第7話

「ちょっ、ちょっと、待ってよ! 私じゃないわよ!」

 私は、今までにないくらい、必死に否定した。

「ちょっと、五十嵐君。そんな冗談、言わないでよ」

 必死だから、逆に怪しいとか思われようが、そんなことは関係ない。

 もうっ! 五十嵐君ったら、よりによって、陽菜の前でなんてことを言うのよ。私が、陽菜に、変な誤解をされたら困るじゃない!

 ここは、全力で否定をしなければ。

「本当に、違うんだから! 五十嵐君みたいな、ちょっと悪そうな人、私のタイプじゃないわよ!」

 私は、そう捲し立てたところで、ハッと我に返った。みんな、唖然として、私を見ている。

「分かった分かった。一之瀬じゃないのは、よく分かったよ。だけど、そこまで強く否定することないだろう? こんな俺でも、ちょっと傷つくぜ」

 と、五十嵐君は言った。

「ごめんなさい。ただ、好きなタイプじゃないっていうだけで、五十嵐君のことを、人間的に嫌いだっていうことじゃないから」

 と、私は弁解した。

「ああ、いいよ。それは、もう分かったから」

「そうだよね。結衣は、日頃から、五十嵐君のことなんか、全然タイプじゃないって、言ってたもんね」

 と、陽菜は、自分に言い聞かせるように言った。そんなに、日頃から五十嵐君のことを、話しているつもりはなかったけれど。まあ、いいか。それで、陽菜が納得をするのなら。

「結衣。なにか、私が、余計なことを言っちゃったかしら?」

 と、お姉ちゃんが、申し訳なさそうに言った。

「ううん。そんなことないよ、お姉ちゃん」

 別に、お姉ちゃんが悪いわけではなくて、五十嵐君が鈍感なのが悪いんだ。

「そう? それなら、いいけど……」

「一之瀬さん、すみません。こっちを、お願いします!」

 と、広瀬さんが、呼んでいる。

 もちろん一之瀬と言っても、私を呼んでいるわけではなくて、お姉ちゃんを呼んでいる。忘れそうになるが、今、お姉ちゃんは仕事中だった。これだけお客さんが多いと、あんまり、私たちのところに付きっきりというわけには、いかないだろう。

「はい。今、行くわ――それじゃあ、私は行くから。みんな遠慮しないで、ゆっくりしていってね」

 これだけ混んでいると、あんまりゆっくりしていくのも、気が引けるけどね。


「いやぁ、それにしても、びっくりしたよ。一之瀬さんが、あんなに大きな声が出せるなんて」

 と、結城君が言った。

「そんなに大きな声だった? 他のお客さんたちに、聞かれていたかしら? 恥ずかしいわ」

「そんなに、気にすることないよ」

 と、結城君は優しく言った。

 ちなみに、陽菜と五十嵐君は、トイレに行っていて、ここにはいない。もちろん、二人一緒に行ったわけではなく、陽菜が五十嵐君に付いて行ったわけでもない。

 陽菜が先に行って、陽菜が戻ってくる前に、五十嵐君も行っただけだ。

「そんなことよりも、これからどうする?」

 これからか――

 陽菜と五十嵐君を、隣同士に座らせることには成功したけれど、それだけで、何も進展したわけではない。逆に、後退したような気がする。まるで、『よーいどん』で、後ろ向きに、100メートル全力疾走したような気分だ。

 これから、どうすればいいのかしら? 麗華に、電話でも掛けてみようかしら?

 いや、さすがに、電話を終えるまでに、陽菜が戻ってきてしまうだろう。いっそのこと、陽菜に、私たちが、陽菜と五十嵐君が上手くいくように、ここまでがんばってきたことを話してしまった方が、いいのではないだろうか? なにも、陽菜にまで、隠しておくことは、ないだろう。

 陽菜に話して、五十嵐君と上手くいくように協力してあげると言えば、陽菜も喜ぶ――だろうか? いや、ここまでの私たちを見れば、喜ばないか?

 そもそも、陽菜は、自分が五十嵐君のことを好きだということを、私たちにも隠しているわけだから、私たちにばれていることを知ったら、どう思うかしら?

