第2章 広がる野菜生活
2.1 野菜野菜そして野菜
僕は激怒していた。いや、だってこんな話は聞いてないし、知らない間にそんなことになっているだなんて、普通は怒るだろう。どういう流れでそんなことになってしまったんだ。バカか。
まあ大方の予想はつくよ。やり過ぎたんだ。物事にはどんなことであれ限度というものがある。それを考えずにやりたい放題をすれば、必ずしわ寄せというものがやってくるんだ。僕はバカじゃないから、そのくらいのことは常識だと思っている。
つまり、僕じゃないバカのせいで、この事態は訪れてしまったというわけだ。はぁ。本当にどうしてくれよう。
その話を聞いた後、僕は次の『お母様の野菜の日』までまんじりともしない日々を過ごした。いや、むしろこっちからあの『至高の蹄鉄』亭を訪ねてみても良かったのかもしれない。しかし仮にもフェブレ公爵家の御曹司であるこの僕が、ふらふらと屋敷の外にさまよい出ても良いという理由にはならないだろう。
もうとにかく、僕はその日を待った。聞きたいこと、話したいことは山のようにあったけど、きちんと内容を整理して、冷静かつ的確に議論を進める準備を着々としておいた。
これほどまでに『お母様の野菜の日』を待ち望んだことはない。その日がやって来て、陽が暮れて。僕はいそいそと温室の中に入り込んだ。いつ来ても蒸し暑い。冬でも汗ばむ、野菜のための環境。そんな中、彼女は涼しい顔でキュウリを
「あ、フランシス、やっほー」
やっほー、じゃないよ。ハンナ、君は一体何をしてくれたんだ。
「どうかした? 大丈夫? キュウリ食べる?」
「とてもどうかしている。大丈夫じゃない。キュウリはいらない」
っていうか、そのキュウリもそもそもウチの温室のものじゃないか。ここ最近、ハンナは待ち合わせの度に、当たり前のように何か野菜を失敬している。そういうところだよ。油断っていうのは、そういうところから生じるんだ。
「ハンナ、君、前回の『お母様の野菜の日』に何を言った?」
きょとん、とハンナが僕の方を見つめてきた。僕と同じ顔で、そんな間抜けな表情をしないでほしい。そしてキュウリをぱきん、と一口。ぼりぼり。やめろ。
「あー、そういえばシェフの人が出てきたよね」
「それだよ」
前回、僕はその話を聞いていなかったわけだ。
「最近残さず食べていただけているようでありがとうございますって」
「そうそう」
なにしろハンナと入れ替わる前は、僕はいかにして『お母様の野菜の日』の夕食をボイコットするかだけを考えていた。それが突然葉っぱ一枚も残さないようになった、というだけでも十分に怪しいというのに。
「丁度良かったから、ダイコンとエシャロットの東方風サラダが美味しかったからおかわり下さいって頼んだんだよ」
「らしいな」
ハンナの目尻がふにゃあん、と下がった。余程美味しかったのだろう。ああくそ、可愛いなぁ。でも今日はそれで誤魔化されないからな。
「なんかシェフの人、感激して泣いちゃってた」
「こっちも泣きそうだよ」
実際涙目だ。ハンナがキュウリと一緒に首をかしげた。
「何かあったの?」
「おおありだよ!」
さあ困った。野菜嫌いのフランシス坊ちゃんが、突然野菜に開眼された。大悟された。野菜神の降臨だ。お屋敷の厨房は大きく沸いたのだそうだ。今こそ、フェブレ公爵家の料理人たちの腕の見せ所であるぞ、と。知るか。
そしてやめてくれればいいのに、料理人たちはお母様の下に直訴に向かってしまった。奥様、今です。今を逃しては勝利はありません。めくるめく野菜グルメの世界に、お坊ちゃんを
お母様の方も、今まであまり理解者のいなかった自分の野菜を、一人息子が認めてくれたとかで、喜びの涙まで流してしまったそうだ。おい、やめろ。判りました、家族の健康のため、可愛い一人息子のために、もっと野菜を食べさせてあげましょう。くっそ、なんだこのやっすい三文芝居。
その結果、恐ろしい事態に
「何がどうなっちゃうの?」
この恐るべき事態を引き起こした張本人は、全く持って他人事のようにキュウリを食べ続けている。ハンナ、この後晩御飯で死ぬほど野菜を食べるのに、君はなぜ今もキュウリを離さないんだ? 野菜を食べ続けないと死ぬ病気か何かなのか?
