第8話

 『伝説の占い師、仮面の皇帝に君は会えるか!?謎を解いて真実をつきとめよ!』

 郊外にある遊園地のホームページが印刷された紙を眺めながら、荻田は僅かに顔を顰める。

 「それで、最初の調査がこれか?」

 「ええ。本人に会えるならそれに越したことはないですからね」

 「仮に野々宮に接触できたとして、それからどうするつもりだ?」

 今となっては、と壁にもたれながらハルは口を開いた。

 「野々宮の存在は都市伝説のようなものじゃないですか。ネットや口コミ、そんなものでしかその存在を確かめられない」

 「その通りだ」

 荻田は大きく息をついた。それについて反論の余地はないと無言で頷く。

 「まずは会ってみないことには、何とも言えませんね。野々宮に関する情報はほぼ皆無ですから。勿論、危険なことはしません。むしろ、危険はないとみています」

 そう断言したハルを史瀬が不思議そうに見つめる。ハルの自信はいつもどこからくるのか。

 「野々宮は、何をしようとしていると思う?」

 「なんでしょうね。いずれ国でも作るつもりかも知れませんが……。今のところ、ただの占い師の集まりだったものが教団みたいになりつつあるってことくらいしかわかりませんね」

 ハルの言葉に頷いた荻田は、史瀬、と呼んだ。

 「お前はどう思う?」

 「俺は……」

 二人の視線を受け史瀬はゆっくりと口を開いた。

 「野々宮に会える可能性があるなら、行ってみる価値はあると思います。実際、野々宮本人が現れるとは限りませんけど」

 「碓氷と、同じ意見か」

 はい、と史瀬は頷く。荻田は長い嘆息をついた。

 「もともと我々の使命は、捜査じゃない」

 「ええ。野々宮という現代のカリスマ的な占い師について研究することには、学術的にも素晴らしい価値があると思っています」

 だから行くんです、どこまでが本気かわからないハルの微笑。

 お前は、と言いかけ荻田は口をつぐんだ。

 「お前たちは研究員であって捜査官じゃない。無理はするな。危険だと少しでも感じたらすぐに退け」

 いいな、と念押しする荻田に、勿論ですとハルは見惚れるような微笑を向けた。 

 「どうして碓氷に話した?」

 二人が出ていくと、荻田はすぐに小田島を部屋に呼んだ。野々宮に関する情報は既に上がってきていたが、まだ公開するつもりはなかった。これほど情報が集まらないことも珍しい。あまりにも巧妙に隠された、野々宮という存在。そこに何か大きな力が関わっているのではないか。荻田はそれを危惧していた。

 「それが俺の仕事ですよ」

 荻田に睨まれれば大抵の職員はひるんだが、小田島は悪びれた様子もなく平然とそう応じた。

 「碓氷も、史瀬くんも、野々宮には興味があるでしょう。俺も、研究員であれば一度くらいお目にかかりたいと思ったと思います」

 「お前は碓氷が絡むと冷静な判断をしなくなるな」

 「俺の論文の話をされてるんですか?確かに俺は十五歳の少年に完膚なきまでに打ちのめされましたよ。まともな教育なんて受けてなかったはずの子どもに徹底的に反証されて、学会へ提出した論文を取り下げざるを得なくなった。現実に起こった出来事です。悪夢のようでしたが」

 荻田は小田島を注意深く見つめた。優秀な研究員だった小田島は自らセキュリティ部門への異動を願い出た。あれはハルが研究所にやってきて一年ほど経った頃だったか。それ以来、二人の間に確執が生まれたというような話は、荻田も耳にはしていない。けれど、ハルが関わると小田島は普段の彼とは異なった行動に出るようになった。それは、時に、ハルを試し、追い詰めようとしているかにも思える行動だった。

 「荻田さんは俺を誤解してますよ」

 どういう意味かとは問わず、荻田はかつての部下を見返した。

 「あれ以来、俺は碓氷に夢中です。恨みようなんてないですよ。あれは天才で、人ならざるものです。荻田さんは俺を、俺と碓氷との関係を危惧されているのかも知れませんが……碓氷に人間的な感情なんて抱いたら、それこそ破滅です」

 その才能とは裏腹に、彼の素行の悪さはあまりにも有名で知らない者がいないほどだった。仁は過去の確執とは別に、そうした面からも史瀬をハルに引き合わせたくなかったに違いない。

 「プライベートに口出しする気はないが」

 「私情は挟むな、ですか?」

 「ああ」

 「そのつもりですが……碓氷が望むなら、俺は何でも差し出してしまうでしょうね。自分でもわかってます。けどそれは、私情というより科学者としての探究心からくるものみたいに思えるんですよ。あいつの行きつく先を、限界を見極めてみたい、そんな欲求です」

 荻田さんにも、そう言いながら小田島は口元だけで笑った。

 「わかるんじゃないですか」

 「俺にはわからん」

 表情を崩すことなく、毅然と自分を見返した荻田に、そうですか、と小田島は微笑んだ。



 少し話がしたいと、荻田が史瀬のアトリエを訪れたのはその日の夕方だった。部屋の隅に置かれたソファに向い合って座った荻田は、碓氷は、とゆっくり口を開いた。

 「初めてここに来た時、記憶をなくしていた」

 「え……」

 「あいつが今も染谷先生のところに通っているのはそれが理由だ」

 「記憶喪失ってことですか?だったら今は……」

 それが問題だと荻田は小さく息をついた。

 「碓氷には、連れ去られてからここに来るまでの六年、空白の時間がある。どこにいたのか、誰といたのか、覚えていないそうだ。恐らく学校にも通っていなかったんだろう。だが知っての通り、碓氷はある種の天才だ。元々そうだったのか、あるいは空白の六年の中で何か特殊な教育を受けたか、それはわからない。だが、もし碓氷に教育を施した人物がいるとすれば何故あいつを手放したのかがわからない。勿論、碓氷が自身の意志で逃げ出したということも考えられるが」

