ぼくとわたしの野菜生活

NES

第1章 ようこそ野菜生活

1.1 お母様の温室

 そろそろ陽が暮れようとしている。食事の前に軽く庭で夕涼み。そういうていで、裏庭に抜ける扉から外に出る。ここで誰かに見つかったところで問題はない。「坊ちゃんどちらに?」「ああうん、ちょっと散歩に」こんなもん。

 最初の頃はバレるんじゃないかとハラハラしていたが、今となっては手慣れたものだった。っていうか誰も気付かないっていうのはどうなんだろうか。この屋敷にはボンクラしかいないってことか。まあいいや。不運を嘆くよりも幸運に感謝しようじゃないか。

 裏庭は相変わらず薄暗かった。普段から外部の人間にはあまり見せない場所だし、なにより、ここはお母様の趣味の空間だ。関係者以外は立ち入り禁止。あ、僕は特別ね。そりゃあそうだ、なんてったって僕はこの家、フェブレ公爵家の一人息子、フランシス・フェブレなんだから。

 で、その僕が、なんでだってこんな暗くて土臭くてちょっと蒸し暑くって、おまけに虫なんかがぴょんぴょんと跳ね回っている裏庭なんかにやってきたのか。昆虫採集? そんなダルいことに興味はないよ。大体珍しい虫なんて、自分で捕まえるより召使いに頼んで買ってきてもらった方が断然楽だ。

 お金を払ってなんとかできるものなら、お金で解決すればいい。でも、世の中にはお金じゃ手に入らないものだってある。僕にだってそのくらいのことは判っている。一応、フェブレ公爵家の御曹司なんだぞ。バカじゃないんだぞ。

 裏庭を奥まで進むと、厚いガラスでできた、大きな建物が見えてきた。お母様の温室。こんなものを屋敷の敷地の中に作るとか、ホント、道楽にもほどがある。よっぽど暇だった、というか、現在進行形で暇なのだな。あきれてものも言えないが、まあ、とりあえずはこれがえんであったと考えられないこともない。やれやれだ。

 温室の入口に、鍵はかけられていない。敷地の中だし、それに、そもそもここには盗まれて困るものなんて何もないのだ。少なくとも僕はそう思っている。むしろ綺麗さっぱり、何もかも盗まれてなくなって欲しい。その場合、犯人ははっきりしているな。やるとしたら大変な作業になりそうだ。その様子を想像して、僕は思わず笑いがこみあげてきた。

 温室の中は、外よりも更に蒸し暑い。年中通してこんな感じだ。一定の気温と湿度を保つためなのだとかなんとか。窓を開閉するレバーとか、蒸気を使った暖房とか、あらゆる国から取り寄せた、様々な便利機能が集約されている。これを道楽と言わずして果たして何と呼ぶべきか。

 そこで育てられているものが、色とりどりの美しい花々であったのなら・・・まあ世間一般からは理解されやすいだろう。屋敷を訪れた客人にも紹介しやすいし、自慢にもなる。なんなら僕の部屋に飾ってやっても良いくらいだ。

 残念ながら、ここにはそんな見目麗しい花はない。正確には、この場所の目的は花を咲かせることではない。鮮やかな色彩とは無縁ではないが、どちらかといえば多彩な緑と出会うことができる。濃い緑と薄い緑。緑一色。っていうか緑。緑だけ。

 見ているだけでうんざりしてくる。ここはお母様の趣味の菜園。野菜畑だ。

 屋敷に負けないくらいの広い空間の中に、もうぎっしりと植えられた野菜の数々。花? ああ、咲いているよ、ちっちゃくってしょぼい、野菜の花がね。花なんてここではほとんど意味がない。むしろその後、熟れた実がなることの方に意義がある。お母様は、珍しい野菜を育てて、収穫するのが大好きなんだ。

 野菜なんて、僕は大っ嫌いだ。

 温室の中をずんずん進んでいく。ここに立ち入ることができるのは、お母様と、その許しを得た使用人、そして僕だけだ。そして今日、こんな時間に温室に入ってくるような変わり者の人間は僕しかいない。