どうもこうもない。今まで夕食だけで済んでいた『お母様の野菜の日』が、朝昼夜の三食とも野菜料理になってしまうんだ。
「おおー、三食野菜付き」
「違う、三食野菜のみだ」
ふざけるな。ハンナのお陰で夕食の野菜料理からようやく逃げ出せたと思っていたのに。何で朝昼まで野菜料理に
「いいじゃん、食べれば」
野菜の申し子ならそう言うだろうが、残念ながら僕は普通の子供だ。というより、普通の野菜嫌いの子供だ。食べればいいで済まされる問題じゃあない。
「嫌だって言えば?」
涙まで流して感動したお母様に対してそんな、「いらん」とか言えるわけがないだろう。なんて残酷な。人でなし。一応、フランシス坊ちゃんはお母様思いの優しい子ってイメージで通してきてるんだからな。
「じゃあやっぱり食べるしか」
「いーや、食べたくない。僕は野菜が嫌いなんだ」
何が悲しくて一日三食嫌いなものを食べなきゃいけないんだ。そういう修業は、マゾヒストたちの間で勝手にやってくれ。
そういうことで。
「ハンナ、朝と昼も、僕の代わりに野菜料理を食べてくれないか?」
「ええー」
そもそもハンナが必要以上にウチの野菜料理を平らげるからこんなことになったのだ。ただ
「でもなぁ、朝と昼は無理かもだよ」
・・・なん、だと?
野菜さえあれば、他に本当に何も食べなくてもいいという勢いのハンナが、無理?
いやいやちょっと待て、それじゃあ僕はどうしたらいいんだ。朝昼二食も野菜責めにされたら、流石に備蓄してあるお菓子もすぐに底をついてしまうだろうし。何より、朝昼は手を付けずに、夜だけたらふく野菜を食べるとか、超絶に怪しいだろうが。
「何で? 野菜好きだろ?」
「野菜は好きだし、三食野菜料理ってのは魅力的なんだけどさ」
じゃあ何? 何がダメなの?
金か? 払うぞ。フェブレ公爵家は金持ちだ。僕のこづかいだってウハウハだ。
「日中は私、普通にお仕事してるから」
はぁ? 仕事?
ハンナはこっくりとうなずいた。
そうか、そういえばハンナは『至高の蹄鉄』亭に住み込みで働いている身分だった。陽が暮れて夕食の間だけ、この家にやって来て僕と入れ替わっているのだ。朝と昼も同じように抜け出してくる、というのはちょっと難しいのか。
「週に一日くらい、休みは取れないのか?」
「宿屋だからね。基本的にお休みってないよ。人手も少ないし」
なんてこった。
僕は頭を抱えた。いや、まだ
大体年中無休で働かされてるって相当に大変だな。そういうのなんて言うんだっけ、ブラックか。住み込みだっていうから、自分の家の手伝いみたいな感覚なのだろうか。
ハンナはそれ、つらくないんだろうか。毎日毎日、来る日も来る日も仕事漬けで。たまには休みたいとか、そう思うことはないんだろうか。せめて月に一日、いや、週に一日くらいは。
うううー。
「ハンナ、じゃあ、週に一日、君の休みを作ろう」
僕が何を言っているのか、ハンナはよく判っていない様子だった。まあとにかく、今日の晩御飯が終わってからまた打ち合わせだ。僕はハンナが野菜を食べているところと同じくらい、ゆっくりとくつろいでいるところも見てみたいんだ。
それだけだ。
フェブレ公爵家のシェフの皆様は本当に素晴らしいと思う。フランシスはもっとシェフたちに感謝して、ちゃんと野菜料理を味わって食べるべきだよね。こんなに美味しいのに。もったいない。
大きさ、彩り、そして味わい。こんなに豊かな野菜って、なかなかないよ? 育てるのだって大変だ。植えとけば勝手に生えるのとは違うんだから。フランシスのお母様も大したものだ。
まあ、それを食べないで捨てるくらいなら、私がいただくっていうのは悪いことではないと思う。毎回美味しくいただいてますよ。エクセレント。
そしてそれが一日三食に拡大されるという話だ。なんと。夕食はやっぱりガッツリとお腹にたまる感じのものが中心だけど、朝には朝の、昼には昼のやり方ってものがあるんだろうなぁ。実に楽しみだ。
でもなぁ、昼間はなぁ。残念ながら、私はその時間『至高の蹄鉄』亭を空けるわけにはいかない。一人でも客室清掃に欠員が出ると、もうてんてこ舞いの忙しさになるからだ。サボるだなんてとんでもない!