「うーん――」

 迷う。ふと、結城君の方を見ると、アイスミルクティーを、ごくごくと飲んでいる。結城君は、ちゃんと考えているのかしら?

「一之瀬さんも、飲んだら?」

 と、私の視線に気づいたのか、結城君が言った。

「うん」

 私は、アイスミルクティーを一口飲んだ。美味しい。私は、ちょっと気分が落ち着いてきた。


 私たちが、ああでもないこうでもないと、頭を悩ませていると、陽菜が戻ってきてしまった。なんだか、ひどくあわてているみたいだ。何か、あったんだろうか?

「陽菜、どうしたの? そんなに、あわてて。トイレットペーパーでも切れてた?」

 そんなわけないか。だとしたら、出てこないで、電話を掛けてくるだろう。

「結衣……。おじいちゃんが……」

 陽菜は、今にも泣き出しそうだ。

「おじいちゃん? 陽菜のおじいちゃんが、どうかしたの?」

「先月、鳥取県のおばあちゃんが、亡くなったんだけど。今度は、おじいちゃんが倒れて、病院に運ばれたんだって。今、お母さんから電話があって、これから鳥取県まで、また行かなきゃいけなくなったの」

 陽菜は、声が震えている。

「それじゃあ、早く帰らないと」

「うん。今、お父さんの車でここに向かってるっていうから、そのまま行くから。だから、陽菜の自転車、結衣の家で預かっておいて」

「うん、分かった」

 そこへ、五十嵐君が戻ってきた。

「なんだ、みんな暗い顔をして? ケーキが、不味かったのか?」

 と、五十嵐君が言った。

「大和、如月のおじいさんが、倒れて病院に運ばれたんだって」

 と、結城君が言った。

「如月、おじいさんも、具合が悪かったのか?」

 と、五十嵐君が陽菜に聞いた。

「うん……。もともと、あんまり体調はよくなかったんだけど。おばあちゃんが亡くなってから、元気が無くなって……」

 と、陽菜は悲しそうに言った。

「そうか……。まあ、元気を出せよ。お前が泣いてたら、おじいさんも悲しむぞ」

 と、五十嵐君が言った。

「うん……。五十嵐君、ありがとう……」

 五十嵐君って、見かけによらず、意外と優しい一面もあるのね。

「あっ、メールが――」

 と、陽菜が言った。

「お父さんが着いたみたい。それじゃあ、行ってくるね」

「私も、外まで一緒に行くわ。二人とも、待ってて」

 私は、五十嵐君と結城君にそう言うと、陽菜と一緒にお店の外に出た。


「結衣ちゃん、ごめんなさいね。せっかく誘ってくれたのに。おばあちゃんに続いて、おじいちゃんまで……」

 と、陽菜のお母さんは、途中で言葉を詰まらせた。

「結衣、それじゃあね。また明日、学校で」

「うん」

 陽菜は、行ってしまった。陽菜は、また明日とは言っていたけれど、これから鳥取県まで行くということは、今日中に帰ってくることは、絶対に不可能だろう。そもそも、今から遠く離れた鳥取県まで行くということは。陽菜のお母さんの言葉から考えても、おそらく、おじいさんはもう……。陽菜は、明日から数日は休むことになるのだろう。