 そう、だから。

「ふわ、早かったねぇ」

 土の上に座り込んで、口いっぱいにトマトを頬張っているこの子は、本来ここにいてはいけない人物、ということだ。

「ハンナ、これから食べるっていうのに、もう食べてるのか?」

 ハンナはちょっと不思議そうな顔をして、それから手元のかじりかけのトマトに目線を落とした。肩の所で切り揃えられた栗色の髪、ぱっちりとして優しい目元、柔らかくてふにふにした頬と口元。はぁ、僕はナルシストのつもりはないんだけどな。

「えへへ、我慢できなくって」

 そう言って、ハンナはがぶりとトマトを口にした。にこにこしながら、美味しそうに咀嚼そしゃくする。ああ、もう、ちくしょう。

 僕とそっくり、というかほとんど同じ顔をしているハンナ。ちょっと汚れて、所々ほつれた服を着て、手づかみで他人の家の畑の野菜にむしゃぶりついているハンナ。そして、誰よりも美味しそうに野菜を食べるハンナ。

 もういい、認める。僕は、そんなハンナのことが好きなんだ。



 セレステの街は、大陸の南方、交通の要衝ようしょうに存在する。北の方にある帝国に通じる大きな街道と、西の方にある大きな港をつなぐ交差点で、ここには昔から沢山の商人たちが行き来していた。

 フェブレ公爵家は、そのセレステの街で一番に大きな貴族で、この街の領主を務めている。共和国の中でもそれなりの実力者で、平たく言えば金持ちの権力者だ。

 僕、フランシスはそのフェブレ公爵家の事実上の跡取り息子。弟やらができて家督争いでも発生しない限りは、僕が家を継ぐことになる。生まれた時から、僕はそういうものだと教えられ、あるがままに受け入れてきた。

 弟に関しては、ちょっと期待はできないかな。お父様はいつも忙しくて、屋敷にはいないことが多かった。年の半分は評議会に参加するため、共和国の首都に出かけている。お母様の方は、毎日趣味の習い事だ、お茶会だ、と楽しく遊びまわっている。二人とも、お互いの顔なんて忘れちゃってるんじゃないのかな。

 そのお母様の趣味の中で最たるものが、あの裏庭の温室。古今東西の珍しい野菜を入手して、それを栽培するというものだ。

 確か僕が六歳の時にできたのだから、もう五年も経つのか。初めは大人しく数種類の、ありふれた野菜ばっかりだったのだが。今ではもう、野菜の魔窟と呼ぶのにふさわしい状況だ。見たこともない形、そして見たこともない色の野菜。それは間違っても人が口にしてはいけないもののようにも思える。野菜だけど。

 残念ながら、お母様は野菜とは食べるもの、という認識を持つ人だった。丹精込めて作られたその野菜を、屋敷の料理人たちが腕を振るって料理する。毒々しい色彩が皿の上に盛られているのを見て、僕は卒倒しそうになった。

 大体、僕は元から野菜なんて好きじゃない。だって草だよ? 苦いし、青臭い。口の中にへばついて気味悪い。あと、一言でいって、不味い。

 最初は毎日毎食、お母様の野菜がこれでもかと言わんばかりに食卓に並んで、うんざりを通り越して拷問のような食事が続いていた。あれは無理だ。僕は料理っていうか野菜を半分くらい残して、後は部屋でお菓子を食べてしのいでいた。野菜なんか嫌いだ。その思いはこの時期、より一層強くなっていった。

 それが終わりを告げたのは、お父様のお陰だった。たまに屋敷に帰ってきて、三食あれを出されたのだからたまったものではなかったのだろう。「せめて週に一食にしてくれ」という、お父様による心からの懇願こんがんを受けて、『お母様の野菜の日』が制定される運びとなった。まあ、その後お父様はその日を避けて家に帰るようになった、という何ともコメントしづらい逸話もあるのだが、それはそれとしておこう。

 ということで週に一度、『お母様の野菜の日』がやってくる。その日の夕食は、手加減なしで山盛りの野菜責めだ。僕は毎週その日をやり過ごすため、部屋に大量のお菓子を備蓄し、いかに素早く食堂から脱出するかだけを考えていた。

