1.2 ヤサイガタベタカッタ
野菜が食べたかった。
みすぼらしい格好をした女の子は、そう言ってペコペコと頭を下げてきた。
ごめん、意味が解らない。
「え? なんだって?」
「ええっと、だから野菜が食べたかったので」
まただ。野菜が食べたかった。ヤサイガタベタカッタ。何言ってんだこいつ? 頭大丈夫か?
「言うに事欠いて、そんな言い逃れはないだろう」
支離滅裂なことを口走って、僕を煙に巻く気だな。こっちが子供だと思ってなめているんだろう。そうはいかない。お母様が丹精込めて育てた野菜だ。それを盗むだなんて・・・
ん? あれ? 別に良いのか?
いやいや、泥棒は良くない。このセレステの街を治めるフェブレ公爵邸に忍び込んで、野菜を盗もうだなんて言語道断・・・
でもないか?
あああ、もう、野菜が絡むからややこしくなる。そもそもこいつは何をしに忍び込んできたんだ。
「お前、ここに一体何を盗みに来た?」
「え? だから野菜が食べたかったんです」
ヤサイガタベタカッタ。
混乱の呪文か。もうわけが判らない。なんだって? こいつ、まさか野菜が好きだとか言い出すのか?
「野菜が食べたかったのか?」
「はい、野菜が食べたかったんです」
いかん。僕は頭がくらくらしてきた。こいつはきっと野菜の見せる幻覚だ。そうでないとおかしい。
何しろ、おずおずとこっちを見上げてくるその顔を、僕は良く知っている。っていうか、毎日見ている。
朝、顔を洗う際に鏡に向かうと、そこに映っている愛らしいフェブレ公爵家の御曹司。すなわち僕。
目の前で
女の子は、ハンナと名乗った。すっかり神妙にしてしょげ返っている。野菜を盗みに入って捕まったんだから当然か。ふむ、と僕はその姿を眺めまわした。
年は十歳と言うから、僕より一つ下だ。子供だな。背格好を比べてみても、ちょうど同じくらい。僕が男の子にしては少々背が低くて、見た目が可愛らしすぎるので、それで似てしまっているのか。あと数年もすれば男らしさの方が
・・・それはさておいて、だ。
温室でいつまでもぎゃーぎゃーどたばた騒いでいても仕方がないので、僕はハンナを連れて裏庭の物置小屋にやってきていた。ここは温室よりも更に人が来ない。普段から、嫌な客とか勉強の先生が来た時に隠れるのに使っている。僕にとっては第二の自室と言っても良いくらいだ。
野菜泥棒の弱みがあるからか、ハンナは逆らうことなく僕についてきた。野菜の妖精ではなかったか。安心したような、残念だったような。おほん、そんなことより。
一つ、どうしても解せないことがある。外見? まあ、それはちょっと脇に置いておいて。それより何より、このハンナが『野菜が好きだ』ということだ。
「お前、野菜好きなの?」
「はい、大好きです」
僕が訊いた途端、ハンナは、ぱぁ、と顔を輝かせた。おい、やめろ。僕の顔でそういうこと言うのやめろ。ガチでつらい。真面目にへこんできた。
なるほど、僕のお屋敷で珍しい野菜が栽培されている、というのはセレステの街では噂になっているらしい。お母様もだいぶ派手にやっているからな。で、ハンナはその野菜が欲しくて忍び込んできたと。
野菜のために罪を犯す。こいつは紛れもないバカだ。
「そのピーマンが欲しかったのか?」
「ピーマンじゃありません! パプリカです!」
なんでそこにそんなにこだわるんだよ。ハンナは食いかけのパプリカを、ぐいっと差し出してきた。
「このパプリカは素晴らしいです。今まで見たこともないくらい色も鮮やかで、肉厚で歯ごたえも良いですし、何より味。甘みが強くて、フルーツみたいな感じがします」
・・・お前は何を言っているんだ?
あのな、ピーマンだぞ、ピーマン。苦いんだよ。どんなに調味料をかけても、ひき肉とか詰めてみちゃったりなんかしてみても、ピーマンはピーマンなんだよ。判る?
