第9話

 郊外の遊園地は、休日にしては人が少ないようだった。元々目玉になるようなアトラクションのない小さなテーマパークだったので、こんなものだろうかと史瀬はチケットを買っているハルの後ろ姿を眺めた。賑やかで穏やかで、何の緊張感もない。家族連れや恋人同士が休日を楽しむ為だけに訪れる場所。その景色がハルにはひどく不釣り合いだった。

 「行くか」

 ハルは笑いながらチケットを史瀬に差し出した。二人はイベントの為に配布された台紙にスタンプを集めながら園内を回った。幸い、謎という程のものはなく、チェックポイントを順序どおりに回らなければいけないということ以外に時間はそうかからなかった。最後のアトラクションは、いかにもというべきか、隠者の館という占いのコーナーだった。建物の入り口に係員はおらず、これまで集めさせられたスタンプは何だったのかと史瀬は不審に思ったが、何も言わずハルに続いて入り口をくぐった。

 占いの館にいた男は、ルネサンス期の貴族を思わせるような不思議な衣装を身にまとっていた。

 「野々宮……」

 史瀬の声に男が音もなく立ち上がると、顔の上半分を覆っていた仮面が床に転がった。

 「!」

 人だったものは一瞬にしてただの布の塊となり、床に崩れた。

 ハルは足先で抜け殻のようになった衣装を蹴った。

 「ハズレか……でも、野々宮は必ずどこかにいる」

 ハルの言葉に史瀬も頷く。ハルは室内を見渡し、テーブルの上に並べられていたカードに目を落とした。

 「足りないな……」

 「足りない?」

 並べられた九枚のカードに微かに顔をしかめたハルの隣に立って、史瀬もテーブルを見た。

 「前に、お前のことも占っただろ?」

 ああ、と史瀬もカードを眺めながら頷いた。

 「左側が、足りないのか?」

 「その通り」

 ハルは本来カードがあるべきスペースを指先で叩いた。

 「ケルト十字と呼ばれる展開方法だ。カードは十枚ないとおかしい。しかも、ここは最後に置かれる場所じゃない。故意に外したんだろう」

 「他にカードは?」

 史瀬は室内を見回し、床に崩れ落ちた中世風の衣装を探ってみたが、何も見つからなかった。

 二人はテーブルの前に立ち、黙ってカードを見下ろした。

 「ハル……」

 不意に顔を上げた史瀬をハルは見つめた。

 「どうした?」

 「ここ、隠者の館、だろ?」

 「ああ、確かそんな名前だ。隠者……ハーミットか」

 一番右上にあったカードを指差し、なるほど、とハルは呟いた。

 「ひとつ前のアトラクションは、デビルキャッスル、お化け屋敷だった」

 二番目のカードには確かに悪魔が描かれている。ハルの指は三番目のカード、ストレングスに触れた。

 「ライオンの像があった場所だ。入口に一番近いところは、恋人たちの小道、カードはラバーズか」

 「次は……星?」

 右から縦に四枚、一枚、四枚と並んだカードの真ん中の一枚には、大きな星と水を汲む女性が描かれている。

 「ストレングスにライオンなんて意味はない。絵柄に描かれてるだけだ。同じように考えれば、星には泉の絵がある。恐らく、噴水のことだろう」

 史瀬は遊園地の入り口にあった案内板を思い返しながら、ハルの指を目で追う。

 「運命の輪……もっと奥のアトラクションだな」

 「一番奥に、観覧車があったはずだ」

 「確かに絵の通りだ」

 ハルは笑って、次のカードに指を乗せる。

 「元々、この占い方だと、この二枚が中心にくる。重なってるだろ?下になってるのが現在の自分、横向きに上にのってる方が障害や課題を意味してる」

