2.3 そこにある見知らぬ世界

 ああ、疲れた。久しぶりの大仕事だった。結局丸一日かかってしまった。

 床も掃除したし、壁の落書きも消したし。シーツも新しいものに交換した。本棚は種類別にきっちりと整頓した。勉強机もどこに何があるのか判らない状態から、ばっちりとお勉強できるようにしてやった。

 うん、満足だ。

 一仕事終えると、御飯が美味しい。三食野菜料理、やっぱりたまらないね。なんかおじいちゃん召使いの人が喜んじゃって、おかわりとかほいほい持ってきてくれる。うむ、苦しゅうない。お坊ちゃんライフもなかなか楽しいかも。

 今日はフランシスは『至高の蹄鉄』亭で晩御飯まで食べて、それから帰ってくる予定になっている。

 なってはいるんだけど、大丈夫かなぁ。ちょと心配。確かに特訓はしたけど、何かやらかしちゃったりはしなかっただろうなぁ。お客様に失礼なことをしてしまっていないか、問題はそこだよなぁ。

 メラニーさんは平気って言ってたけど、この私の代わりを任せるわけだから、そこはしっかりとしておいてもらいたいところだよね。今日の予定ってどうだったっけ? そこまで忙しくはなかったと思うんだけど。

 温室に入ると、野菜の匂いが私を迎えてくれる。うん、素晴らしい。元気にしていたかい? 今日は三食とも私に栄養を与えてくれてありがとう。素敵な味わいだったよ。

「よー」

 程なくしてフランシスもやってきた。ああ、フランシス、どうだった? 大丈夫だった?

 ・・・って。

 えーっと、ちょっと訊くのが怖いな。ボロボロのガタガタなんですけど。どうしたの?

「思ったよりも大変だった。疲れた」

 それはそれは。お疲れ様でした。

 だから言ったじゃない。練習と本番は違うよって。おかしなミスはしなかった? お客様に失礼なことしなかった?

「あー、それはたぶん大丈夫。仕事はちゃんとやったさ」

 どすん、とフランシスは土の上に腰を下ろした。あああ、私のスカート、泥まみれになっちゃうじゃん。もう、しっかりしてよ。座るならほら、こっちに。

 よっこいしょって動かして、石の上に座らせる。軽くはたいてみたけど、これ、汚れ残っちゃうな。しょうがない。

「ほら、フランシス、これ食べて」

 フランシスは、掌に載せられた赤い粒をじっと見つめた。

「これ、何?」

「プチトマト」

 肉体疲労時の栄養補給にはトマトです。リコピンたっぷり。

 げぇーって、そんな嫌そうな顔しないの。

「いらないって」

「もー、騙されたと思って食べてみて。この種類はフルーツトマト系で、すっごく甘くて美味しいんだから」

 嫌悪感の塊みたいな顔で、フランシスはプチトマトを口に入れた。ほら、噛むの。その大きさじゃあ、丸呑みにはできないでしょ。観念して、フランシスはもぐもぐと口を動かし始めた。

「・・・甘い」

「ね?」

 朝御飯で出てきたから、フランシスにもあげようと思って温室の中で探しておいた。フランシスのお母様やシェフが、せっかくフランシスのために用意してくれたものなんだから。少しくらいはちゃんと本人にも味わってもらいたい。

 フランシスもようやく人心地ついたようだ。うん、大変だったね。

「ありがとう、フランシス」

 フランシスのお陰で、今日は楽しかった。休めたかって言われたら、正直全然休んではいなかったんだけど。

 その代わり、フランシスのこととか、フェブレ公爵邸のこととか、色々と判った気がするよ。みんないい人だ。フランシスもとても大事にされている。召使いの人たちも、フランシス坊ちゃんのこと、結構気にかけてくれているみたいだよ。

「じゃあ、また来週かな」

「おお、おう?」

 しっかりしてよ? とりあえずは着替えて、お風呂に入って汗を流してね? 明日辺り筋肉痛にでもなっていなければいいけど。




 部屋に戻った僕は、その有様を見て疲れなど全てぶっ飛んでしまった。

「な、なんじゃあこりゃあ!」

 ゆ、床がぴかぴかしている。昔壁に描いた落書きが、綺麗さっぱり消えてなくなっている。ああ、本棚の本が種類、サイズ、タイトル順にきっちりと並べられている。

 そして何よりも、勉強机の上が整理整頓されている。これでは勉強できてしまうじゃないか。汚れているから勉強できないという言いわけが使えない。ふらふらとよろめいてベッドに倒れこもうとして。