「結衣。陽菜ちゃん、どうかしたの?」

 私がお店に戻ると、お姉ちゃんが話しかけてきた。

「お姉ちゃん。陽菜のおじいちゃんが倒れて、病院に運ばれたんだって」

「おじいちゃんって、隣町の?」

「そっちじゃなくて鳥取県の、陽菜のお母さんの方のおじいちゃんだよ。それで、今から鳥取県まで行くんだって」

「今から? 確か、先月は、おばあさんも亡くなったのよね?」

「うん」

「おじいさんも、おばあさんが亡くなって、寂しかったんだろうね。きっと、そのショックも大きかったんだろうね」

「うん。そうだね……」

 きっと、陽菜のおじいちゃんは、おばあちゃんを追いかけて行ってしまったのだろう。

「結衣が悲しんでても、仕方がないでしょう。五十嵐君と結城君が、待ってるわよ」

「うん。分かってるよ」

 私は、二階に上がった。


「一之瀬さん、如月は――」

 と、結城君が言った。

「行ったわ」

「そう。これからどうしようか?」

「どうしよう?」

「とりあえず、一之瀬も、ケーキを食べてしまえよ」

 と、五十嵐君が言った。

「うん。そうする」

 私は席に着くと、残っていたチーズケーキを食べ、アイスミルクティーを飲み干した。


「如月も帰ったことだし、俺たちも、もう帰るか」

 と、五十嵐君が言った。

「そうだな、帰ろうか。一之瀬さんは、どうする?」

 と、結城君が言った。

「そうね――それじゃあ、帰ろうか」

 陽菜が帰った今、これ以上、することもないだろう。

「それじゃあ、全員、自分の分は、自分で払うっていうことで、それでいいよな?」

 と、五十嵐君は、伝票を手に取りながら言った。

「うん。いいよ」

 と、私はうなずいた。もしかしたら、おごってくれるかも? なんて、思ったりも、しなくはなかったけれど。こっちから、誘ったわけだからね。

「俺、ちょっとトイレに行ってくるから、先に払っといて」

 と、結城君が言って、ポケットから財布をだすと、五十嵐君にお金を渡した。

「ああ、分かった」

 結城君は、トイレに行った。

「それじゃあ、一之瀬も」

「うん」

 私は、お財布から、お金を取り出して、五十嵐君に渡した。

「先に行っとこうぜ。他の客が、入れないからな」

「あっ、うん」

 五十嵐君って、本当に見かけによらず、意外に気が利くのね。私が、勝手に悪いイメージを持っていただけで、本当はとても優しい人なのかもしれない。

「あっ、結衣。もう、帰るの?」

 と、お姉ちゃんが話しかけてきた。

「うん。陽菜も、帰っちゃったしね」

「そう。気をつけてね。五十嵐君も、よかったら、また来てね」

「はい。ケーキとアイスコーヒー、美味しかったです」

「そう、ありがとう。嬉しいわ。結城君は?」

「トイレです」

「そう。ごめんね、忙しいから、もう行くわ。本当に、また来てね」

 と、お姉ちゃんは、五十嵐君に美味しかったと言われたことが嬉しかったみたいで、笑顔で去っていった。

「一之瀬、それじゃあ、俺たちも行こうぜ」

「うん」


 私たちは、一階に下りて支払いを済ませると、お店の外に出た。お店の外には、まだ少し行列ができていた。

「もう、雨が降りそうだな」

 五十嵐君が、空を見上げながら言った。

「そうだね」

 やっぱり、傘を持ってくればよかったな。せめて、バスに乗るまで、降らないでいてくれたらいいけど。

「しかし、大翔のやつ遅いな」

「そうだね」

「もしかして、大か?」

 そんなこと、私に聞かれても、知らないわよ。

 そのとき、頭に冷たい水滴が落ちてきた。

「あっ、雨?」

 私の願いもむなしく、とうとう、雨が降り出してきた。まだ、お昼前だけど、天気予報よりも早く降りだしたようだ。

「一之瀬、傘は――持ってないよな」

 そんなの、見れば分かるだろう。

「うん。持ってこなかった」

「ちょっと、待てよ。この中に、傘は入ってるのかな?」

 と、五十嵐君は言うと、肩に掛けていたリュックを下ろして、中を探し始めた。

 五十嵐君ったら、自分で傘を入れたのかどうかも、分からないのかしら。

「おっ、あったぞ」

 私は、何気なく、五十嵐君のリュックの中をのぞき込んだ――というか、たまたま目に入っただけなんだけど。

「えっ? ――」

 私は、そのリュックの中にあった、ある物に目が釘付けになった。

「あったけど、一本だけだな」

 五十嵐君は、白い折りたたみの傘を取り出すと、傘を開いた。並んでいるお客さんたちも、色とりどりの傘をさしている。

「二人だけなら、入れそうだな。あっ、大翔もいるから三人か。さすがに、三人入るのは無理があるか」