 「愚者と、魔術師?」

 「ああ。ここはわかりにくいな」

 ハルは二枚のカードをずらして並べると、じっとカードに見入った。

 「一番下は、チャリオット……その辺りにあったのはメリーゴーランドだ」

 「タロットだと戦車だが、馬車って意味もあるかなら。間違いないだろ」

 二人はそれぞれ残された二枚のカードを見つめた。重なり合うその二枚には、これまでとは別の意味があるように思えた。

 「愚者は、お前じゃないか?」

 ハルがカードを見つめたまま口を開く。

 「俺は、魔術師があんたじゃないかと思ってた」

 史瀬もまたカードから目を上げない。

 「なるほど……。自分のことっていうのは、案外わからないもんだな」

 ああ、頷いた史瀬が微かに笑うのを見て、ハルも口元を歪める。二人は顔を見合わせた。探すべき場所は明白だった。

 「何があったかは書いてなかった。ただ、工事中で入れないアトラクションがあったんだ。位置的に、その辺りだ」

 カードの空きスペースに目をやった史瀬に、ハルは笑みを向ける。

 「さすが俺の相棒だ」

 異国の逢魔が時。中世のヨーロッパを再現した街並みを抜けると、カーニバルをコンセプトに設計されたエリアに出た。いつの間にか人気のなくなった夕暮れのテーマパークには、一種異様な雰囲気があった。全ては美しく、愛らしく整えられているにも関わらず、道端にたたずむピエロや動物たちの動かない微笑は、背筋が寒くなるような不気味さを感じさせる。童話の世界から現実へと引き上げられた命のない街。 

 どこかしら歪な無邪気さに包まれた異空間の黄昏の中で、どうして、と口を開いたのは史瀬の方だった。

 「どうして、愚者を俺だと思った?」

 歩く速度を緩めることなく、ハルは史瀬に僅かに顔を向けて微笑んだ。

 「俺が、一番好きなカードだからだ」

 ハルの声は優しく、愛を囁くように甘かった。またからかっているのかと、不機嫌そうに眉間を寄せた史瀬。

 「嘘じゃない」

 どこからともなく流れる軽快なオルガンの音色。遠目に見えるメリーゴーランドにハルは微かに目を細める。

 「完成よりずっと、始まりは美しい。出来上がればああやって、永遠に廻り続けるだけだ」

 吸いこまれそうなハルの瞳。何かが狂った夢見る世界にあってさえ、その眼差しは鮮烈で、異質だった。ハルに見つめられる時、史瀬はいつも言いようのない不安を覚える。何もかも壊されてしまいそうな、そのまま自分自身を見失ってしまいそうな、そんな恐怖を感じて。そして本当に自分が恐れているものの正体は、それを望んでしまう自分だということにも気が付いていた。

 愚者は、とハルが吐息のような声で言った。

 「0番のカード、つまり全ての始まりだ。無限の可能性を秘めてる。だから自由で、未熟で、不安定で、無責任で……魂を解放しろなんて、とんでもないことでも言いだせる。現実のお前は絶対にそんなことは言わないだろ?でも、お前がそうしろと無意識に叫んでる声は、いつでも聞こえてる」

 「そんなこと」

 「俺は思ってない、だろ?」

 そうだと応じた史瀬にハルは微かに笑ったようだった。

 「お前はいつでも叫んでるよ。寡黙なふりをして、お前の抑え込んでる無意識は、本当にうるさい。俺に対しても、お前自身に対しても」

 異次元から伸びてきたようなハルの手を史瀬は軽い力で払いのけた。

 「おかしな感覚だ」

 震えが走るほど綺麗なハルの声は笑みを含んで震え、暗さを増す闇の中で咲くように広がる。自分たちを包み込んでいく夜が、そのひそめられた声に加速度を増したように史瀬は感じた。