 思わず飛び退いた。このシーツのかけ方。ああそうか、犯人はハンナだ。あいつ、今日一日かけて僕の部屋の掃除をしたんだな。やられた。なんてことをしてくれるんだ。

 言ってやりたいことは沢山あったが、とりあえず今は疲れ果てている。くそ、寝よう。そしてまた今度の『お母様の野菜の日』には、絶対ハンナを休ませてやる。これじゃ今日僕が死ぬほど苦労してハンナの代わりに働いた意味がまるでないじゃないか。

 ベッドのシーツを撫でる。うん、やっぱりハンナのベッドメイクは上手だ。そう簡単に真似できるものじゃない。パッと見だけなら同じように見せかけられるけど、中身が違う。

 僕とハンナもそうだ。外見だけが同じでも、違う人間。ハンナには、ハンナの世界がある。今日はそのことがよく判った。

 なんだか悔しいな。僕はどんどんハンナのことを素敵だと思うようになっていく。ハンナのことが好きになる。

 ハンナのために、何かできることはないのかって考えてしまう。バカみたいだ。

 きっと疲れているせいだ。眠ろう。細かいことはまた明日だ、明日。



 翌朝、目が覚めると同時に僕は全身に痛みがあることに気が付いた。筋肉痛だ。まさかここまでひどいことになるとは。確かに力仕事ではあったが、僕は男の子なのに。情けない。

 あまりに痛みが強いので、その日の予定は全てキャンセルとなった。結果的に一日ベッドで横になっていて良くなったので、まあいいか。食事もここに運んできてくれるし。至れり尽くせりだ。

「坊ちゃま、昨日は張り切り過ぎましたね」

 召使いのオリビエがそんなことを言ってきた。ああ、この部屋の片付けか。ハンナは相当頑張ったみたいだな。何しろ数年がかりで散らかしまくったこの部屋を、たった一日でここまでぴかぴかにしてしまったんだ。

 僕の筋肉痛の理由も、しっかりとつけられるというものだ。結果オーライか。

「モップをかかげて召使いたちの先頭に立つ姿は、まるで伝説に聞く聖女のようでした」

 何をやってくれてんだよあいつは。

 ・・・って、聖女?

「おいこら、誰が聖女だ。僕は男だ」

 僕に言われて、オリビエははっと口をつぐんだ。ん? なんか怪しいな。

「オリビエ、お前なんか知ってるのか?」

「め、滅相もございません」

 脂汗を浮かべながら、ぶるぶると首を横に振る。ははん、オリビエ、お前とは付き合いが長いからな。何か隠し事をしていることぐらいすぐに判るぞ。観念して白状するんだな。

 僕に睨まれて、オリビエはしぶしぶという様子で口を開いた。

「わたくしもフランシス坊ちゃんにお仕えしてもう十一年です。坊ちゃんのことについては、旦那様や奥様よりもよく見知っております」

 そうだな。オリビエには、僕が生まれた時から身の回りの世話をしてもらっているからな。

「自分の目の前にいる方が正しくフランシス坊ちゃんであるのかどうか、それくらいのことは判るつもりでございます」

 ・・・なるほど。

 ウチの屋敷にいるのはボンクラばかりだと思っていたが、どうやらそうでもなかったということか。

「で、どうするんだ? お母様にでも言いつけるのか?」

 まあ、本来バレない方がどうかしているんだ。その時がきてしまったというのなら仕方がない。ハンナには申し訳ないけど、ここまでかな。


「いいえ、それはいたしません」


 僕はむっくりと身体を起こした。いててて。ああくそ、忌々しい。でもそうせざるを得なかった。オリビエが心配そうに僕の背中を支えてくれる。いや、痛いんだから触るなって。あいててて。

「何でさ?」

 僕の問いかけに、オリビエは無表情のまま応えた。

「昨日のお嬢さんが、ただ坊ちゃまと入れ替わって、好き勝手をなさりたいだけのお方でしたら、恐らくわたくしはすぐにでもつまみ出していたでしょう」

 どうだろう。実のところ、ハンナはハンナなりに好き勝手やっていただけにも思えるんだが。

「お優しい方でしたよ。わたくしにも気を遣っていただいて、坊ちゃんのことも、よく理解しようとしておられたようです」

 うん、それはこの片付いた部屋を見れば判るよ。ただ綺麗にするだけなら、何もかも捨ててしまえば良かっただけなんだ。でもハンナはそれをしなかった。そこに落ちている物が本来何処にあるべきなのか。一つ一つきちんと考えて、丁寧に仕舞い込まれている。なくなっているものなんて何もない。これをするのは並大抵の苦労ではなかっただろう。

