第7話

 逆光の中でも、史瀬にはそれがハルであることがすぐにわかった。カフェテリアに飲み物を取りに行った僅かの隙に、ハルはアトリエに入り込んだらしい。他の人間であればあるいは苛立ちを感じたかも知れないが、それがハルだとわかった瞬間、微かな喜びにも似た感情が史瀬の心を過った。そして、すぐに不安が押し寄せる。

 孤独な背中だった。美しいほど張りつめ、何者も寄せ付けない。音も動きもなく、僅かな体温さえ感じさせない、静物のような背中。

 ハルが見ているのは、いつか自分が描いた絵だった。ハルに出会う前、まだ内側から湧き出るように絵を描けた頃の。

 「タイトルはないのか?」

 ハルは相手を確かめることもなく、背中を向けたままきいた。

 ない、史瀬がそう応じると初めて振り向いた。

 「コギト・エルゴ・スム」

 何を言われているのか理解できず史瀬が黙っていると、ハルは笑いながら再び背を向けた。

 「デカルトのコギト、そう言えばわかるか?われ思う、故にわれあり、だ」

 史瀬はゆっくりとハルの横に立った。

 「何を描いた?」

 「さぁ」

 ハルの問いに気負うことなく史瀬は自らの絵を見上げる。青と黄はひとつの世界に在りながらも交わることなく、それぞれのグラデーションの中で激しく存在を主張し合っている。この絵を描いた時は、何を考えていたのだろう。あの頃はずっと、無意識に絵を描いていた。だから何を描いたのかと尋ねられても、史瀬自身にさえ容易には答えられなかった。

 「今、こうしている時間は、現実だと思うか?」

 「え?」

 間近に見つめ合った二人。その間を緩やかに締め付けるような沈黙が流れた。

 「夢かも知れないだろ?」

 ハルは何を思うのか。微かな笑みで絵に向き直り、ゆっくりと腕を組む。

 「この世に自分を証明するものなんて何もない。ただ、この瞬間が夢かも知れない、そう疑う、この意識だけは確かに存在してる。それが俺であり、お前だ」

 この時間が夢であったとしても、史瀬には何の不思議もなかった。ハルという存在はいつも謎めいていて、強烈な気配を放ちながらも実体がなく、絶え間なく吹き続ける風のようなものだった。

 「お前はいいな。こうして、疑うっていう意識以外のものでこの世界に触れられるし、自分の存在を確認できる。それはこの世界に自分を残せるってことだ」

 「ハル?」

 史瀬が呼びかけてもハルの横顔には何の表情も見つけられなかった。微かに上がった口角は微笑みを連想させる。しかしそれがどんな感情でもないことを、史瀬は既に知っていた。

 この世界に何かを残せる自分をハルは羨ましいと思っているのだろうか。史瀬にはとてもそんな風には思えない。ハルは何も望んではいないのではないか。自分の存在の証明も、存在すること自体も、それを形として残すことも。

 「あんたは、何かを残したいのか?」

 そう問わずにはいられない、見るものを孤独にさせるハルの横顔。自分の姿を映さない鏡を覗き込んでいるような不安さで、史瀬は思わず声を発した。

 「残したい、か……考えたこともなかったな」

 史瀬の予想通りの答えを、予想通りの声音で、一字一句違わずハルは返した。そして、史瀬はまた不安になる。言葉にならない、ひりひりするようなこの感情の正体は何か。

 「俺は、自分の全てと一緒に消えたいと思ってた」

 ハルが史瀬に笑いかけた。深い水の中で、不意に抱きしめられたような安堵が驚きとともに史瀬の内に広がる。

 「俺に関する記憶も、記録も、影響も、俺を知ってる全ての人間が失くしてくれればいいと思ってた。自分がいなくなる時、ここには何も残したくなかった」

 どうして、と問いかけた史瀬にハルは少しだけ不思議そうな顔をした。 

 「俺にはお前みたいにまともな物は残せないから。そんな嘘くさい物が俺の代わりに独り歩きするくらいなら、俺が存在したことを証明するもの全部、消えてなくなった方がいい」

 「ハル」

 ハルの手が不意に史瀬の頬にかかる。

 「でも、今は少し違う。自分がいなくなった時、お前の中にだけ残れるなら、それは悪くない。その目と、耳と、魂に俺が残るなら……どんなに歪でも、醜くても」

 振り払われるより先に、ハルは史瀬の頬から手を離し、先程と同じように腕を組んで絵に視線を戻した。

 「この絵の中に、自分がいればいいとさえ、最近は思うよ」

 「俺は人は描けない」

 史瀬のその言葉に、ハルは口元だけで笑った。

 「お前の意識の中にいる限り、俺はこの絵のどこかにきっと出てくる。だろ?」

 ハルは何でも知っている。自分の絵の秘密、人の心の秘密。この絵から、ハルは何を感じ取っているのだろう。問いたくて、しかし答えを聞くことが史瀬は怖かった。

 「コーヒーでも飲まないか?」

 「え?」

 唐突な提案に戸惑う史瀬に、ハルは呆れたように笑った。

 「これは俺なりのインタビューだ。持ち時間は後三十分ある。その時間をどう使おうが、自由だろ?」

 眼差しだけで自分を促すハルに史瀬は黙って従った。昨日は遅くまでアトリエに籠っていた。部屋に戻ってから、ハルとのセッションが予定されているというメールを読み、さらに眠れなくなかった。寝不足のせいか、謎かけのようなハルとの会話がそうさせるのか、ぼんやりとして頭が働かない。ハルの背を追いながら冬の光が降り注ぐ長い廊下を進む。ハルは無言で角を曲がり、階段を上り、閑散としたカフェテリアに入った。二人は並んでコーヒーを淹れ、街を見下ろせる窓際の席に着いた。午後の光を受けたハルの髪が、言葉にならないほど美しい蜜のような色に史瀬には見えた。

 神の国を流れる川の水面の色。いつかどこかで読んだフレーズが不意に蘇った。ハルは目前に座った自分には何の興味もないかのように、ぼんやりと眼下の街を見下ろしている。その横顔は静かで、孤独で、どこか空ろでさえあった。他人を意のままに操ることのできる魔術師のような人間とは思えないほど。その名を呼ぼうとして思いとどまり、史瀬も意味もなく外を眺めた。

 やがてあくびをかみ殺した史瀬に目をやり、眠いのかとハルが聞いた。史瀬は曖昧に首を横に振り、ゆっくり息をついた。

 「眠らないと生きていけない、人間ていうのは大変だな」

 「眠らない生き物なんていないだろ?」

 「俺はほとんど眠らない」

 ハルはそう言ってカップを手に取った。

 「眠りは浅いし、睡眠時間も極端に短い」

 「短いって?」

 「二、三時間だな。どんなに長くても四時間。逆に続けてそれ以上は眠れない」

 「昔からそうなのか?」

 史瀬の問いに、ハルは珍しく即答しなかった。

 「考えたこともなかった。気付いたらこれが普通だった。言われてみれば、ガキの頃は違ったんだろう。自分でもいつからそうなったのか覚えてない」

 ハルはゆっくりとコーヒーに口をつけた。その姿は傍から見ていてひどく美しかった。

 お前は、とハルが不意に史瀬に顔を向ける。

 「眠るのが怖いって、思ったことないか?」

 史瀬の胸が鈍く痛む。記憶が重たく引きずるような足音を立てて歩み寄ってくる気がする。

 何も言わない史瀬にハルはふと笑い、あるんだなと呟いた。

 だとしたら何なのか。そう言おうとして史瀬は思いとどまった。ハルは音もなくカップをソーサーに戻した。

 「眠ってる状態は究極の無防備だからな。外部に対しても、自分に対しても。他人に寝込みを襲われるならまだしも、夢の中で自分の無意識に切り刻まれるのは耐えられない」

 ハルの深い笑み。どこか自嘲のようにも見える。

 あんたでも、と史瀬は思わず語りかけた。

 「そんな物に悩まされるんだな」

 「そんな物?」

 ハルは軽く目を開いて史瀬を見る。

 「他人のことか?それとも無意識の自分か?」

 「あんた自身の方」

 そうだなと強がるわけでもなくハルは微かに笑う。

 「飼いならせないなら表には出さないさ。眠りが浅いのにほとんど夢を見ないのは、無意識を抑え込んでるからなんだろうな」

 ハルは他人のことは勿論、自分自身についても深く理解しているようだった。全てを知り尽くして、わからないこともなくて、世界はハルにとってただただ退屈なものでしかないのかも知れない。世界に倦んで、背を向けた人のような潔さと寂しさをハルは時折史瀬に感じさせる。

 「眠りが安らぎだなんて言うのは、幸せな奴らの幻想だ」

 そう呟いたハルの横顔には皮肉と悲哀の両方を感じさせるものがあった。

 「あんたは、幸せじゃないのか?」

 唐突な史瀬の問いに、ハルは史瀬を見つめた。

 「面白いこと聞くな」

 「眠りが安らぎだって言う人間が幸せなら、あんたはそうじゃないってことだろ?」

 「そうだな」

 ハルは頷き、お前はとゆっくり言葉を続けた。

 「理論的には正しい」

 「どういう意味だ?」

 無意識か、微かに眉間を寄せた史瀬にハルは微笑む。

 「俺自身が実際に幸せじゃないのか、幸せかどうかわからないのかは、イコールとは言えないだろ?」

 「自分が幸せか、わからないってことか?」

 「厳密に言えば、自分が幸せかどうかなんて、俺には興味がない。だから考えたことも判断したこともない。言い換えれば、それがわからないってことだろ?」

 ハルの答えに史瀬は何も返さなかった。

 眠りが怖いという人間が幸せとは思えなかったけれど、本人がその事実に対して無関心なのであれば、幸せでも不幸せでもないのかも知れないと思う。

 史瀬の沈黙をどう取ったか、ハルは、

 「お前は幸せだと言えるのか?」

 少しだけ意地悪そうにも見える表情でそう問いかけた。

 「ああ。俺は言える」

 その言葉にハルはふっと笑った。

 「何がおかしい?」

 「別に、おかしいわけじゃない。何を持ってそう言えるのか、教えてくれないか?」

 それは、と史瀬は言葉に詰まる。自分が今幸せだと、そう思うことがあるわけではない。ただ、今の環境にも生活にも何の不満も問題もない。だからそれが幸せなのだろうと判断した。本当はそれだけのことだった。

 「お前は別に、幸福を感じてるわけじゃないだろ?相対的に判断して、そう答えてるに過ぎない」

 何も言えない史瀬に、図星かとハルはまた笑った。

 「まあ、それもいい」

 「ハル?」

 ソーサーごとカップを机の端に押しやり、ハルはじっと史瀬の目を見つめた。

 「お前、アツィルトを知ってるか?」

 「アツィルト?」

 「ああ。野々宮っていう占い師の方が有名かも知れない」

 「野々宮……最近テレビでよく取り上げられてる占い師だろ?それが、どうしたんだ?」

 「興味はないか?」

 唐突なハルの問い。史瀬は、何故と微かに顔を顰めた。

 「これから調べようと思ってる。アツィルト……表向きはただの占い師の集まりってことになってるが、裏では自殺幇助、誘拐殺人、そういう疑いが持たれてる組織だ。そのトップが仮面の皇帝って呼ばれてる、野々宮だ。昔は巷によくいるただの占い師だった。けど、怖いくらい当たるってメディアにも取りあげられるようになってから、熱狂的な奴のファンが、信者のようになり始めた。今じゃ布施って名目で、かなりの金も動いてるらしい。実体は野々宮を頂点とした宗教みたいなもんだろう」

 「どうして、調べるんだ?」

 「お前の妹も興味があるみたいだったよ」

 「素良が?どうしてそんなことあんたが知ってる?」

 「資料室で偶然会った。ゲストは入れない場所だ。管理者がマジギレしそうだったから俺が止めに入った」

 どうして、と言いかけ史瀬ははっとしたようにハルを見た。

 「そう言えば、野々宮って占い師を知ってるかって、少し前に素良が言ってた……実際に占ってもらったとか、確かそんなこと」

 「なるほど。当たりすぎて怖い。当たりすぎて嘘くさい。何か気になったのかも知れないな」

 「あんたは、どうして野々宮を調べるんだ?」

 「占いと心理学は切っても切り離せない。心理学でよく知られてるテクニックを使えば、ど素人だって占いを的中させることができる。野々宮はでかい予言はしない。占うのは全て個人的な問題についてだけだ。それが政治家だろうが財界人だろうが芸能人だろうが、多少の情報と心理学の知識、それと、はったり……そんなものがあれば人は人を支配できるようになる」

 「野々宮が、そうだって言うのか?」

 「ああ。俺はそう思ってる」

 面白そうだろ?そう言って笑ったハルから目を反らし、史瀬はしばらく沈黙した。

 「それで、具体的には何をするんだ?」

 「野々宮のトリックを見破る」

 「トリック?」

 「言っただろ?野々宮が使ってるのは魔法でも何でもない。技術と情報、あとはその見せ方の問題だ。本当はアツィルトの方から調べるつもりでいた。でもちょうど良く野々宮に直接会えそうな機会があることがわかった」