 「お前を俺だけのものにしたい。それが叶わないなら、殺したいな」

 奇妙な、それは愛の告白だったか。ハルの細められた目が優しげな光を灯し史瀬を見つめる。

 俺は、とじっと耐えるように黙っていた史瀬がついに声を発した。

 「あんたのものになる気も、殺される気もない」

 音もなく、街頭が一斉に点った。ぼんやりとした、不思議の街にふさわしいオレンジ色の光だった。

 「ハル?」

 ハルは唐突に史瀬の腕を掴んで歩き出した。

 「ハル!離せ」

 史瀬はハルの手を振り払おうと腕を振ったが、その手は容易に外れなかった。ハルは僅かに振り向き

 「気付かないか?こっちを見てる奴らがいる」

 低く掠れた声が、人工の明かりを縫って史瀬の耳に届く。史瀬は振り向くことなく黙ってハルにしたがった。ハルの背は、ハルの美しさをそのまま宿していた。捉えどころがなく、隙もなく、わけもなく追いすがりたくなる。

 近づいてくる眩い程の光。メリーゴーランドの傍まで来るとハルは不意に史瀬の腕を放しベンチに一人腰かけた。くすんだオルガンのような音色が奏でる軽快で陽気なメロディに合わせ、命のない馬たちが終わりのない輪の中を巡り続ける。ハルはメリーゴーランドの光を背に、今来た方をじっと見つめた。

 自分には見えない存在の気配を探ろうと史瀬は背後を振り返った。しかしそこには誰もいない。それどころか、自分たち二人しかいないのではないかという錯覚を感じさせるほど、閑散とした園内は静まり返っていた。

 「ハル、行こう」

 史瀬は何かに追われているような感覚に、ハルを振り向き、促した。しかしベンチに座ったまま、ハルはじっとした眼差しを史瀬から逸らさなかった。

 もう少し、囁くようにハルはそう言った。

 冬の終わりの太陽が、ゆっくりと地平に落ちていく。時間が止まってしまったかのように、史瀬は動けなかった。残照の細い指先が、二人を撫でながら遠ざかる。

 史瀬が息を飲む音がはっきりと聞こえた。

 「同じ、目だろ?」

 アルカイックな笑みを浮かべたハルの瞳は、夕暮れの光を受け金色に見えた。ハルの言葉に史瀬が目を見開く。

 「こんなに似てるのに、生き方が違い過ぎる」

 だから、と揺らめくように立ち上がったハルが史瀬に顔を寄せた。

 「許せなくなる」

 「ハル?」

 「忘れるか、慣れるか、痛みを消すにはそれしかない。お前は忘れることを、俺は慣れる方を選んだ。なのに、お前は忘れ切ることができない」

 ハルは史瀬の顔を両方の手で左右から包んだ。

 「やめろ」

 「楽になれ」

 間近に見つめ合うことは息苦しく、同時に心地よくもあった。不思議な高揚感に史瀬は戸惑いハルから目を背ける。

 「忘れられるようなもんじゃないだろ?例え一時的に忘れたとしても、きっと思い出すことはいくらでもある。結局、過去からは逃れられない。俺たち自身が、過去から生まれた存在だからだ」

 掌が、ゆっくりと頬を包み込む。顔を上げるように無言で促され、史瀬は睨むようにハルを見た。

 「誰が否定しようと、俺はお前を肯定する」

 ハルの言葉が声が表情が、自分を根底から揺すぶるのを史瀬は感じた。信じて、守り、縋りついてきた物が、儚く壊れていきそうになる。止めてくれと何に対してか史瀬は呟いた。

 「お前は悪くない」

 史瀬の目が見開かれる。

 「お前のせいじゃない」

 そんな言葉では足りないことはよく知っている。やめろ、掠れた声で史瀬が告げる。

 「罰せられるべきは、お前じゃない」

 「やめてくれ……」

 「自分を責めるな」

 「ハル」

 「お前が自分を責めようが、罰しようが、何も変わらない。過去は変えられない」

 どうして、半ば叫ぶように自分を睨んだ史瀬をハルは静かに見返す。どうして、と苦しげな声で繰り返した史瀬はハルから顔を背けた。

 「そんなこと、俺に」

 「心も、魂も……自分の中にはもうないと思ってた。中に詰まってるのは、知識と技術だ。俺はそれで他人を操ってる。人ならざる者に、人が操られるなんて、笑えない話だろ?」