 と、五十嵐君は笑った。

「うん? どうした、一之瀬? 心配すんなよ、一之瀬は入れよ。俺は、女の子には優しいんだぜ」

「あっ、あの、五十嵐君。そのリュックの中の――」

「リュック? ああ、このリュックは――」

 と、五十嵐君が言いかけたとき、

「大和! ごめんごめん。ちょっと、朝から、お腹の調子が悪くて。あっ、雨か」

 と、結城君が、お店から駆け出してきたので、話がそこまでになってしまった。

「大翔、お前、遅いよ。腹の調子が悪いなら、アイスミルクティーなんか、飲んでんじゃねえよ」

「ごめんごめん。大丈夫かなって、思ったんだけどな」

 と、結城君は、再び謝った。

「一之瀬さんも、待たせてごめん」

「ううん。私は、大丈夫だよ。結城君こそ、大丈夫?」

 できれば、後3分くらい遅くきてほしかった。

「うん。大丈夫大丈夫。それじゃあ、行こうか」

 と、結城君が言った。

「大翔、この傘じゃあ小さくて、三人は入れないぜ」

 と、五十嵐君が、傘を見せながら言った。

「そりゃあ、折りたたみ傘なんだから、仕方がないだろう」

 確かに、結城君の言う通りだけど。

「せめて、もう一本あればな」

 と、五十嵐君も、しつこい。

「贅沢言うなよ。一本だけでも、ないよりは、ましだろう」

 いやいや、結城君も持ってきてくれれば、よかったのに。その前に、私が持ってこいという話だけど。

「よし! 大翔、俺たちを待たせたんだから、罰として、お前が濡れていけよ」

「俺は、体調が悪いんだから、濡れたくないよ」

「そんなの、俺が知るかよ」

 と、五十嵐君は笑った。

「ちょっと、二人とも。ケンカしないで、三人で、入ろうよ」

「別に、ケンカなんてしてないよ」

 と、結城君が言った。

「つめれば、なんとか入れるわよ」

 と、私は言ったのだけど――


 その結果――

「大翔、お前、もうちょっと離れろよ。あんまり、俺にくっつくなよ」

「大和の方こそ、もうちょっと離れろよ。気持ち悪いだろう」

「気持ち悪いとは、なんだよ。それは、こっちのセリフだろ。これ以上離れたら、もっと濡れるだろう」

「はいはい――一之瀬さん、ごめんね。やっぱり、この傘じゃあ、三人だと無理があるね」

 と、結城君が言った。

「うん――なんとか、大丈夫だよ」

 本当は、それほど大丈夫じゃないかもしれないけれど。私が真ん中に入って、結城君が私の右後ろに、そして五十嵐君が、私の左後ろに傘を持って入っていた。

 雨は、だんだん強くなってきているみたいだ。真ん中の私は、なんとかあんまり濡れずに済んでいるけど、後ろの二人は、きっと濡れているだろう。

「なんか、くっつきすぎで、本当にごめんね」

 と、結城君は、申し訳なさそうに言った。確かに、五十嵐君と結城君だけがくっついているわけではなくて、私もくっついている。気にしないようにしていたけれど、謝られると、かえって気になってしまう。しかし、私の方から三人で入ろうと言い出した手前、そこは仕方がない。

「大翔、お前、どさくさにまぎれて、一之瀬のケツを触ってんじゃないだろうな?」

 と、五十嵐君が、変なことを言い出した。

「えっ?」

 私は驚いて、結城君の方を振り返った。

「何を言ってるんだよ。俺が、そんなことをするわけがないだろう。大和じゃあるまいし」

「はっ? 俺が、一之瀬のケツなんか、触るわけないだろう。だいたい、右手に傘を持ってるし、左手はリュックを押さえてるからな」

「ちょっ、ちょっと、二人とも止めてよ。他の人が、変な目で見てるから。恥ずかしいじゃない」

 実際、そんなに他人が見ているわけではないけれど、私は顔が真っ赤になってきた。

「一之瀬さん、本当に触ってないからね」

「うん。分かってる」


 私たちは、雨の中、なんとかバス停までやってきた。バスの時刻を確認すると、五十嵐君と結城君の乗るバスの方が、私の乗るバスよりも5分ほど早く来るようだ。

「俺たちの乗るバスが来るのは――」

 と、結城君は腕時計を見た。

「おい、大翔。ちょうど、バスが来たぞ。あれじゃないのか?」

 と、五十嵐君が、走ってくるバスを指差した。

「ああ、そうみたいだな」

 バスがバス停に停車すると、五十嵐君と結城君は、すぐにバスに乗り込んだ。

「そうだ。一之瀬、この傘、お前に貸しておくよ。なあ大翔、いいだろう?」

 と、五十嵐君は、先にバスに乗った、結城君に聞いた。

「うん。もちろんいいよ」

 と、結城君はうなずいた。どうして、結城君の許可が必要なんだろう?