メラニーさんには普段からお世話になっているし、私自身『至高の蹄鉄』亭には住み込みで働かせてもらっている身だ。三食出してもらっている分、しっかりと働いて返さないといけない。この賑やかな街道にある宿場街セレステで、宿のお仕事をさせてもらっているのって、それなりにステイタスなんだから。頑張らないと。
・・・そう思っていたら、フランシスがとんでもないことを言い出した。
その日もフェブレ公爵家で素晴らしい野菜料理をごちそうになって、腹ペコのフランシスを連れて『至高の蹄鉄』亭に戻ってきた。もういつものことだ、メラニーさんが
今日のメニューはぐっつぐつに煮込まれたウシのすじ肉。あー、肉だよ。しかも固いところ。
仕事も忙しいし、さっさと出て行こうとするメラニーさんを、フランシスが呼び止めた。
「あの、メラニーさん」
ありゃ、珍しい。いつもはここで、私とおしゃべりしながら御飯食べて帰るだけなのに。晩御飯のお礼の一つでも言う気になったのかな。
「ハンナに、一日お休みをあげることはできませんか?」
はぁ?
私は椅子から転げ落ちそうになった。え? ちょっと、フランシス、何勝手なこと言ってるの?
ほら、メラニーさんが怪訝な顔をしている。す、すいません、なんでもないんです。愛想笑いで誤魔化そうとしたけど、フランシスは席から立ち上がってメラニーさんの前にまで進んでいった。ちょ、ちょっとー。
「聞けば毎日休みなく働いているということじゃないですか。週に一日で良いんです。ハンナを仕事から解放してあげることはできませんか?」
じろり、ってメラニーさんが私を睨みつけてきた。ひええ、違いますって。私は何も言ってません。お休みだって、もらったところでどうしようもないし。
・・・って、あ、そういうこと。
私を一日休みにして、一日中私と入れ替わっていたい、と。
フランシス、そこまでして野菜を食べたくないのか。なんだかなぁ。
「まあ、ハンナは良くやってくれてるからね。できることならお休みでもあげて、あんたみたいな友達と遊ばせてやりたいとは思うんだけどさ」
メラニーさんは、腕を組んでうーんと
そういうことだから、残念だけど
「じゃあ、誰かがハンナの代わりに仕事をすればいいんですね?」
「いや、そりゃ簡単に言うけど、オーナーとか親方とか、色々と相談しないといけないし」
あ、フランシス、何その笑い。私の顔でそんな悪巧み全開な表情を浮かべないでよ。
「それなら、僕がハンナになって働きます」
な、なんだってー!
驚きのあまり、今度こそ私は椅子からずり落ちた。ちょっと待って、何言い出してるのフランシス?
メラニーさんも、いよいよ心底の
「あんた、貴族の坊ちゃんなんだろ? こんなとこで働かせたりしちゃ、こっちはタダじゃ済まないよ」
「だから、ハンナ、として働きます。ハンナの服さえ着てしまえば、見た目では判らないと思います」
まあ確かにね、それは実証済みだよ。私がフランシスのふりをしているって、未だにフェブレ公爵のお屋敷の中では誰にも気付かれていないもん。
でもそれは、フランシスが普段は何もしていないからでしょ。こっちは事情が違うよ? 私のふりをするっていうなら、フランシスは私と同じように仕事をしなきゃいけないんだよ?
「ハンナのしている仕事、できるのかい?」
そうだそうだ。
「教えてください。覚えます」
そんな簡単に言うな。
メラニーさんは私の方を見た。ぶんぶんと首を横に振る。ダメですって。私、フランシスにそこまでしてもらう理由がないですから。そりゃ、野菜料理には興味はあるけど、でもそのために私の仕事まで代わってもらうだなんて。
続けて、メラニーさんはフランシスの方を見た。フランシスは、なんでそんなに真剣な顔をしてるの? 野菜が食べたくないって、それだけだよね? それで何故メラニーさんを真面目に見返しちゃったりなんかするのよ。よくわからない。
「じゃあ、ちょっとやってみるか」
しょえー。
私の目の前に私がいる。私の予備の着替えを身にまとった、フランシス。「女の子っぽくないね」と言って、メラニーさんがほんの少々お化粧を
何かの魔法としか思えない。鏡の中から私が飛び出してきたら、こんな感じか。くるっと回って、にこっと笑うフランシス。うああ、私そんなことしないよ。勘弁してよ。
「ホントに見た目だけならなんとかなりそうだね」
感心したように、メラニーさんはまじまじと私とフランシスを見比べた。なんだろう、フェブレ公爵邸で服を交換した時はそうでもなかったけど、こうやって他の人に見られると急に恥ずかしくなってきた。フランシスの方は何故か得意げだ。やめてよ、もう。
「じゃあ、後は仕事だね」
そうそう、そっちが問題。いくら外見がそっくりだからって、私のやってる仕事ができないんだったら、認めませんからね。
「海馬の間が空いてるはずだから、ハンナ、そこで見てやんな」
ええー、私ですか。っていうか、メラニーさん割と乗り気なのはなんで?