 「ハル?」

 「後悔も、懺悔も、希望も、絶望も、俺には何もないと思ってた。なのに、お前の絵を初めて見た時、震えたのを覚えてる。頭の中なのか、身体の奥なのか、それこそ心か魂か、お前の絵は、俺を刺した。なくなったはずの俺を、お前の絵が見つけ出したんだ」

 「そんなこと」

 「俺は、お前の絵に、失くした自分を見た。地獄においてきたはずのものも全部。全部、思い出したよ」

 「あんたにとって……地獄って何なんだ?」

 ハルは繰り返しその言葉を使った。生まれた場所のこと、育った場所のこと、進むべき場所、留まるべき場所、あるいはいずれ行きつく場所のことを、ことごとくそう呼んでいた。

 「これ以下は考えられないって程、最低の場所のことだと思ってた」

 どこか懐かしむような穏やかな顔で、ハルは史瀬を見る。

 「今は?」

 その問いを待っていた、そう言うようにハルは微笑んだ。

 「今の俺にとっては……お前のいない場所だろうな」

 またからかわれた、顔を顰めた史瀬に、嘘じゃないとハルは断言した。

 「お前のいない世界にはきっと、光がない。僅かの希望も許しもない。終わりのない真っ青な闇だ。温度も音も臭いもない。時間が強いる限り、暗い闇の底をさ迷うだけの、人生なんてそんなもんだと俺は思ってた」

 お前がいなければ、ハルは静かな声で続けた。

 「俺は何も感じない。自分自身がここにあることさえ」

 そんなと史瀬は思わず声を上げ、言葉を探して沈黙する。

 「俺は、そんな大したもんじゃない……」

 「お前自身はそう思ってるんだろ?それでも、俺にとっては違う。お前が感じる世界を、俺も確かに感じたよ。この世界に溢れる音を色を香りを味を温度を、お前に出会ってから俺は取り戻した」

 それが嬉しかったとも、苦しかったともハルは言わない。だから感謝しているとも、憎んでいるとも。

 「お前は、俺にとって全ての始まりだ」

 その言葉を、どう受止めればいいのか、史瀬にはわからなかった。ただハルが、どことなく苦しげに見えて、それが悲しかった。

 不意に、花火が上がった。空は暗くなりつつあったが、夜空と呼べるほどではない。虚しい空気を震わせるその破裂音。ハルは音の方を振り向いて、口元だけで微かに笑った。そこには史瀬が先程見つけた、悲しみも苦しみもなく、いつもの傲慢で全てを知り尽くした謎めいた男がいただけだった。

 「お待ちかねみたいだな」

 ハルはそう言うと迷わず歩き出した。オルガンの音がゆっくりと遠ざかる。再びハルの背を追いながら、史瀬はその先に一際高い、塔のような建物を見つけた。

 ミステリータワー。それは改修工事中のアトラクションだった。中世の城壁を模したレンガ造りの建物の中は上階に向かって迷路のようになっている。来場者は謎を解きながら塔の頂上を目指すというのがアトラクションの趣旨らしい。

 二人は工事用の囲いの隙間を探し建物内に入り込んだ。窓から差し込む僅かな光を頼りに、塔の最上階にある部屋を階段で目指す。しかし最後の部屋の扉を開けた時、そこには既に人の姿はなかった。

