第6話
震える手を伸ばして助手席に置いていたマスクを装着し、タオルとスパナをしっかりと掴んで車を降りて静かにドアを閉めた。外の冷えた風を受けて少し冷静になれたのか、今の状況が恐ろしい現実であるということを認めることができた。準備をしていた時の異常な高揚感はただの緊張へと変わっていた。今なら引き返せるぞと、悩んでみたが心は返事をしなかった。自分に自分の声が届いていないという感じだ。辛うじてまともな判断ができない危険な状況に陥っているということはわかったが、どうしても最期の自分の問いかけが自分に届かないのだった。
俺の頭は完全に食欲に支配されていた。頭は相変わらず靄がかかったようにぼんやりしていたが、手はタオルを握り締め、足はしっかりと女の方へと歩き始めていた。何だかんだで俺はやはり肉の呪縛からは逃れることはできないのだ。怖くても、緊張しても、何を犠牲にしても頭の中にあるものは『肉』一択なのだ。
ただただ己の食欲に従うのみ。全てを振り切って団地に続く闇の中を駆けて行った。
女が団地に向かって行く姿を数メートル離れて追いながら辺りの様子を窺う。団地の敷地内は街灯も疎らで、各階ごとに照っている廊下の照明は入り口のある一階の入り口辺りまで照らすことができない。狩りの現場は夜中と変わらないほど静かで暗かった。
人も車も通らないことを確認して俺は女の所へ小走りで近寄り、回りを警戒しながら真後ろから女の顔面に手を回して口の辺りにタオルを押し付けた。女はベビーカーから手を離してもがいた。ベビーカーの中には幼児がいるのだろうが、何の反応もなかったからきっと眠っているのだろう。俺に捕まった女はタオルを口に当てがわれているため声は出さなかったが俺の手を外そうと体を捩ってうーうーと唸りながら逃げようとしていた。
女の体格は標準よりも小柄だったので右手で口を封じ、左手だけで暴れる体を拘束することは難しくなかった。もちろんその時もまわりを警戒することは忘れなかった。もし誰かに見られたら女を突き飛ばして逃げようと思っていたが、幸い誰も通ることはなく、狩りは静かに続けられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます