第6話

 「もう何年経つかな」

 不意に響いた声に史瀬は驚いて顔を上げた。いつからそこにいたのか、手すりに背中を預けたまま、ハルが笑った。

 「お前はもう何年も前からここに夕陽を見に来てた。初めてお前を見かけたのもここだった」

 知らなかっただろ?ハルはそう言うと史瀬の傍らに歩み寄り、手すりにもたれて眼下に視線を投げた。夕陽に照らされるハルの横顔。奇術師とも呼ばれているらしい男の顔は、それでも息を飲むほど端正で一縷の隙もない。それさえ、ハル自身が仕組んだトリックなのか。いつから自分のことを知っているのか、そう尋ねたい欲求を史瀬は押し殺し、黙って黄昏の町に目を向けた。

 ああ、と前を向いたままハルが不意に呟いた。

 「病院か。お前の父親が息を引き取った……。ここからよく見えるな」

 「どうして」

 通い合った眼差し。史瀬の驚愕を半ば恍惚とした微笑で受け止めて、ハルはさらに目を細めた。

 「夕焼けが綺麗だな。街が燃えてるみたいに見える……まるで火事だ」

 手すりを掴んでいた史瀬の手にハルは目を落とした。無意識なのだろう。力を込め過ぎて白くなっている。寡黙な少年の澄んだ瞳は、言葉より確かに彼の抱える痛みを、闇をハルにはっきりと告げる。

 「責めるつもりはない」

 「何、を」

 不意に伸ばされたハルの手に史瀬は思わず身を引いた。

 「お前の過去がどうであろうと、お前が、誰であろうと」

 「やめろっ」

 頬にかかった手を振り払おうとして逆に腕を捉えられる。史瀬の腕を引いてハルはそっと顔を寄せた。

 「俺とお前は同じ生き物だ。稀有で、罪深い、孤独な生き物だ」

 ハルの口角が上がる。それは笑みなのだろうか。

 微笑みに似た表情でハルは首を横に振る。何かの暗示でもかけられたかのように、史瀬は動きを止める。

 思い出せとハルの唇が声なき声で囁いた。

 「お前が逃れたいと思っているもの、お前が忘れたいと願っているもの……どれだけ目を反らしたところでそれが消えるわけじゃない」

 ハルの与える緊張感。柔らかく絡めとられるように、囁かれた言葉の中に落ち込んでいく。どこか心地よく感じられるほど、ハルは巧みに人を追い込む。そして、不意に優しく微笑んで見せる。それでいい、と。

 「まだ痛むんだろ?まだ怖くて、まだ、悲しいんだろ?俺が、忘れさせてやろうか?」

 俺はわかってる、そう囁くように、初めて見せるような柔らかな視線で告げる。

 「どうやって?」

 「俺のものになればいい」

 ハルは何を言わんとしているのか。けれどそれは史瀬の心を捉えて離さない表情だった。人間離れした、ということができるのかも知れない。限界を秘めた生身の人間から逸脱した、ハルの微笑は、美しく、ただ美しかった。それを表現する言葉を史瀬は知らなかった。これまで出会った誰とも違う表情でハルは微笑み、あるいは微笑みによく似た表情を浮かべ、誰とも違う言葉で語った。異邦人では足りない。異国ではなく、ハルはまるで異世界の人間のようだった。

 どうして、と微かな声で史瀬は呟く。

 「どうして?」

 ハルは目を細めて史瀬を見返す。

 「あんたは、俺の何を知ってる?」

 そう言った史瀬の表情は、単なる怒りや拒絶ではない。

 ハルはふっと口元を緩めゆっくりと史瀬の頬に手をかけた。

 「少なくとも、お前が俺を必要としてることは。口ではどれだけ拒絶しても、お前は俺が欲しくて仕方ないはずだ」

 頬に触れていた手を史瀬は邪険に振り払ったが、ハルは逆にその手を掴んで自分の方へ引き寄せた。

 「ハル!」

 「お前が言えないなら、俺から言ってやろうか?俺は、お前が欲しい」

 愛を囁くように密やかに、ハルは史瀬の耳元でそう告げた。

 「いい加減に……」

 ハルは風のように身をかわし、史瀬から離れた。

 「お前にもいつかそれを認める日が来る。認めずには、いられなくなる日が」

 予言のように厳かにハルが史瀬に告げる。

 「ハル」

 呼び止めて、どうしようというのか。遠ざかるハルの背は、微かな風に溶けていきそうに儚い。これほど激しく深く心を、魂をかき乱すのに、何故だろう。ハルは儚い。史瀬はそんなことに初めて気が付いた。