 「遅かったか」

 ハルは部屋の中を素早く見回し、そう呟いた。

 「まだPCがついてる。落とす時間がなかったのか……」

 部屋の中心に置かれたパソコンの前にハルはゆっくりと屈みこんだ。

 「どうした?」

 画面を見つめたまま動きを止めたハルの背中に史瀬は言い知れない不安を覚えた。

 「なめてるな」

 史瀬に画面をのぞかせながらハルは呟く。

 「GJ,BOYS?」

 「GOOD JOB、ここにたどり着いただけでも上出来だといいたいんだろ」

 黒い背景に浮き出た白字のアルファベットを史瀬は黙って見つめた。誰かが自分たちを見下ろし、嘲笑っているような不快感を覚える。

 「ハル」

 モニターの光に照らされたソファの上に、史瀬は何かを見つけた。

 「足りなかったカードかもな」

 史瀬の視線の先、猫足の豪華なソファの上には一枚のカードが置かれていた。落としたわけではないのだろう。それは背もたれに立てかけられていた。

 見てみろと視線で告げるハルに史瀬は微かに頷いた。

 「これは……?」

 史瀬が手にしたカードをハルが覗き込む。

 「皇帝。ここが玉座ってわけでもないんだろうが」

 「野々宮は、ここに?」

 史瀬の目を見ながら、ハルはああと皮肉な笑みを浮かべる。

 「ここにいたってことだろうな」

 皇帝、とハルは呟いて史瀬の目を見た。

 「知ってるか?皇帝のカードが象徴するのは支配だ。権力や時には暴力を伴う、支配や征服。絶対的な力だ」

 「それを、野々宮が持ってるって言うのか?」

 「実際がどうであれ、そう言いたいんだろう」

 史瀬は手元のカードに視線を落とした。以前から感じていた違和感の正体。それが何だったのか、史瀬はようやく気がついた。

 「さっきから、気になってたことがある」

 ゆっくりと顔を上げた時、史瀬の眼差しには確信を得た人間の強いひらめきがあった。

 「野々宮は、俺たちを知ってるんじゃないか?」

 「どういう意味だ?」

 史瀬の手からカードを取り上げると、ハルはソファに腰を下ろした。視線まで持ち上げたカード越しに、史瀬の顔をじっと見上げる。

 「野々宮は、俺たちがここに来ることを知ってた。それに、俺たちが誰なのかも、知ってる気がする」

 史瀬の言葉にハルの口角が上がる。面白い、そういうように、何故、とハルは聞いた。

 「工事中のアトラクションを使ったイベントなんて、普通の遊園地なら考えられないだろ?PCのメッセージも、このカードもそうだ。それに、あの占いの館にあった、愚者と魔術師だって……」

 「見張ってるつもりが見張られてる。確かに、そういうことは往々にして起こりえるな」

 史瀬ははっとしてハルの顔を見た。微かな恐怖と疑惑。史瀬のそんな表情にハルは微かな笑みを浮かべた。

 「俺を疑ってるんだろ?悪くない読みだが」

 「ハル?」

 ハルはカードの表を史瀬の方に向け、俺が皇帝だとして、深く誘いこむような密やかな声で史瀬に問う。

 「俺の目的は、一体何だ?」

 ハルの問いに対する答えを史瀬は持たなかった。一瞬、ハルが皇帝であり、仮面の男であれば、全てのことに納得がいく気がした。けれど、突き詰めて考えるとその理論はどこかで破たんするはずだと冷静に応じる自分もいる。

 史瀬の沈黙にハルはまぁと呟いた。指にはさんだカードを再び自分に向けて皇帝の姿をじっと見据える。

 「野々宮にしても、目的は不明だけどな」

 上目遣いで自分に笑いかけたハルに、史瀬は言いようのない安堵を覚えた。もしハルが、自分が追い、気付かぬ内に対峙しようとしている相手だとすれば、敵いはしないだろうという思いがどこかにあった。それは間隔の長い、しかし確かな痛みとなって、波のような不安とともに史瀬を刺していた。

 「いずれにせよ、野々宮はここにはもういないだろ」

 「ハル!」

 突然煙を上げ始めたパソコンから飛び退くように史瀬は離れた。ハルはゆっくり立ち上がると、小さな破裂音を上げたパソコンのキーボードを何度か叩いた。画面は既に光を失い、機械自体が物理的に破壊されたようだった。