 渋る史瀬に、ハルは

 「ないとは思うが、お前の好奇心旺盛な妹が危険なことをしでかす前に止めたいだろ?」

 脅しともとれるようなセリフを口にした。

 「素良はそんなにバカじゃない」

 「どうかな」

 「どういう意味だ?」

 表情には現れない史瀬の苛立ちをハルは見抜き、ゆっくりと口を開いた。

 「誰か、好きな男がいるみたいだったな。そういう感情が絡むと人はまともな判断をしなくなる。特にあのくらいの年の女なら」

 「素良が、そう言ったのか?」

 「心配しなくても付き合ってるわけじゃなさそうだ」

 そんなこと聞いてない、史瀬はむっとして押し黙る。

 「ついてこいよ。面白いもの見せてやる」

 そう言って急に立ち上がったハルを史瀬は驚いて見上げた。

 ハルの研究室には何もなかった。壁に備え付けられた本棚にさえ、書籍やファイルもない。無機的な部屋に唯一不似合いだったのはデスクに置かれたカードだった。

 史瀬は微かに眉を寄せゆっくりとカードの束に手を伸ばした。濃紺に幾何学的な模様が描かれているカードは、トランプにしては少し大きい。

 「タロットだ」

 史瀬が一番上のカードをめくるのを傍らで見守っていたハルが組んでいた腕を解きながらそう言った。

 「タロット?」

 史瀬の手の中には、崩壊する塔とそこから転落する王族と思しき人物が描かれていた。

 「タワー。タロットの中で一番ネガティブな意味が強いとも言われるカードだ」

 「どうして、こんなものを?」

 「野々宮たちの商売道具だからな。初めて見たんだろ?」

 「ああ」

 史瀬はじっと手の中のカードを見つめた。

 「貸して」

 「え?」

 史瀬の手からカードを奪い、デスクに置かれていた残りのカードを合わせると、ハルは笑いながら史瀬に囁く。

 「貴方の未来を占いましょう」

 ハルは大仰な仕草で腕を広げて見せた。

 「くだらない」

 そう一蹴した史瀬を上目づかいで見ると掌でカードを切る。眼差しは史瀬を見つめたまま、デスクの上に器用にカードを並べていく。笑みを含んだままの視線を自らの手元に落とし、ゆっくりと最後の一枚を置く。

 「ここに、貴方の運命がある」

 長い、形のよい指が、魔法をかけるようにそっと、カードを一枚ずつめくっていく。ハルには人の運命を動かすような、そんな不思議な力があるのではないか。占いなど信じない史瀬にさえそう思えるほど、ハルの一つ一つの動きは神秘的で厳かだった。

 今の貴方は、とよく通る声でハルは言った。歌うようになめらかな声が史瀬の心を激しく揺さぶる。

 「これまでの価値観では受け止めることのできない現実に戸惑って、混乱している。貴方は過去に、ひどく傷ついた経験がある。そう、家族に関する出来事です。恐らく、貴方がまだ子供だった頃の……それは長い間貴方を苦しめ続ける出来事だった。けれどある日貴方は、生まれ持った聡明さと勇気でそれを打ち破った」

 史瀬の顔に苦悩の影が過る。ハルは口元の笑みを濃くし、再びカードに視線を落とした。

 「貴方は、記憶に鍵をかけた。生まれ変わるつもりだったのかも知れない。平穏、安静、変化のない生活を望み、それを善とする価値観。これでいいと思いこもうとしているのは、逆に、忘れられないと悟っているから。貴方に、過去を忘れ去ることはできない」

 まるで呪いのようだと、ハルの美しい声を聞きながら史瀬は感じた。真っ直ぐにハルに見つめられていると、何もかも見透かされるようで怖い。彼が精神感応者などではなく、れっきとした科学者であること、あるいは科学者という名のマジシャンであることはわかっているつもりだった。しかし、誰も知らないはずの自分の過去を朗読するように語り聞かせるハルを目の前にすると得体の知れない力に足が竦んだ。

 「貴方の未来に待ち受けるのは、旅立ち。新しい世界、新しい価値観、あるいは新しい貴方自身かも知れない。その為に貴方に必要となるのは、信じる気持ちです。信じるに足るべき人物を信頼する勇気と、強さ。それが、貴方を新しい時間に運んでいく」