それが甘いとか。ダメだ。こいつはバカだ。僕と同じ顔したバカがいるとか耐えられん。早々に護衛兵に突き出そう。
「ピーマンが甘いわけないだろう」
「パプリカ! です!」
ハンナはぶぅ、とふくれると、手に持ったパプリカを大きくひと
「皮じゃなくて、果肉です」
うるさいなぁ。どうでもいいよ。口の中いっぱいにパプリカを含んだハンナの顔が、ふわ、と緩む。その表情を見て、僕は不覚にもどきっとしてしまった。
別に、僕はナルシストなんかじゃない。自分の顔を可愛いだなんて思ったりしない。
ただ、その時のハンナは、とても幸せそうで。心の底から、美味しいって。嬉しいって。そんな感情が
ああああ、もう。いいよ。すごく可愛かったんだ。パプリカを食べている時のハンナは、僕の顔じゃない。ハンナだけの顔。ハンナにしかできない、素敵な笑顔をしていたんだよ。ちくしょう。
「それ、美味いのか?」
僕は思わずそう訊いてしまった。だって、目の前であんな顔して食われたりしたら、普通はそう考えるだろうよ。予想通り、ハンナはにっこりと笑ってパプリカを差し出してきた。
「はい。是非ご賞味ください」
うちの畑のパプリカだけどな。細かいことは置いておこう。僕はパプリカを受け取って、まじまじと眺めた。あ、そう言えばこれ、ハンナが
「・・・苦い」
嘘つき。泥棒。お前逮捕。一生牢獄。ふざけんな。
「よく噛んでください。噛めば味が染み出てきますから」
アホか。苦いの噛んだら、更に苦いのが出てくるだろうがドアホ。なんだよ、騙されてみろってか。ああそうかい。くそ、じゃあ噛んでやるよ。フェブレ公爵家の御曹司、フランシス・フェブレはパプリカを
って、あれ?
「・・・甘い」
不思議だ。苦いだけだったのが、少しずつふわり、とした穏やかな甘みが溶け出してきている。ものの味って、一つだけがどっしりと存在しているのかと思っていたけど、どうもそうじゃない。なんというか、複雑だ。苦さがあって、その後から甘さが出てくる。ちょっと噛んで飲み込んでしまうのだと気が付けない。
ハンナが笑っている。ああもう、やめてくれ。僕はそんな顔はしない。その顔はハンナだけのものだ。もう判ったよ。
野菜が好きなハンナ。そして。
僕の好きな、ハンナ。
さて、パプリカの美味しさについて理解してもらったのは良いんだけど、状況は何一つ好転していないよね。私は野菜泥棒として、この家のお坊ちゃんに捕らえられ、裏庭の物置小屋に連れ込まれた。普段は誰も来ない場所だってことだ。はぁ、私、どうなっちゃうんだろう。
この家のお坊ちゃんことフランシスは、うーむ、って唸りながら何かを考え込んでいる。何でしょう。私に与える刑罰について悩んでおられるのでしょうか。困った。明日は朝から私だけで四部屋の清掃をおこなわなければならないんですよ。『至高の蹄鉄』亭のみなさまに迷惑をかけるわけには、ってそれどころじゃないか。
もうちょっと命とか、あと女の子的には他の心配をするべきなのか。でもフランシスは、そういうイメージの人じゃないなぁ。温和というか、優しくて、女の子みたいな顔つき。何処かで見たことがある気もする。そりゃここの領主さまの息子なんだし、
「おい、ハンナ」
「ひゃい」
突然強い口調で声をかけられて、思いっきり噛んでしまった。うう、恥ずかしい。それを言ったら、野菜泥棒で捕まっている時点で恥ずかしいですね。とほほ、確かに美味しいパプリカだったけどさ、あれ一個で一体どんな罰を受ける羽目になるのやら。
「服を脱げ」
ど。
どどど。
どっひゃー。
こ、公爵様の御曹司ともなると、ええっと、そういうお遊びとかもたしなまれるわけですか?
こんな年端もいかない、っていうか、まだ出るとこも出てないし、全然子供というか。ああ、フランシスも子供なんですよね。だからちょうど良いのかって、良くないわバカー!
パプリカ一個で、私、そういう
頭の中がぐるぐるしてきたところで、今度は目の前でフランシスが服を脱ぎ始めた。
ふぎゃぁー。
う、うちの宿ではそういうサービスは取り扱っておりません。娼館でしたらこの先の通りにございますのでそちらをご利用ください。同伴の場合、二名様分の宿泊料金をいただきます。
・・・違う、そうじゃない。混乱してお仕事モードに入っちゃった。
脱げって言われて、フランシスも脱いでるってことは、そうだよね。そうなんだよね。
メラニーさん、ごめんなさい。私、パプリカ一個で買われます。とっても甘くて、ほんの少し苦いパプリカ。フェブレ公爵家のパプリカは、ハンナの味。
「ほら、これを着るんだ。僕は外に出てるから」
ふぁ?
