、さっきのことを、新垣先生に話していると誤解されたくはない。
「えっ!? 先生、どうして知ってるんですか?」
まさか、あの場に、新垣先生もいたのだろうか?
「あれは、昨日の10時頃だったかしら? 先生、車でカフェのところを通ったのよ。カフェの方をチラッと見たら、なんだか見覚えのある顔が、四つも見えたから。こう見えても先生ね、視力はいいのよ」
「はい。私のお姉ちゃんに、四人まで使えるサービス券をもらったので、陽菜が、五十嵐君と結城君も誘おうって言って――」
そうだ。あくまでも、誘ったのは陽菜なのだ。それなのに、あんな目に合うなんて。別に、陽菜を責めているわけではないけれど――
いや、とりあえず今は、その話は置いておこう。
「一之瀬さんの、お姉さん?」
「はい。私のお姉ちゃんが、今26歳なんですけど。あのカフェに、勤めているんです」
「まあ、そうなの。けっこう、お姉さんと年が離れているのね」
やっぱり、みんな、そこが気になるのね。まあ、私自身も気にならないといえば、嘘になるけど。
「今度、先生も行ってみようかしら」
「あっ、はい」
「それじゃあ、一之瀬さん。もうすぐ中間テストもあるから、ちゃんと勉強もがんばってね。テストの後には、学園祭もあるからね」
「はい。分かりました」
「一之瀬さん、それじゃあ、気をつけてね」
「はい。失礼します」
私は新垣先生と別れると、自転車に乗って、家路についた。
私は翌日から二日間ほどは、藤本さんたちの目が気になって、結城君とはあいさつ程度で、ほとんど言葉を交わすことはなかった。誰かの視線を感じるたびに、びくびくしていた。そんな私を、結城君は不思議そうに見ていたけれど、私は、本当のことを話すことはできなかった。
その翌日には、陽菜も登校してきていた。私は、藤本さんたちと顔を合わせたくなかったので、いつもよりも少し早めに登校した(藤本さんたちが、何時に登校しているのかは分からないけど。たぶん、そんなに早めに来るような、真面目な人ではないだろう)。そして、学校の玄関で、ちょうど陽菜と一緒になった。
「結衣、おはよう」
「あっ、陽菜、おはよう。早いね。今日から来たんだ」
「うん。昨日の夜に、こっちに帰ってきたの。お母さんは、まだ鳥取県に残ってるんだけど、お父さんが、そんなに長く会社を休めないからって。それで昨日、お父さんと陽菜だけ先に帰ってきたの。それで今日は、陽菜の自転車が結衣の家にあるから、お父さんに車で送ってもらった」
そう話す陽菜は、とても疲れているみたいに見える。
「陽菜、大丈夫? あんまり、寝てないんじゃないの?」
「うん……。お父さんにも、今日も休んだ方がいいんじゃないかって言われたんだけど、ずっと家にいてもいろいろと考えちゃうし、それに中間テストも近いからね。それに――結衣にも、会いたかったしね」
と、陽菜は笑った。
「何よ、それ」
と、私も笑った。
「結衣、会いたかったよぉ!」
と、陽菜が持っていたカバンを投げ出し、私に抱きついてきた。
「ちょっ、ちょっと、陽菜! 止めてよ。みんなが、変な目で見てるじゃない」
これは、ふざけているのだろうか? それとも、情緒不安定なのか? いったい、どっちなんだろう?