そっくりの客室清掃係が二人、並んで廊下を歩いていく。これ、お客様が見たらびっくりするんじゃない? あ、フランシス、足音うるさい。もう夜なんだから静かにね。お客様の眠りを
ドタバタと大騒ぎはできないから、とりあえず簡単なお掃除の手順と、後はやっぱりベッドメイクだな。このシーツが肝だから。いい? よく見ててよ?
シーツをこう、ふわり、きゅっ、しゃーっ、ぴしっ。しわひとつなく、ムラなくきっちり。これね。
「すごいな、ハンナ」
まあね。ちょっと鼻高々。これ、私の得意技だから。このシーツテクニックができないで、私の代わりを
「こうか?」
ふわり、きゅっ、しゃーっ、ぴしっ。
・・・うん。
パッと見は、良いんじゃないかな。こう、表面的な部分は良くできているというか。わ、私がやった方がもう少し、この隅っこのところのバランスがしっかりしているというか。つまりそのなんだ。
「なんですぐできるの?」
「いや、適当だけど」
適当!
ハンナのアイデンティティー、適当で持っていかれました。くはぁ、これが領主さまの御曹司パワーってヤツか?
「そうか、良かった」
何が良かったんだ。そんなに野菜を食べたくないのか。あのね、実際のお仕事は時間との勝負にもなるし、簡単にはいかないんだからね。野菜食べる方が絶対に楽なんだから。
「そりゃ、食べるだけの方が楽だろう」
じゃあ無理に私の代わりなんてしなくてもいいじゃん。
「ハンナが楽にならなきゃ、意味がないじゃないか」
・・・何よそれ? もうわけが判らない。
とりあえず、一通りの手はずについてはレクチャーしたけど、夜も遅いし、今日はここまでかな。これくらいの実習で本番をまかせるわけにはいかないから。
「じゃあ、また明日とかに来てもいいかな?」
はああぁ?
「明日来て、また練習するの?」
「迷惑なら他の日にするけど、次の『お母様の野菜の日』までには、なんとかしたいじゃん」
そこまでか。そこまでして野菜を拒絶するのか。おお、野菜の神様。このフランシスの野菜に対する冒涜を許したまえ。
フランシスは熱心に、まだシーツを整える練習をしている。やれやれ、どうしたものか。
っていうか、なんでそんなに一生懸命なのよ。
フランシスが帰った後、厨房でお皿を洗いながら、私はぼんやりと考えごとをしていた。私の格好をしたフランシスが、私の代わりに一日仕事をする。その間、私はフランシスのお屋敷で、三食野菜料理を食べる。なんだろう、これ。
野菜が嫌いだから、代わりに食べてほしいって話だよね。まあ、それは判る。
でも、わざわざ私の仕事を代わってまでやってほしいことなのかな。
お母様のため、でもあるのか。優しいフランシス坊ちゃんだからね。美味しく野菜料理を食べる一人息子の姿を見せ続けてあげたい、とか?
・・・なんかおかしくない?
「ハンナ、あの子、どうだった?」
メラニーさんが洗い終わったお皿を運んでいく。酒場の方も今夜はそろそろ店じまいだ。給仕の子たちも、今頃は休憩室で伸びているだろう。
「また明日練習に来たいそうです」
「へぇ、そりゃまたすごいやる気だね」
ホント、困っちゃうくらいですよ。
「良かったじゃないか」
メラニーさんはにっこりと笑った。
良かった? そうなのかな。
まあ、私としては丸一日仕事から解放されて、朝から野菜料理三昧だからね。確かに良いことずくめだよ。
でもフランシスはどうなんだろう。野菜料理を食べたくない。それだけでここまでするものなのだろうか。
さっきと同じことを考えてしまっている。フランシスのことはよく判らない。顔は一緒なのに、中身まではそううまくはいかないか。
やめた。難しいことなんて、どうせ私には判りっこない。さっさと洗い物を終えて、今日はもう寝てしまおう。
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