「それじゃあな、一之瀬。風邪ひくなよ」

 と、五十嵐君は、私に傘を渡した。

「うん。五十嵐君と結城君もね。傘、どうもありがとう」

 私は、傘を受け取った。

「あ、あの、五十嵐君――」

「ん? なんだ?」

「あのね。リュックの中にあった――」

 と、私が言いかけたとき、バスの扉が閉まってしまった。

 バスの中では、五十嵐君と結城君が、手を振っている。私も、ぎこちなく手を振りかえした。そして、バスは行ってしまった。

 五十嵐君と結城君の乗ったバスが行ってから、きっちり5分後に、私の乗るバスがやってきた。

 私は、バスに乗り込むと、一番後ろの席に座った。私が、座ると同時に、バスはゆっくりと走り始めた。私は、雨に濡れる窓の外を見つめながら、考え込んでいた。

 五十嵐君の持っていた、リュックに入っていたもの――

 あれは、私の見間違いでなければ、カギだった。いや、カギであるかどうかは問題ではない。そのカギに付けられていた、あるもの。

 それは、キーホルダーだった。白い子犬の、キーホルダーだった。それは、6年前のあの日。私が、あの男の子に渡した、あのキーホルダーと同じキーホルダーみたいだった。

 もちろん、同じキーホルダーなんて、この世の中に、ごまんとあるだろう。私が渡したキーホルダーとは、違うものかもしれない。

 ――しかし。

 あの男の子は、結城君ではなくて、五十嵐君なんだろうか? 私は、あの男の子の顔を思い出そうとしたけど、思い出せなかった。たった、6年前のことなのに、思い出せることは、男の子がかぶっていた帽子くらいだった……。

 そうこうしているうちに、バスは、私の降りるバス停に近づいてきた。雨は、まだ降り続いている。私は、バスの降車ボタンを押した。

 そのとき、私は、ふと思った。結局、帰りも、私がボタンを押すことになってしまった――と。


「お母さん、ただいま」

「おかえりなさい。早かったわね。あら、その傘どうしたの? そんな傘、持ってたっけ?」

 と、お母さんが、私の持つ白い傘を見ながら言った。

「ああ、これ? 雨が降ってきたから、貸してくれたの」

「ふーん――陽菜ちゃんに?」

「ううん。違うよ。五十嵐君が、貸してくれたの」

「五十嵐君?」

 と、お母さんは不思議そうな顔をした。

「うん」

「男の子?」

「えっ?」

 しまった! ついつい、何気なく言ってしまった。

「陽菜ちゃんと、二人で行ったんじゃなかったの?」

「えっと……。あ、あのね――だから、それはね。陽菜が無理矢理に――」

 私は、完全にしどろもどろになった。

「そういえば、陽菜ちゃんは? 一緒じゃなかったの? 雨が降ってきたから、陽菜ちゃんの自転車、車庫に入れておいたけど」

「そ、そう。ありがとう。あのね、陽菜の、お母さんから電話があってね。陽菜の、鳥取県のおじいちゃんが倒れて、病院に運ばれたんだって」

「あらまあ、大変じゃない」

「それで、鳥取県まで行くことになって、車で迎えがきて行っちゃった。だから、自転車を預かっておいてって」

「そう。分かったわ。それじゃあ、自転車こっちに移動しておくわ。お父さんの車が、入れなくなるから」

「お父さん、いないの?」

「うん。どうせ、パチンコよ」

「ふーん」

 話が変わったので、私は、少し落ち着いてきた。

「結衣、お昼ごはん食べるでしょう?」

「うん」

「今から作るから、待ってて。チャーハンでいい?」

「いいよ。部屋にいるから、できたら呼んでね」


「シロちゃん、ただいま」

 と、私は、ぬいぐるみに声をかけた。高校生にもなって、ぬいぐるみに話し掛けてるなんて、恥ずかしくて誰にも言えないわね。

 そのとき、携帯電話が鳴った。誰だろう? 陽菜かな?