「如月、おはよう。いろいろと大変だったね。もういいの?」
「あっ、結城君、おはよう。久しぶり。もう大丈夫だよ、ありがとう」
いつからいたのか気づかなかったけど、結城君が立っていた。
「久しぶりっていうほどでも、ないだろう。でも、思ったより元気そうだね」
「うん。結城君が、陽菜たちよりも遅いなんて珍しいね」
まあ、私たちが、早めに来たということもあるけど。
「うん。まあ、ちょっとね――だけど、如月が、そんなにテストのことを気にしてるなんて、ちょっと意外だな。勉強のことなんて、考えてないのかと思っていたよ」
と、結城君は、陽菜のカバンを拾って、陽菜に渡しながら言った。
「ありがとう――っていうか、聞いてたの? それは陽菜だって、高二の秋にもなれば、いろいろと気にするわよ。進学するのか、就職するのかって」
陽菜は、カバンを受け取りながら、笑顔を見せた。
「如月の声は、大きいからね。よかったら、俺が勉強を教えてあげようか?」
と、結城君が言った。
「本当に? それじゃあ、結衣も一緒に教えてもらおうよ。ついでに、五十嵐君も一緒にどう?」
「大和も? 大和は、たぶん、やらないだろうな」
と、結城君は笑った。
「私は、遠慮しておくわ」
藤本さんに、誤解されたくないし。
「なんでよ? チャンスじゃない」
と、陽菜は、私の耳元でささやいた。チャンスどころか、逆に大ピンチになりかねない。
「あっ、一之瀬さんも、おはよう」
と、結城君は私がいることに、今、気がついたような感じで言った。本当は、気づいていたはずだけど――
「――おはよう」
なんか、気まずい空気が流れている。どうしたものか――
「うん? 結衣、どうかしたの? 結城君と、何かあったの?」
陽菜は、その空気を敏感に感じ取ったみたいだ。
「別に、なんでもないわよ」
実際、結城君自身と、何かあったわけではない。
「そう? そんなふうには、見えないけどなぁ――そうか! 分かった。何もなかったから、怒ってるんでしょ?」
と、陽菜は、意味不明なことを言い出した。
「それって、どういう意味?」
と、結城君が、陽菜に聞いた。
「結城君、日曜日、カフェに行った後で、そのまま帰っちゃったでしょう?」
「うん。帰ったけど。それがどうかしたの?」
「どうかしたの? じゃないわよ。どうして、そのまま帰っちゃったのよ?」
「どうしてって、言われても。他に、行くところもないし――」
結城君は、陽菜の勢いに、押され気味だ。
「これだから、男はだめなのよねぇ。結城君が、どこにも誘わなかったから、結衣が拗ねちゃったのよ――ねえ、結衣、そうでしょ?」
と、陽菜は、何故かキラキラと目を輝かせながら、私に聞いた。
まるで、『陽菜が代わりに言ってあげたわよ。感謝しなさい』とでも、言っているかのような雰囲気だ。
「えっ? そうなの? 俺のせい?」
と、結城君は困惑している。
「そんなんじゃないから。あのとき、結城君は、体調が悪かったから、仕方がないわよ」
「仕方がないっていうことは、本当は行きたかったんじゃないの?」
と、陽菜が鋭くつっこむ。
「もう、行こう。遅刻しちゃうよ」
と、私が行こうとした、そのときだった。
「…………」
少し離れたところから、一人の女の子が無言でこっちを見ていた。
あれは――
「結衣、どうかしたの? あれって、確か隣のクラスの子だよね?」
と、陽菜も、その女の子に気がついたみたいだ。
「うん……」
と、私はうなずいた。もう、登校していたんだ。いったい、いつから見ていたんだろうか? あの距離では、私たちの話の内容までは、聞こえていないと思うけれど――
「ねえ結衣。なんかあの人、怖いよ。こっちを、睨んでるみたいじゃない? もしかして、結衣のことを見てるんじゃないの?」
もしかしなくても、私のことを睨みつけているんだろう。藤本さんが、陽菜のことを睨みつける理由は思い当たらないし、もしも結城君のことを見ているのなら、あんなふうに睨みつけたりはしないだろう。
「あっ、行っちゃった」
と、陽菜が言った。
藤本さんは、階段を上がっていったみたいだ。
「なんだったんだろうね? 結衣、何か心当たりでもあるの?」