 傍らにあるはずの温もりが感じられず、女は不意に目を覚ました。その男と朝を迎える日はいつも眠りが浅かった。

 「また、ずっと起きてたの?」

 女は髪を掻き上げながら顔をもたげ、窓際のソファにもたれている男を見た。

 「少し寝ましたよ」

 朝の光がレースのカーテン越しに男の輪郭を縁取っている。色素の薄い髪は光を受けて輝く。気だるげにも退屈そうにも見える、男の類まれな美貌を、ぼんやりと眺めるのが彼女は好きだった。

 「どうしました?」

 半ば身支度を終えたハルはソファから立ち上がりベッドに腰掛けた。冷えた滑らかな女の背を手のひらで撫でる。

 「碓氷」

 囁くように西園寺さいおんじが呼ぶと、ハルはそっと彼女にキスをした。

 「何か、言いたそうな顔ですね」

 化粧を落としても白くキメの細かい西園寺の頬をハルは指の背で軽く撫でた。

 「初恋の人に、会えたそうじゃない」

 「意地悪な言い方ですね」

 笑いながら西園寺に背を向けたハルはシャツのボタンをとめ始めた。

 「感想を聞きたいわ」

 「感想ですか……」

 張りつめた筋肉が放つ確かな熱を、シャツ越しに触れた指先から感じる。隙のない、美しい背中はハルそのもののようだと西園寺は思った。

 「あの絵を描いてる人間にしては、少し躾けられ過ぎてる感じがしますね」

 「青と黄色の抽象画でしょ?大人しい人が描きそうな絵だと私は思ったけど……貴方は違うのね」

 「あれが赤と黄色だったら、印象は全く違ったでしょう。絶叫みたいな絵だと、俺は思いましたよ」

 「貴方には、普通の人間に見えない物が見えて、見える物が見えないみたい」

 吐息のような声で呟いて、西園寺はベッドにうつぶせた。ベッドを軋ませて立ちあがったハルは肩越しに彼女を見て、微かな笑みに似た表情を浮かべた。

 碓氷、と甘く重たげな声で西園寺が呼ぶ。

 「貴方とは、もう会わないわ」

 ハルは驚いた様子もなく、急ですねと西園寺に向き直った。

 「誰かに恋してる貴方なんて見たくないもの」

 「恋とか愛とか、俺には地獄みたいなものに思えますけどね」

 「認めるの?」

 「何をです?」

 臆することなく自分を見つめるハルに笑いかけ、西園寺はベッドに頬杖をついて顔を上げた。

 「あの子に、恋してるって」

 無言で見つめ合った二人。ハルは一切の感情を読み取らせない完璧なまでに作り込まれた微笑みを西園寺に見せた。

 「恋なんて、生ぬるいものじゃないですよ」

 見惚れそうな美貌から目を反らし、西園寺はベッドに横たわった。どんな言葉も、どんな行為も、ハルをすり抜けていく。それは初めから感じていたことだった。ハルに出会い、初めて彼が、自分の為に微笑んで見せた時から気づいていた。ハルは他人の為の自分をよく理解し、演じることのできる人間なのだと。