 「持って帰って解析するつもりだったんだけどな……さすがに、そんなことはさせないか」

 想定内だとハルは呟き、帰ろうと微かに笑って史瀬を見た。


 

 軽いノックの音にもハルは振り向かなかった。どうぞとドアに背中を向けたまま声をかける。

 「お邪魔するわよ」

 現れたのは背の高いワンピースの女性だった。ハルはようやく振り返ると、ああと言って彼女を迎えた。

 「お久しぶりですね」

 「そうね」

 「西園寺先生だ」

 傍らの史瀬へハルは年上の女性をそう紹介した。西園寺は形のいい眉を片方だけ吊り上げて、嫌な子とハルを見た。

 「今はただの事務員よ。データ統括部の西園寺です」

 史瀬は椅子から立ち上がり初めましてと頭を下げた。

 「仁さんの息子さんなんでしょ?噂は聞いてるわ」

 西園寺は目鼻立ちのはっきりとした美人だった。それもどちらかというと男勝りな姉ご肌という印象を史瀬は受けた。

 「それで、統括部長殿がわざわざご足労下さるなんて、どんな機密情報を流して頂けるんですか?」

 ハルは立ち上がり、西園寺が脇に抱えていたファイルに目を落とす。

 「残念だけど機密情報じゃないの」

 西園寺はそう言うとファイルをハルに差し出した。

 「……ファンタジーランド?」

 ハルの肩越しに史瀬が資料を覗きこむと、そこにはレジャーランドの運営会社破たんという新聞のクリッピングとファンタジーランドのトップページを印刷したらしいカラーの紙がファイリングされていた。

 「この前、俺たちが野々宮に会いに行った、あの遊園地でしょ?」

 「そうよ。だけど、運営会社は貴方たちが行く前に倒産してたの。時期的にファンタジーランドは閉園後よ」

 ハルはページをめくり、肩越しに史瀬を振り向いた。

 「お前も見ただろ?」

 「ああ」

 先程のトップページには、伝説の占い師に会える、といううたい文句が記載されている。二人がパソコンから確認した時は、そこが野々宮に関するイベントのリンクになっていた。

 「どういうことですか?」

 ハルに見つめられ、西園寺は軽く首をかしげて見せた。

 「うちの子に、少し探ってもらったんだけど、貴方たちが見たのは改ざんされたサイトだったみたいね」

 「改ざん?」

 声を上げたのは史瀬だった。西園寺はそうと頷き、ハルの持っているファイルをさらにめくった。

 「閉園後の本当のトップページはこう。家のPCからアクセスしてみたんだけど、やっぱりこの画面だったわ。それから今は、ここのネットワーク経由で見ても同じ画面が表示されてる」

 運営会社の倒産と閉園を告げる短い文言が、かつての遊園地を背景に固いフォントで書かれている。プリントされた画面を見る限り、とても営業しているとは思えない。さらにページの一番下には、運営会社名と閉園した日付も記載されている。

 「つまり、俺たちはまんまと騙されたってことですね」

 「そのようね」

 「けど……あの日は俺たち以外にも人がいた」

 信じられないという表情で閉園日を見つめていた史瀬が顔を上げる。

 「ああ。最初はな。けど夕方、突然人っ子一人いなくなっただろ?あれには確かに違和感があった」

 これはわたしの憶測だけど、と言い置いて西園寺が細い指先をファイルにかけた。

 「来園者は皆、野々宮の関係者だったと思うわ。ここ、ファンタジーランド自体は買収された、って書いてあるでしょ?」

 新聞のクリッピングに戻り、二人は西園寺の指差す記事の最後の部分を読んだ。

 「野々宮は投資会社まで経営してたんですか?」

 ハルの皮肉を交えた笑みに、西園寺はそんなところよと頷いた。

 「アツィルトの幹部が社長を務めてる会社なの。彼らが設立したペーパーカンパニーじゃないかって言われてるわ。まぁ、そこに野々宮の名前は出てこないんだけど、経営メンバーが全員野々宮の取り巻きだから、間違いないでしょうね」