ぱたん、と物置の戸が閉められた。私の手の中には、フランシスの着ていた服がある。あれ? どういうこと?
ええっと、この服に着替えればいいってことなのかな? ほんのりとあたたかい。さっきまでフランシスが身に着けていたからか。手触り、すごくいいな。シルク、キメが細かいんだ。客室のベッドのシーツ、こんなのにできないかな。
おっといかん、これを置いていったということは、フランシスは今下着姿だ。すぐに着替えないと。
って、その後フランシスは、私の服を着るの? こんなボロボロを? しかも女の子の服だよ?
まあいいか、考えてる暇はないし、私には逆らう権利なんかない。
パプリカ一個、だいぶ高くついてるなぁ。
着替え終わった私の姿を、フランシスは「ふむ」と言って眺めまわした。なんでしょう、やっぱりそういう背徳的な趣味か何かなんでしょうか。フランシスが近付いてくる。ひええ。
何個かボタンを掛け間違えていたらしい。丁寧に留め直して、しわも伸ばして、全体的なバランスを整える。「いいんじゃないか」何が?
今度は、フランシスが私の服を着始めた。なんか恥ずかしいな。やっぱり女の子の服は着慣れていないみたいで、所々手助けが必要だった。「なんで背中のこんなところにボタンがあるんだ」そう言われましても。
フランシスの着替えが終わって、私はようやく気が付いた。ありゃ、これは驚いた。道理で何処かで見たことがあると思うわけだ。ちょっと綺麗すぎる印象があるけど、目の前にいるのは紛れもない私だ。あとそうだな、やや気が強すぎるかな。目元が生意気なんだ。もう少しお客様に愛される感じの笑顔が作れませんかね。
じゃあ私の方は、ひょっとしてフランシスなのか。鏡がないかな、と思ったらフランシスが奥から大きな姿見を引きずってきた。わ、すごい。私、いいところのお坊ちゃんみたい。って、それじゃあそのまんまか。
私の横に、フランシスが並んで立った。正直気味が悪い。私の隣に私がいる。しかも少々意地が悪そうな。こういう怖い話ってあるよね。ドッペルゲンガーだっけ。
「さて、ハンナ、お前に頼みがある」
鏡の中で、私が口を開いた。いや、あれは私じゃなくてフランシスか。正に悪魔の
フランシスが、ごくりとつばを飲み込んだ。いや、フランシスじゃなくて私か。超絶にややこしい。
物置で待ち合わせても良かったんだけど、あそこはいつ誰が来るか判らない。ちゃんとシフト表まで作られている温室の方が、確実に人がいない時間帯を知ることができる。そこで落ち合って、僕たちは物置に移動した。
「服とか、前もって置いておくことはできないかな?」
「突然着ている服が変わっていたら怪しいだろうが」
僕にそう言われて、ハンナはしぶしぶと納得した。ごめん、似たような服とか、ないわけじゃないんだ。ただ、僕がさっきまで着ていた服に、ハンナが袖を通すっていうのは、ちょっと興奮した。実際に僕の服を着たハンナに目の前に立たれたら、やっぱりどきどきして、自分が少しおかしいんじゃないかと思うくらいだった。
ハンナの脱いだ服を着る必要も、本当は全然なかった。でも僕がそれを着ることで、入れ替わっている、という感じは強くなった。ハンナも、「その方が自分がハンナでなくなったみたい」と言って笑った。うん、良かった。これで堂々とハンナの服を身に着けていられる。なんだろう、僕は、ダメ人間になりつつある気がする。
入れ替わるのは、実はもうこれで数回目だった。最初に会ってから数日間、僕らは慣らすように何回か入れ替わって、ハンナには屋敷の中に入ってもらっていた。まずは僕の部屋の場所を覚えてもらわないといけない。次に、屋敷の中で僕が良く立ち入る場所。最後は、最も大事なポイント――食堂だ。
この屋敷の警備をしている人間は、はっきり言おう、アホだ。
確かにハンナは僕によく似ている。同じ服を着て、鏡の前でにぃーっと笑うと、どっちががどっちだか判らなくなる。しかし、それは顔つきだけの話だ。
まずは声。これは圧倒的に違う。僕の声は変声期前なのでちょっと高い。ハンナの方は、まあなんだ、ぶっちゃけ僕より低い。仕事で毎日大声出してるからだよ、とか言いわけにもならない弁明をしていた。