 「似合わないわよ。貴方が何かに執着するなんて」

 呟きのようなかすれた声に、ひどいなとハルは笑う。

 「俺には、何一つ持てない、そう思ってましたか?」

 そうね、かすれた女の声にハルはゆっくり背を向けた。

 「貴方にはきっと、どんな感情もどんな願いもないんだろうと思ってた」

 「間違ってはなかったですよ」

 「嘘つきね……相変わらず」

 否定も肯定もしない。部屋を去っていく気配に、ねぇと西園寺は呼びかけた。

 「わたしもあの子と、恋していいかしら?」

 ドアノブに手をかけたまま、振り向いたハル。こんな時間はもう二度と訪れないだろう。そんな確信を持って西園寺は焦がれ続けた恋人の冷たく輝く瞳を見つめた。

 「あいつに何かしたら、西園寺さんでも許さない」

 本気とも冗談ともつかないハルの声。それでもハルの表情にいつも漂う微かな笑みの影さえないことに西園寺は気付いていた。

 それ以上何も言わず部屋を出ていったハル。彼はこの短期間で驚くほど変わった。浅くため息をついて、西園寺はハルが座っていたソファに目を向けた。朝日を受けて時折まどろんでいた彼は、いつも幻のように美しかった。

 エンデュミオーンのように、ハルが永遠に眠り続けるだけの存在だったなら、どれだけ幸せだっただろうと西園寺は不意に思った。傍らに寄り添い、見守り続けることだけに生涯を費やすことを惜しいとは思えない。

 何も近寄ることも、住みつくこともできないと信じていた荒涼としたハルの心に、あの少年はどうして入り込んだのか。ハルは他人にとっての自分の価値を理解しながら、自分に一切の価値を認めていなかった。自分を大切に思えない者に、他人を大切に思うことはできない。けれど、今のハルは違う。

 いつからなのか、どうしてなのか……永遠に解けることのない謎。それさえ既に自分の元を飛び去って行った。

 乱れた髪をかきあげ、西園寺は細く長い息を吐いた。ハルが触れた髪なのだと思うと、言い知れない切なさがこみ上げた。



 「染谷先生は、いつ僕を解剖するんですか?」

 患者とも被験者ともつかない美しい男は、その容姿を裏切らない綺麗な声の持ち主だった。しかしそれに反して彼の口から出る言葉と言えば、皮肉か悪態のどちらかだった。

 「君が死んだらね」

 いい加減慣れたと染谷はその言葉を受け流す。

 「最近、昔よく見てた夢を思い出したんです」

 診察台代わりのソファに身を沈め、目を閉じたハル。腹の上で両手を組み合わせ微動だにしない。彫像のように均整のとれた健やかな身体に包まれた魂は、染谷が知るどんな人間のものより奇怪で謎に満ちていた。

 「どんな夢?」

 ハルの様子をつぶさに観察しながら、医師はカルテを手に椅子に腰かけた。

 「ミイラ男の夢です」

 ハルは不意に目を開いて天井を見つめたままそう呟いた。

 「ミイラ男?」

 「ええ。ミイラ男に、連れ去られる子どもの夢です」

 「その子は誰?」

 医師の言葉にハルは二三度瞬きし、さぁと天井に視線を彷徨わせながら応じた。

 「君の知らない子?昔の友達とか、兄弟ではない?」

 「わかりません。子どもの頃のことなんて、覚えてない」

 吐き捨てるように呟いて、ハルはまた空ろな瞬きを繰り返す。

 「映画やTVでそんなシーンを見たことは?絵本とか、どこかで聞いたことのある童話でもいい」

 「どうでしょう。たぶん、違うと思う」

 深いため息をついたハル。医師は注意深くハルを見つめたままカルテにペンを走らせる。

 「その子どもが、君だという可能性は?」

 瞬きを止めたハル。何を思うのか、その横顔から染谷が読み取れる感情らしきものは何一つなかった。

 「そうですね」

 「どういう意味?」

 「僕でしょう」

 「そういう記憶が?」

 「いえ。何となくそんな気がしただけです」

 ゆっくりとした瞬き。ハルは再び目を閉じた。

 「ミイラ男にさらわれる、その悪夢を見始めたのはいつ頃か覚えてる?」

 閉ざされた白い瞼の向うで、ハルが見ているのはどんな光景なのか。安らいでいるようにも、空ろにも見える人形のような顔。常人には理解しえないような秘密を、人間離れした頭脳と美貌を兼ね備えたハルは何重にも押し隠しているのかも知れない。どれほど時間をかけ向き合ったところで、それはきっと自分には理解も及ばない真実なのだろう。そんなことを思う時、言い知れない虚無感と悲しさを染谷は覚えた。