 なるほどとハルは低い声で呟いた。

 「あのイベントは土曜だっただろ?」

 「ああ」

 「俺たちは金曜にあのイベントの存在を知った」

 ハルは何を言わんとしているのか。史瀬と西園寺の目の前でハルはファイルを音もなく閉じた。

 「金曜の夜、外のネットワークからこのページにアクセスしようとしてたんです。だけど、できなかった。アクセスが集中し過ぎてるってエラーが出て。恐らく、この施設内のネットワークを経由してアクセスした時だけ改ざんされたサイトに誘導されたんでしょう。その上で、一般のネットワークからのアクセスはできないようになっていた。少なくとも金曜の夜から土曜の朝にかけて」

 「そう言えば俺も携帯からはサイトが見られなかった」

 「大がかりなことするじゃない」

 西園寺の言葉に史瀬は初めてはっとした。どうして、という言葉が口をつく。二人が同時に史瀬を見た。

 「どうして、そんなことを?俺たちは逆に、遠くから野々宮を探るつもりであのイベントに行った。なのに、これじゃぁ……」

 「罠にかかったのは俺たちの方だったな。だが、それがどうした?あの遊園地で気付いただろ?野々宮は俺たちを知ってる気がする。お前はそう言った」

 それはと言いかけ、史瀬は不意にハルを見つめた。

 「あのイベントのこと、誰から聞いた?」

 史瀬の問いにハルの顔からは表情が消えた。

 「どうしてそんなことを?」

 「どうして?そいつが俺たちを偽のサイトに誘導したんだろ?野々宮と繋がってる可能性だってある」

 考えすぎだとハルは史瀬から目を背け、ファイルを西園寺の手に返した。

 「ハル?」

 「そいつだって騙されたのかも知れないだろ?俺たちが野々宮を探ってるってことは、ある程度の人間が知ってる。そのうちの誰かが善意で調べてくれた結果かも知れない」

 「小田島さん、なのか?」

 「どうしてその名前が出る?」

 ハルは微かな苛立ちを感じさせる無表情で史瀬を見た。そんなハルの顔を、史瀬は知らなかった。

 「かばってるのか?」

 「あの人は関係ない」

 何かを言いかけた史瀬を遮り、ハルは短く言い切った。

 「身内を疑うのはやめろ。疑心暗鬼の始まりだ」

 「ハル!」

 「それから、このプロジェクトは打ち切りだ。荻田さんには俺から話しておく」

 「何でそんなの急に」

 「巻き込んだことは悪かった。ただ、もうこれ以上関わるな。状況が変わったんだ」

 呼び止めた史瀬を無視し、ハルは部屋を出ていった。二人のやり取りを黙って見守っていた西園寺は、ファイルを手近だったデスクに置いた。

 「小田島とわたし、同期なの」

 「え」

 振り向いた史瀬に少しだけ笑い、西園寺はデスクに軽く腰掛けた。

 「碓氷はここに来て早々、小田島の書いた論文を反証したの。昔は小田島も、それなりに期待された研究者だったんだけどね。あの子に新しい理論を否定されて、論文取り下げたのよ。それから、小田島は碓氷に夢中。何かと碓氷に絡みたがってるの」

 そうですかと史瀬は西園寺から視線を背けながら頷いた。ハルと小田島の間にそんな過去があったとは思ってもみなかった。

 「ねぇ、もしよかったらこれから食事に行かない?ずっとカフェテリアじゃ飽きちゃうでしょ?わたし、お腹空いちゃって」

 腕時計を史瀬に見せるように手を上げて、西園寺はそう言って史瀬を誘った。何となく一人にはなりたくない気がして、史瀬は西園寺とともに出かけることにした。

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