「なんだ、麗華か――もしもし、麗華?」

「結衣、今、大丈夫?」

「うん。大丈夫だけど、どうしたの?」

「どうしたの、じゃないわよ。今、カフェにいるんじゃないの?」

「たった今、家に帰ってきたところよ」

「なーんだ――それで、どこにも見当たらないのね。あっ、お姉さん、こんにちは。結衣ですよ」

 えっ? 今、なんて――

 お姉ちゃんと、いるの?

「麗華、ま、まさか――こっちに、来てるの?」

 まさか、本当に来るなんて!

「ふっふっふ。ばれたか――って、冗談よ冗談」

「えっ? 冗談?」

「いくらなんでも、本当に行くわけないでしょ。今は、東京にいるわよ。知らない? 日本の首都の東京よ」

「分かるわよ。私も、住んでいたんだから」

「そうだったわね」

 電話の向こうで、麗華が笑っているのが、目に浮かぶ。

「もうっ! びっくりさせないでよ。本当に来てるのかと、思ったじゃない」

「なによ。私が来ると、何か不都合なことでもあるの? 私は、結衣に会いたくて会いたくて、たまらないのに」

 なんか、嘘くさい。

「よく言うわよ。麗華が会いたいのは、お姉ちゃんだけでしょう?」

「そんなこと、ないわよ。ついでに、結衣にも会っていくわよ」

「ついでとは、なによ。どうせ私は、お姉ちゃんの、おまけでしょ」

「結衣、そんなに拗ねないでよ」

「別に、拗ねてなんかないわよ。それで、何か用?」

「冷たいわね。用がなきゃ、電話しちゃだめなの?」

「えっ? べ、別に、そんなことないけど」

「まあ、用があるから、電話したんだけどね」

「それで、なんの用なの?」

「うん。この前の話が、どうなったのかなって思って」

「この前の話? 陽菜と五十嵐君のこと?」

「うん。どうなった?」

 そんなことを聞く為に、わざわざ電話をしてきたんだ。

「別に、どうもなってないわよ。陽菜のおじいちゃんが倒れたとかで、途中で陽菜が帰ったから」

「ああ、そうなんだ」

「だから、麗華が聞きたいようなことは、何もないわよ」

「ふーん――お姉さんは、元気?」

「ええ、元気よ」

「それじゃあ、もういいや」

 と、麗華は、電話を切ろうとする。

「ちょっと麗華。もういいっていうことは、ないでしょう? やっぱり、私は、おまけじゃない」

「ごめんごめん。そんなこと、ないって」

 私たちは、それから、お互いの学校生活のことなどを話し合った。

「結衣、それじゃあ切るね」

「うん――ねえ、麗華」

 私は、何故か、電話を切ろうとした麗華を呼び止めていた。

 麗華が気づかずに、そのまま電話を切ってくれたら、それでもよかったんだけど――

「何?」

 と、麗華の声が、電話の向こうから聞こえた。

「…………」

「結衣? どうかしたの?」

「もしも――」

「えっ?」

「もしも、ずっと前から思い続けていた人が、親友の好きな人だって分かったら――麗華だったら、どうする?」

「えっ? どういう意味?」

 私は、どうして、こんなことを聞いたんだろう?

「ううん。なんでもないの。気にしないで、もう忘れて――それじゃあ、切るね」

 私は、電話を切ろうとした。

「私だったら――」

「…………」

「私だったら、親友の為に、身を引くかもなぁ」

「そうなんだ」

 私は、麗華の答えが、ちょっと意外だった。麗華なら、もっと、ぐいぐいいくのかと思った。

「まあ、それが正解かどうかは、分からないけどね」

 と、麗華は笑った。

「結衣、何かあったら、いつでも私に相談してね。それじゃあ切るね」

 と、麗華は、それ以上深く聞かずに、電話を切った。

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