「坊ちゃんのお考えは、わたくしには判りません。ですが、わたくしは坊ちゃんの思う通りにしていただければと愚考いたします」

「いいのか?」

 オリビエは小さくうなずいた。

「はい。わたくしは坊ちゃんの味方でございます。昨日のお嬢さんにも、どうぞよろしくお伝えください」

 そうか。

 なんだか不思議な気分だ。僕は今まで、オリビエが僕の味方になってくれるだなんて、思ったこともなかった。

 この屋敷の中で、僕は一人。お母様だって、会いたくても会ってはくれない。フェブレ公爵家の御曹司として、たった一人でここにいるものだと、僕はずっとそう考えてきた。

 ハンナ、ありがとう。

 僕は君のお陰で、とても大切なものを手に入れられた気がする。この屋敷の中にしか世界がない僕にも、味方や、友達ができるかもしれない。

 君は本当に、野菜の神様だ。




 ふがふがとサラダボウルの残りを口の中にかきこむ。まったく、みんな何で野菜食べないかな。今日もいっぱい残しちゃってさ。せっかく取り放題にしてあるのに。これ、私のアイデアなんだよ? 失礼しちゃう。

 さぁて、昨日は丸々休んじゃったからね。今日は一生懸命働くよ。気合十分だ。

「あ、今日はハンナなんだね」

 サンドラがそんなこと言ってきた。はぁ、サンドラとナディーンにはすぐに判っちゃったみたいなんだよね。そりゃあそうか。前もって説明しておけばよかったね。

「ハンナちゃんはフニフニしているもんね」

 ナディーンが後ろから私に抱き着いて、こちょこちょとくすぐってきた。きゃあ、ちょっとやめてってば。ひょっとしてフランシスにもこれやったんじゃないだろうな。勘弁してよ、もう。

 メラニーさんによれば、とりあえずフランシスは無難に仕事を終えてくれたみたいだった。お客様からの苦情もなし。ただ、サンドラとナディーンが、気付かれないようにこっそりとフォローをしてくれていたのだとか。やれやれ、今度二人には何かお礼をしないとね。

「でもハンナ、いつの間に彼氏なんか作ってたの?」

 は?

 カレシ? なんのこと?

「ハンナのために一日お仕事まで代わってくれて、ハンナは美味しい料理を食べて休んできたんでしょう?」

 えーっとまあ、そういうことになるのかな? 実際にはここにいる時とあんまり変わらなくて、お掃除ばっかりしていたんだけどね。

「普通、好きでもない相手のために、そこまでする?」

 ど、どうなんでしょう?

 フランシスの場合、野菜が嫌いだからなぁ。そもそもは私に野菜料理を代わりに食べてほしいって話だったし。

 それが三食になっちゃったから、一日身代わりにって話になったんだよね。

 うーん、別に、好きとかそういうのって、関係なくない?

「じゃあハンナはあの子のこと、どう思ってるの?」

 どうって・・・

 まあ・・・

 フランシスか。

 ちょっと生意気と言うか、乱暴と言うか、ハチャメチャと言うか。

 あと部屋が汚いんだよな。お片付けぐらいできるようになってほしいかな。

 それと・・・

 なんだろう。なんだかんだで、結構優しいような。昨日のことだって、「食べるだけの方が楽」とか「ハンナが楽にならなきゃ意味がない」とか、そんなことも言っていたっけ。

 ・・・はぁ、何を考えているのやら。

「どうもこうもありません」

 みんなは知らないけど、フランシスは領主さまの一人息子だ。私なんかがどうこうして良い相手じゃない。同じ顔して、向き合って話をしているとつい忘れちゃいそうになるけど。

 本当なら、出会うことすらあり得ない人なんだよ。

 ああそうか、だから同じ顔なのかもね。だって、会うはずがなかったんだもの。神様の手抜きってヤツ。

 さあさあ、余計なおしゃべりはここまで。今日のお仕事はまだまだこれから。張り切っていくよ。

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