 「連れ去られた、ってどういうことですか?」

 そのままの意味だ。荻田は低い声で呟いた。

 「碓氷の父親はある病院の院長をしていた男だ。家も資産家として有名だった。だが、父親が亡くなって間もなく碓氷は誘拐された」

 「誘拐?」

 ああと荻田は頷いた。

 「まだ十歳にもならない資産家の一人息子が突然いなくなったんだ。誘拐と考えるのが自然だろう。それなのに犯人側からの要求は一切なかった。それにどれだけ探しても見つからなかったんだ。誰かが故意に隠していたとしか考えられない。その間、あいつがどういう生活をしていたのか、今となっては本人が覚えてないくらいだ。もう誰にもわからない」

 想像さえしていなかったハルの過去。どんな環境が、経験が今のハルを形成したのか。それは染谷のような臨床心理に携わる人間でなくとも興味を抱かずにはいられない秘密のように思えた。

 「ハルは、どうしてここにいるんですか?本人は、客員研究員だって」

 「碓氷がお前にそう言ったのか?」

 驚いたように自分を見つめる荻田に史瀬は頷いた。そうかと荻田は呟き、碓氷はとゆっくり口を開いた。

 「実家から縁を切られたも同然なんだ。あいつが保護された時、勿論実家にも連絡はした。父親は亡くなっていたが、母親は健在だったからな」

 だが、荻田は苦々しい顔をして史瀬から顔を背けた。

 「あいつの母親は喜ぶどころか、ここで息子を引き取ってくれと言ってきた。元々大病院を経営してた資産家だ。寄付金って名目でかなりの金額を積んだらしい。それが息子に対する手切れ金だったんだろう」

 「ハルは?それで、納得したんですか?」

 史瀬の問いにああと荻田は頷き、自分を見つめるその目をじっと見返した。

 「家に戻る気は元々なかったみたいだな。母親のことをただの家政婦だと言っていた。それに、自分の実の母はもう亡くなったとか、そんな話をしてたと思う。俺も実際碓氷の母親には面会したんだが……何と言うか、あいつを恐れてるような、疎ましく思っているようなそんな印象だった」

 「そうですか……」

 ハルは時々遠い目をする。時々霞んで、そのまま消えていきそうに思える時がある。自分に自信があって、全てを知りつくしているかのように、何者をも支配できるように傲慢に振舞うのに。人に見せる為の表情を解いた時不意に、一陣の風のように儚い存在になり変る。そのままどこへともなく音もなく消え去って行きそうで。そんなハルを目にするたび、史瀬はひどく不安になった。

 「今さら、こんなことを言う資格は、俺にはない。それは百も承知だが、あえて言わせてもらう。あまり、あいつには深入りするな。俺が碓氷のことを話したのは、それでお前が納得することを望んでるからだ」

 「納得?」

 「碓氷の言動は、傍から見れば謎だらけだ。言うこともすることも、どうしてかと問いたくなる。だが、それは間違いだ。何を聞いたところで碓氷から納得できる答えは引き出せない。ただもっと好奇心を興味を掻きたてられて、取り込まれていく。そういう人間がこれまでに何人もいた」

 黙って自分を見返す史瀬に、荻田はいいか、と言い聞かせるように続けた。

 「碓氷はある種の天才だ。凡人には理解できない世界で生きてる人間なんだ。あいつの生い立ちも、謎が多い。恐らくそれも、今の碓氷を形成する一つの要因にはなっているんだろう。だが、そこに何があるのかは誰にもわからない。記憶がない以上、碓氷自身にも、だ」

 だからこれ以上知ろうとしてはいけない、荻田はまるでそう言うように大きく頷き立ち上がった。

 「悪かったな、時間を取らせて」

 「いえ、そんなこと」

 それじゃぁと言い残し、荻田は出ていった。ハルの秘密に触れた、そんな気はしたが、荻田の言う通り、それでハルの全てが分かったわけでも、全てに納得がいったわけでもなかった。空白の六年間、ハルはどんな風に生きていたのか。何を見て、何を考えていたのか。考えても仕方のないことなのだろう。ハル自身にさえ、本当のことがわからないのだとしたら。

 一人になったアトリエで、史瀬はパレットとナイフを手にキャンバスと向き合った。WAに来てしばらくすると、急に絵が描けなくなった。環境が変わったせいかと思い、自宅に戻ってキャンバスに向かってみたこともあったが、やはり同じだった。以前は、自分の内側から湧きあがる衝動のようなものに身を委ねていればいつでも腕が動いた。何かに突き動かされるように以前は描けていたのに、何故だろう。今は、キャンバスの前に立っても動けない。最近はキャンバスの空白に向き合うことが怖くなることさえある。これまでの作画は、創作活動というより、生理欲求に近かった。自分の中の何が変わったのか。そう考えると胸苦しさを覚える。誰かとの出会いが、誰かの存在が、激しく自分を揺さぶる。そこに引きずられ、これまでと同じ景色が現れない。あの闇は、どこに消えたのか。あるいは影に姿を変え、光の中に潜んでいるのかも知れない。代わりに心の底に住みついた存在。その生き物が目を上げる時、史瀬の魂が叫び声を上げる。今まで押さえつけてきたものに歯止めが利かなくなる。

 いつの間にか手が微かに震えていた。史瀬はパレットとナイフを床に置いた。

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