「――別に……」
心当たりがあるとは言えない。
「結衣のかわいさに、嫉妬でもしているんじゃないの?」
と、陽菜は的外れなことを言い出した。
「っていうか、なんていう子だったっけ? 隣のクラスの子なのは、間違いないと思うんだけどなぁ」
「今のは、隣のクラスの藤本だよ」
と、結城君が言った。
「ふーん――っていうか、結城君、どうして知ってるの? もしかして、結城君の彼女とか?」
と、陽菜は、興味津々に質問をしている。
「彼女? 違う違う。あいつは、俺たちと小学校と中学校が一緒なだけだよ。なあ、大翔」
と、五十嵐君が言った。
「ああ、大和の言う通りだよ。俺、今まで彼女なんていたことが、一度もないからな」
と、結城君が笑った。
「へぇ、そうなんだ。ちょっと意外かも。結城君、顔は、そこそこなのにね。もしかして、性格が悪いのかなぁ?」
と、陽菜は、さらっと失礼なことを言っている。
「五十嵐君は、付き合ってる人はいたの?」
と、陽菜は、どさくさにまぎれて聞きたかったであろうことを聞いている。
「俺か? 俺は、大翔の何倍も付き合ってるぜ」
「へ、へぇ……。そうなんだ……」
陽菜は、ショックを受けたみたいだ。
「まあ、今は、いないけどな」
「へぇ! そうなんだ!」
陽菜は、とても嬉しそうだ。本当に、分かりやすい。
「っていうか、ゼロは何倍してもゼロだけどな」
と、結城君が言った。
「あっ、そうか――そうなのか?」
という五十嵐君の一言に、みんな笑った。もちろん、私以外の三人だけだけど。
「うん? っていうか、大和、お前いつからいたんだよ?」
と、結城君が言った。そういえばそうだ。あまりにも自然に会話に入ってきたので、いつからいたのか分からなかった。
「まあ、気にするなよ。そんなこと、いいじゃないか」
と、五十嵐君は笑った。
「如月、それよりもな。大翔が、今までどうして誰とも付き合わなかったかっていうとな。こいつ小学生の頃にな――」
と、五十嵐君が言おうとしたとき、
「大和! その話はいいから!」
と、結城君がさえぎった。
それにしても、結城君が、あんなに強くさえぎるなんて。小学生の頃に、いったい何があったんだろう?
「おお、悪い悪い。そうだったな」
「ねえねえ、結城君。小学生の頃に、何かあったの?」
と、陽菜が聞いた。
「別に、如月に話すようなことじゃないよ」
「ふーん。それじゃあ、結衣になら話せるの?」
と、今日の陽菜は、なかなか鋭い。
「そういうことじゃないよ――そんなことよりも。大和、もう体調はいいのか?」
「ああ、だから来たんだよ」
それは、そうだろう。傘のお礼を言いたいところだけど、今はそういう雰囲気ではない。
「ねえねえ、五十嵐君。体調って、なんの話?」
と、陽菜が聞いた。
「ああ、大和は風邪で、月曜日から昨日まで休んでいたんだよ」
と、結城君が言った。
「そうだったんだ――っていうことは、陽菜も五十嵐君も、同じ授業を受けていないっていうことね」
「まあ、そういうことになるな」
と、結城君はうなずいた。
「それじゃあ、やっぱり一緒に、結城君に教えてもらわないとね」
「如月と一緒に? 何をだよ?」
と、五十嵐君が陽菜に聞いた。
「何をって、勉強よ」
と、陽菜は、当たり前でしょとでも、言いたげだ。
「はぁ? なんで、そうなるんだよ」
どうやら、五十嵐君は、そこは聞いていなかったみたいだ。
「俺は、そんなことしなくてもいいよ。如月だけ、教えてもらえよ」
「えぇー。そんなこと言わないで、一緒に勉強しようよぉ」
果たして、陽菜の目的が本当に勉強なのか、別の目的なのかどうかは、甚だ疑問ではあるんだけど。
「だから、俺はいいって。なんで、授業以外で勉強しなきゃいけないんだよ。しかも、大翔から教わるって、なんか屈辱的だ」
「そんなことないって」
陽菜も、なかなかしつこい。
「そんなことよりもさ。一之瀬、お前、藤本と、なんかあったのか?」
と、五十嵐君が、私に聞いた。
「べ、別に、何にもないわよ。だいたい藤本絵里香なんて人、今、初めて知ったわ」
「――そうなのか? それにしては、さっきの藤本の目は普通じゃなかったぜ。一之瀬に、恨みでもありそうな――なあ、大翔?」
「えっ? あ、ああ。そうだな――」
「陽菜、もう行こう。遅刻しちゃうよ」
「う、うん。分かった。みんな、一緒に行こう」
私たちは、教室に向かって、歩き出した。
私は今日一日中、藤本さんたちに、いつ呼び出されるんだろうと、そればかりが気になって、授業に集中ができなかった。さすがに、朝礼後や授業と授業の間のわずかな時間には、何事も起こらなかった。
そして、昼休みになった。
「結衣、一緒に、お弁当を食べようよ」
「…………」
「結衣? ちょっと、結衣。聞いてるの?」
「――えっ? ああ、うん。聞いてる聞いてる。卵焼きでしょ? 今日は、入ってるかな?」
「――やっぱり、結衣、おかしいよ。陽菜が休んでいるときに、何かあったんじゃないの?」
「なんにもないから。気にしないで」
私は、無理に笑ってみせた。
「ふーん――じゃあ、卵焼きちょうだい」
「ちょっと待って――あっ、ごめん。入ってないや」
「えぇー」
そして、昼休みも、何事もなく過ぎていった――
「大翔、帰ろうぜ」
「ああ」
「一之瀬、如月、じゃあな」
「うん。バイバイ」
五十嵐君と結城君は、すぐに帰っていった。
「結衣、陽菜たちも帰ろうよ。結衣の家に、自転車を取りに行かないと」
「うん」
けっきょく、何事も起こることはなく、下校時間になった。
私たちは、玄関まで下りてきた。キョロキョロと辺りを見回してみても、藤本さんの姿も玲奈さんの姿も見えなかった。まあ、仮にいたとしても、陽菜が一緒にいるんだから、手荒なことはしないだろう。私が、あまりにも深く考えすぎていただけで、藤本さんも、別に怒っていたわけではなかったのかもしれない。うん。きっとそうだ。
「結衣、さっきから、何をキョロキョロしてるの?」
陽菜は不思議そうに、私を見ている。
「ううん。なんでもない。さあ、帰ろう!」
私は、ちょっと元気が出てきた。
「あっ、結衣、ちょっと待って。メールが――」
陽菜は、カバンから携帯電話を取り出した。
「…………」
陽菜は、無言でメールを読んでいたけど、
「結衣、ごめん。ちょっと、先に行っててくれない?」
と、言い出した。
「えっ? どうして?」
「うん――ちょっとね」
「メール、誰から?」
陽菜が、こんなことを言い出すなんて、なにか怪しい。
「もしも陽菜が、なかなか戻ってこなかったら、一人で帰っていいから」
と、陽菜は言うと、ダッシュで、どこかへ行ってしまった。
「ちょっと! 陽菜!」
あぁ、行っちゃった。どうしたんだろう? 何か、嬉しそうな顔だったけど。
一人で帰っていいっていっても、陽菜の自転車が。仕方がない。しばらく、駐輪場で待っていようか。
私が、靴を履き替えようとしたときだった。
「ちょっと」
と、後ろから、肩を強くつかまれた。
「えっ?」
まさか――
「あんた、いい度胸をしてるじゃない」
「ふ、藤本さん……」
「あら。覚えていてくれたんだ。嬉しいわ」
そこに立っていたのは、思った通り、藤本さんだった。
「あ、あの……」
「あんた、私がこの前に言ったことを、もう忘れたのかしら?」
「い、いえ……。あれは、別に、そういうことでは……」
「そういうことって、なんだよ?」
藤本さんは、鬼のような形相で私を睨みつけてくる。周囲に何人か人はいたけど、声をかけてくる人は、一人もいなかった。
陽菜が、戻ってくる気配も感じられなかった。
「あんたの、お友達の如月陽菜っていう子なら、しばらく戻ってこないよ」
「えっ? どうして、陽菜のことを? ――」
「さあね。誰かが間違って、その子にメールでも送ったんじゃないのか?」
と、藤本さんは、意味ありげに言った。
「お互いに一人同士だし、ちょうどいいでしょう?」
そのとき、私は、玲奈さんが一緒ではないことに気づいた。
「ま、まさか――」
「ふふっ。ここじゃあ人目につくから、ちょっと屋上まで付き合ってよ――どうせ、暇でしょう?」
私は、藤本さんに連れられて、再び屋上に行くことになった。
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