 そう、あの日までは。


 そもそもなんでこんなおかしな野菜生活を送らなければならないのか。野菜があるのが悪いのである。僕は夜のうちにあの温室を訪れて、野菜を始末することを考えた。

 できることなら温室ごと破壊してしまいたかったが、それは流石にバレたらただでは済まないだろう。何しろお金も手間もかかっている。それに、お母様をそこまで悲しませるつもりはなかった。

 僕は、ただ、野菜を食べたくないだけなんだ。

 夜中にこっそりと温室に忍び込んで、僕は唖然とした。広い、広すぎる。外から見ても大きい建物だとは思っていたが、中はまたメチャクチャに広い。そしてそこに、所狭しと野菜。野菜。野菜。

 ここで作った野菜たちは、あくまでお母様の趣味であって、外で売ったりとか、配ったりとかは全くしていない。いや、これだけあるならいっそ売ろうよ。セレステの新名物にできそうなくらいの勢いだよ。

 これを全部始末するとか、無理だ。絶望に打ちひしがれて、僕はその場に崩れ落ちた。なんてことだ。肥料と水分を程よく含んだいい土だ。いや、そうじゃなくて。僕は、なんて無力なんだ。


「うはー、うんまーい」


 ・・・誰だよ。

 野菜という運命から逃れられない悲劇の御曹司を演じていたところに、バカと言うか能天気と言うか、とにかく何一つ考えていない系の声が聞こえてきた。

 いや、ちょっと待て。この温室は関係者以外は立ち入り禁止だ。お母様の厳しい指導の下、その才能を認められた野菜ソムリエなんやそれという召使いたちだけが、ここで作業をおこなうことができる。だからこそ、その合間を縫って誰もいない時間帯に僕は侵入できているわけで。

 ――つまり、今ここにいるのは?




 その日のお仕事が終わって、今日もクタクタだった。はぁ、毎日毎日大変だよ。セレステの街が賑やかで栄えてくれてるってのは嬉しいことなんだけどさ。もうちょっとみんな、マナーってものを考えてもらいたいよね。

 昨日宿泊した行商人の御一行様、お部屋の中にやたらと瓶のゴミを残していかれて。しかもご丁寧に、どの瓶にもちょっとずつ中身が残っている。いや、ふたを開けたなら全部飲みきろうよ。なんでどれも指一本分ぐらい残してるの?これを片付けるだけでうんざりしてくる。一部屋にかけていい時間ってのは決まっているんだから。

 もたもたしていたらすぐに「ハンナー!」ってどやされる。はいはい。きっつい臭いのお酒を全部捨てて、ゴミはまとめてポイ、最後にベッドのシーツをふわり、きゅっ、しゃーっ、ぴしっ。これでよし。安宿なんて言われるけど、『至高の蹄鉄』亭のお部屋は常にぴかぴかだ。少なくともこの私、ハンナが面倒を見ている部屋はね。

 ふふん、と得意げになっているところに「うわー、こっち誰か吐いてるー」って悲鳴が聞こえてきた。ああ、もう。モップとバケツを持ってダッシュ。今日はまた別な行商人の一団が宿泊する予約が入っているんだから、到着までに少なくとも六部屋は準備完了しておかないと。

 とまあ、今日も一日こんな戦場を乗り切ってきたわけですよ。お楽しみの晩御飯、って思ってたら・・・毎度お馴染み、お客様のお残しです。はぁ、私、脂身の塊ってそこまで興味が持てないというか。一緒に働いているメラニーさんの体型を見てると、どうしてもね。ハンナ、あれが三十年後の自分だよ? 勘弁してください。

 さて、陽も暮れてきて、時間的には丁度良い頃合いかな。こそこそと街の閑静な住宅街の方に足を運んだ。普段私がいるがちゃがちゃとした宿場通りと比べて、ひっそりとお上品に静まり返っている。目指すはそこの一番奥。ででんとそびえ立つ、フェブレ公爵家のお屋敷だ。