 ハルの口元にうっすらと笑みが浮かぶ。

 「悪夢じゃないですよ」

 「悪夢じゃない?」

 「ええ。僕はそれを悪夢だと認識してない」

 「ミイラ男は怖くないってことか」

 「ええ。ミイラ男はいい人です」

 自分をからかっているのか、ハルの言葉に染谷は唸り声を上げた。

 「君は、または、ミイラ男にさらわれる子どもは泣いてはいないのかな」

 「ええ。泣いてはいないですね」

 「どんな様子?」

 どんな、か、と呟いたハルはしばらく黙った後、再び目を開けた。

 「何も」

 「え?」

 「何も、感じてないんじゃないかな」

 「恐怖も?」

 「ええ。何も……本当に何も感じてない」

 見開かれ、瞬きを忘れた様に動かなくなった美しい瞳。そこには死への恐れさえないという、覚悟とも諦観とも名状しかねる、消えることのない淡い光が宿っている。

 「他に、その夢の中で気になる物は?」

 染谷は軽い疲労を覚え、片手で両方のこめかみを軽く揉んだ。名もない患者としてここにやってきた時とは何もかもが変わっていた。自分のセラピーなど、彼にとっては子供だましかままごとのようなものだろう。彼は、既に自分を知りぬいている。知らないと主張するのは、純粋な彼の意志だ。

 「季節は、春ですね。桜が、綺麗だ。月が、霞んでる」

 「他には?」

 「それだけです」

 ハルがそう応じるのと、アラームが鳴ったのは同時だった。

 「時間ですね」

 迷いなく告げるとハルは音もなくソファから立ち上がった。

 「釈迦に説法だって言うのはこれでもわかってるつもりだよ」

 アラームを止めながら染谷がハルを見上げる。

 「ええ。先生のお立場はこれでもよく理解してるつもりです」

 「助かるよ」

 染谷が苦笑いで立ち上がると、ハルは口角を上げるだけの笑みをのぞかせた。

 「今日は何か収穫はありましたか?」

 染谷の手元にあるカルテを覗き込むような仕草で、ハルはそうきいた。

 そうだね、と染谷はまっすぐにハルの目を見返した。

 「私より、君自身の方がわかってるだろうけど……君は最近少し変ったね」

 医師の言葉にハルは、そうですか?とおどけて見せる。

 「ああ。君に聞かされた夢の話で唯一信憑性があるのはミイラ男だって言うのが今日ようやくわかったよ」

 「僕はずいぶん信用がないんですね」

 「よく言うよ」

 やれやれと染谷は首を振った。

 「君を診た後は疲れるんだ」

 「そうでしたか。気付かなくて申し訳ありません」

 悪びれた様子もなく、ハルはそれではと言い残して部屋を後にした。

 染谷はハルのカルテをめくりながらふっと息をついた。彼は息苦しい患者だった。むしろ、彼にとっては自分の方が被験者なのではないかと思えることがよくあった。最近は以前に比べてずいぶん素直になったような気がするが、やはり真崎史瀬という少年がここにやってきたが原因なのだろうか。

 元々観察眼の鋭さには人間離れしたものがあったが、史瀬の絵を見つめる眼差しはいつになく真剣だった。自分自身のことを語る時より、ずっと。

 ハルの世界と、史瀬の世界は、恐らくどこかで繋がっているのだろう。互いに反発し合っているのか惹かれあっているのか、それは定かではなかったが、二人は精神や魂というレベルにおいて共鳴している。側からはうかがい知ることのできない、あやうく、それ故に抗いがたい何かによって。

 二人の出会いが互いにとって、よきものであればいい。自分にできることは、そう願い続けることくらいしかない。

 カルテの経過を記す欄に、いつも通り「要経過観察」と記載した染谷は、いったん手を止め、改めて一筆書き加えた。「変化の兆しあり」と。

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