次に、歩き方。僕は大股でどかどかと歩く。対してハンナは、あまり音を立てずに静かに歩く。お客様に足音がうるさいって怒られちゃうから、ってまた仕事のせいにする。
後は何といっても、性別の違い。これはいかんともしがたい。やっぱりちょっとした表情の違いに、そこは出てきてしまっている。ハンナの笑顔は、僕と違ってとても優しい。油断していると、どきっとしてしまう。
探してみれば違いっていうのは結構あるものだ。見た目だけで同一人物と判断して見過ごしてしまうような警備なんて、ザルだ。本当ならお父様なりお母様なりに訴え出て、全員クビにしてやりたいところだが、今回だけは勘弁してやる。何しろ、そのお陰で計画がやりやすくなっているのだから。
「ねぇ、本当にやるの?」
ハンナが不安そうに訊いてきた。別に、ここまで見つからなかったんだから、余程のことがない限り大丈夫だろう。
「やるよ。見つかった時には、僕が考えたことだって言えばいい。他愛もないイタズラだって、それで終わりだ」
実際その通りだった。ハンナの姿を見た時、そしてハンナがお母様の野菜を美味しいと言って食べた時。僕は、これはもう運命なのだろうと感じた。ハンナ、君は選ばれたんだ。あの夜空に輝く野菜の星に。
「はぁ」
複雑そうな顔をしているが、ハンナだって乗り気だった。何しろ、金持ちの家に忍び込んで盗み食いしたいほどの美味しい野菜を使った料理を、お腹いっぱいに食べられるというんだから。これ以上の喜びはないだろう。
「でも、フランシスのお母様とかがいたら、流石にバレるんじゃない?」
「ああ、それは大丈夫。お母様は来ないから」
ハンナがええっ、という顔をした。そうか、話していなかったか。
ウチでは家族はバラバラで食事を摂る。それが当たり前のことだった。良く酒場などでがやがやと食事をしている輩がいるが、あれは僕にはよく判らん。あんなにぺちゃくちゃと喋りながらでは、料理の味が判らないじゃないか。
それに、そもそも僕はお母様ともあまり顔を合わせることはない。お母様はお母様で色々と忙しいのだ。
「今までだって、一度も屋敷の中で会わなかっただろう?」
「え、いや、こっちが顔を知らないだけで、気付かないうちにすれ違っていたかも」
その時はいくらなんでも向こうから声をかけてきていただろう。どちらにせよ、ハンナがこの後お母様に出くわすことはないし、それはすなわちボンクラの警備やら召使いやらとしか顔を合わせることはない、ということだ。万事オッケー、問題なし。
「じゃあ、たっぷり堪能してきなよ」
今日は『お母様の野菜の日』だ。いつもならこの後、僕は山盛りの野菜料理を前にして、自らの呪われし宿命に涙をこぼしているだけだった。
「う、うん」
それを、この野菜の女神が代わりに全て平らげてくれるというのだ。素晴らしい。これぞウィンウィンの関係ってやつだ。
ハンナが出ていくのを見送ってから、僕は物置の床にごろんと横になった。ハンナの服はちょっと臭いな。ちゃんと洗濯してもらっているのかな。そういえば、僕はハンナのことは、あまり詳しくは知らない。
僕がハンナのことでよく知っているのは、ハンナが野菜を食べている時の、あの笑顔ぐらいだ。
僕は野菜が嫌いだし、それを代わりに食べてもらえるというのは非常に助かる。このまま『お母様の野菜の日』を無難に過ごせるというのなら、それ以上の望みはない。
でも、一つだけ贅沢を言わせてもらえるのなら。
ハンナに、お母様の野菜料理を食べてもらって、あの幸せそうな笑顔を浮かべてほしい。
僕にはそれが一番嬉しいことなんだって、そう思えるんだ。
もちろん、ハンナにこんなことは言えやしない。だって、なんだかバカみたいじゃないか。ハンナが野菜を食べて笑っていると嬉しい、なんて。
ハンナの服を着てどきどきしてしまったりとか、僕はやっぱりおかしい。ダメ人間の入り口にいる。それもこれもみんな、野菜が悪いんだ。
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