 以前からうわさには聞いていたんだよね。あそこの奥さまは、なんでも珍しい野菜を育てるのが趣味で、週に一度はその野菜を使った野菜パーティーを開いているとか。

 野菜パーティー! なんて甘美な響き。

 私、野菜大好き。なんというか、日頃脂と肉汁にまみれた料理ばかり口にしているからか、あっさりとして繊細な味わいを持つ野菜の方が断然好みなんだよね。こういうこと、メラニーさんとか親方に話しても、「はぁ? 何言ってんだお前? いいから肉食え」ってもう人の話聞けよコラって感じだ。

 いいなぁ、野菜パーティー。余りものでも出ないかなぁ、って思って何度かフェブレ公爵邸の周りをウロウロしてみたんだけど、門番の人に追い返されるだけだった。ダメかぁ、ってがっかりしていた時、私は発見してしまったのだ。

 フェブレ公爵邸の裏手には、うっそうと茂る森が広がっている。途中までがお屋敷の敷地で、その先は自然の山だ。普通の人はそんなところには立ち入らない。そう、普通ならね。

 私の野菜にかける情熱をなめてもらっては困る。脂身女子なんて嫌だ。私は、私の身体は繊維質を求めている!

 なんて言って、最初はもうおっかないし方向も判らないしで散々な目に遭った。そりゃそうだよね。簡単にお屋敷に侵入できちゃったりなんかしたら、大問題だ。そんな私を助けてくれたのは、なんとタヌキだった。

 その日もなんとかしてお屋敷に辿り着けないかと山の中をさまよっていたら、丸々と太ったタヌキを見つけた。私が近付いたら、ぴやっと逃げていってしまったのだけど、その場に残されていたものを見て私は驚いた。凄く綺麗な、輝くほどに美しいぴっかぴかの人参だ。

 こ、これだぁ!

 近くにタヌキの通った獣道けものみちがある。私は四つん這いになって臭いを嗅ぎ、その後を追った。うん、あれを人に見られていたらかなり大変なことになっていたと思う。間違いなくアウトの姿だ。

 そして見つけてしまった。高い石壁と、そこに開いた大きな穴。その先に建つ、ガラスの宮殿。そう、それは正に宮殿と呼ぶにふさわしい。野菜の国の王宮。

 天国って、ここにあったのね。

 ・・・はいはい、判ってます。私はいけないことをしている。他人の家に勝手に入り込んで、そこにある畑を荒らそうとしているのだ。普通に犯罪だよね。天国とか言ってる場合じゃない。見つかったら牢屋に直行だ。

 こそこそと温室の中をうかがってみる。うわぁ、なんだこれ、宝の山だ。綺麗、どんな宝石よりも美しい、珠玉の実りがここに。って、いや、その前に人影がないか確認しないと。うん、誰もいない。温室の裏の扉に手をかけると、鍵も何もかかっていなかった。ハンナちゃん大勝利。

 土の匂い、そして緑の匂い。ふおおお。大きく息を吸いこんだら、なんだか活力がみなぎってきた。野菜って、独特の香りがあるよね。ぐるりと見回すと、ひときわ鮮やかな実りが目に入った。きゃあ、素敵。

 オレンジ色のパプリカだ。それも、とても大きい。『至高の蹄鉄』亭の酒場でもパプリカは使うけど、このサイズ、この色合いはとんとお目にかかることはない。そういう品種なのかな。初めて見る。

 あ、味はどうなのかな。ごくり。

 お屋敷の中、温室にまで入り込んだ段階で、もう後には戻れないくらいな犯罪行為なわけで。だったら、パプリカを一ついただくくらい、微罪ですよね?

 どうせもらうなら、一番大きくて立派なやつ。私の顔ぐらいありそう。服の袖できゅっきゅって拭いて。たまらん。いただきます。がぶり。

「うはー、うんまーい」

 思わず声が漏れた。いやだって美味しいんだもん、仕方がない。至高の味わい。素晴らしい。百点満点。

 歯ごたえ、歯触りも良い。ぼりぼりと音を立てて噛む。いいね。味が濃いところもたまんない。噛めば噛むほど味がしてきて。


「お前誰?」


 突然声をかけられて、私はパプリカと一緒に心臓まで飛び出しそうになった。

 うわあ、ごめんなさい。ほんの出来心だったんです。私はただ、野菜が、美味しい野菜が食べたかったんですぅ!

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