 言葉もない。黙って自分を見つめる史瀬にハルは微かに笑った。デスクの隅に重ねたままだったカードの山に再びゆっくりと手をかけ、最後の一枚を裏返す。

 「あるいは……全ての終焉」

 史瀬に向けられたカードには大きな鎌を持つ死神が描かれていた。

 「でも、終わりが全て悪いものとは限らない」

 そうだろ?史瀬が息を飲むのを見届けて、ハルはいつも通り嘲笑にも似た笑いを浮かべた。

 手慣れた仕草で広げたカードをまとめ、残りのカードと合わせてひとつの山に戻す。トントンと机でカードの端を合わせるその音が、静かな室内に大きく響いた。

 「人間には、意識の死角がある」

 突然そう言ったハルは史瀬の背後を指差した。

 「何もない……」

 背後を確認し、史瀬が振り返った時、ハルの姿は既になかった。

 「こういうことだ」

 声のする方に史瀬が驚いて顔を向けると、いつの間に移動したのか、ハルは背後に立っていた。

 「人間の視覚、聴覚、それを再構成する脳の空間認識能力、確かにコンピュータでも完全に再現するのは不可能なくらい、よくできてる。けど、穴はいくらでもある」

 人間は完璧じゃない、ハルはそう言って寂しそうにも見える微笑を浮かべた。

 「人間は見たいようにしか見ないし、見たいと思う物しか見ない。膨大な情報の中から自分の興味や本能が惹きつけられる物だけを一瞬で取捨選択して、脳内に再構成してる。それは、万人に共通の世界じゃない。そいつの内にだけ存在する、一人の世界だ」

 「どうして、そんなことを知ってる?」

 「それが、俺の仕事だから。他人の心を切り開いて、覗いて、取り出して、標本を作る。並べてみるとわかる。人間の本質はだいたい同じだ。面白いだろ?人の数だけ、世界がある。人は結局、自分の作り上げた世界の中でしか生きられない。占いなんてものにすがるのは、他に術がないからだ。真実を知りたい、いや、真実と信じられるものを知りたい。人はいつもそう願ってる」

 「真実?」

 ああ、とハルは史瀬に背を向けたまま頷いた。

 「宇宙や神、それが聖人であれ天使であれ、人知を超えた存在とどこかで繋がって、今の自分にはわからない物を探ろうとする、それが占いだ。タロットは偶然そこに並べられた絵柄を読み解くわけじゃない。それは、何かの力によって、わざわざその場所に、その位置で、出る必要があった。そう、必然だ。人間は自分が知らないことを知っているし、知らないことは知りたいと願う生き物だ」

 そんなこと、これまで考えたこともなかった。ハルは椅子に腰かけ、どこか達観したような静かな表情で史瀬を見上げる。

 「あんたにも、知りたいことがあるのか?」

 ないよ、ハルは笑って足を組んだ。

 「俺にはない。人間として生きることを、俺はもうずっと前に諦めた。だから何もいらない。何も怖くない。何を失うことも。心も、身体も、もうどこも痛まない」

 俺はたぶん人間じゃない。自嘲のようにも見える微笑みで囁いたハル。史瀬は微かに眉根を寄せた。

 「……人間じゃないなら、あんたは何なんだ?」

 「なんだろうな」

 ハルは自分の言葉に微かに笑った。喜びや楽しさ、悲しみも痛みさえ、何一つ感情の見出せない顔。

 膝の上で両手を組み合わせ椅子の背にもたれながら天を仰ぐ。その姿は人類を憐れむ悪魔のようにも、人類に無関心な天使のようにも見える。

 「信じたい、信じさせて欲しい、そんな思いから生まれた気休めが、何の役に立つ?留まるも地獄、進むも地獄。救いなんて、どうせどこにもない」

 ハルがかすれた声で呟いたその言葉に、史瀬は目を見開く。何が、どんな環境が、ハルという存在を育て、作り上げたのだろう。再びぶつかった視線に史瀬は全ての言葉を放棄した。全ての感情を、言葉を吸い込んでいくようなハルの眼差しにはどうやっても抗える気がしない。

 「時間だな。終わりにしよう」

 「……ああ」 

 椅子から立ち上がったハルに促されるように史瀬は部屋を出た。ドアが閉まる時肩越しに見えたハルの顔はどこか疲れた微笑を浮かべているようだった。

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