第5話

 マジックミラー越しに、ハルは被験者である少女を見つめた。整った愛らしい顔立ちに、癖のない長い髪。すらりと伸びた手足は、ソファに座っていても彼女のプロポーションの良さを感じさせる。年齢よりずっと大人びた雰囲気は彼女の兄に少し似ていた。

 「どうです?」

 「興味深いよ。ここまでの回答には一貫性があるし、適当に答えてる感じじゃない」

 そうですか。少女から視線を反らすことなくハルは染谷の言葉に少しだけ笑った。

 「不思議な兄妹だね。史瀬くんの絵もすごく面白い」

 「インタビューはどうでした?」

 「大人しそうに見えて、彼は手強いね」

 「手強い?」

 初めて自分を見つめたハルに染谷はああと頷いた。

 「君と同じだ」

 ハルは穏やかに鼻で笑った。どことなく満足そうにも見えるその顔を染谷は微かな驚きとともに見つめる。

 「彼女、もうすぐイギリスに留学するそうですね」

 デスクに置いてあった資料を手にとって、ハルはゆっくりと紙をめくる。

 「ああ。しばらくは語学学校に通うそうだよ。飛び級して一年半早く大学への進学が決まった。心理学を専攻するはずだ」

 「心理学ね。実の父親の影響ですか?」

 「さぁ。まだそこまでは聞いてない。いずれ話してみるつもりだけどね」

 そうですかと微かな声で呟き、ハルは資料を置いて隣室の真崎素良まさきそらを見た。向こう側からは見えないはずだが、マジックミラーに気付いているのかこちらを見つめているようにも見える表情。顔はあまり似ていないが、強い眼差しは彼の兄を思い出させた。

 「共感覚の中でも絶対音感者が音視を持つパターンが一番多いんだ。けど、素良くんは、音視の反対、色聴の持ち主だ」

 「つまり、視覚から音を感じるってことですね」

 そうだと頷いた染谷になるほどとハルは呟く。染谷は腕組みし、ミラー越しに実験室を見守りしばらく沈黙を守った。

 「それから、もう一つ。これも絶対音感の持ち主だということに関係してると思うんだけど、彼女は、一度聞いた音や声なら確実に聞き分けられるらしい」

 「それはまた、珍しい能力ですね」

 そうなんだ。染谷はハルを見て笑った。

 「私のことも、声で覚えてたんだよ。子どもの頃、何日間か一緒に過ごしただけだったのに」

 「それは、確かに凄いですね。例えば、声変わりした場合なんかでも、認識できるんですか?」

 「恐らく。彼女が記憶してるのは単なる音だけじゃないみたいなんだ。音声のパターンや発声の癖なんかも含めて認識してるんじゃないかと私は思う」

 「面白い兄妹ですね」

 ハルはどこか嬉しそうにも見える表情でミラー越しに素良を見つめる。

 「君は、どう思う?」

 「何をです?」

 「彼女は、共感覚の持ち主だということも、一度聞いた音を忘れないってことも、これまで誰にも話さずにいた。それを急に告白した理由だ。真崎主任も驚いてた」

 染谷の目を見つめたハルの口元が、微かな笑みを浮かべる。ハルは既に何か気付いているか知っているのだろう。あるいは、彼女が史瀬の妹だから興味を抱いているのかも知れない。いずれにせよ、自分には想像もつかない理由なのだろう。半ば諦め、染谷はハルから隣室へ視線を戻した。

 「留学することに、関係してるんじゃないですか」

 「え?」

 染谷は驚いてハルに目を向ける。自分の予想を裏切って、ハルは静かに答えた。

 「日本を離れる前に、確かめたかったんでしょう」

 染谷が何をかと確かめようとした時、終わりましたねとハルが笑った。

 「紹介してもらえませんか?彼女とのセッション、僕は、今回予定していないので」

 「あ、ああ。かまわないよ」

 「ありがとうございます」

 殊勝にも頭を下げて見せたハルを伴い、染谷は一度廊下へ出てから、隣室のドアをノックした。


 「そこで何をしてる!?」

 振り向いたのは、黒いワンピース姿の少女だった。ぱっちりとした猫のような目が美しい大人びた顔立ちに、驚きと狼狽の表情が浮かんでいる。首からはゲスト用のIDカードをさげているが、この部屋に入ることを許されているのは自分を含めごく限られた人間だけだった。左手にはタブレットPCを持っている。不正なアクセスでこの部屋に入ったのだとすれば、小田島の脳裏にある可能性が浮かぶ。

 「君が」

 「素良」

 その声に小田島が振り向くと、うっすらとした笑みを浮かべたハルが佇んでいた。碓氷、と小田島が呟いた。

 「すみません」

 ハルは小田島にそう詫びると、おいでと少女に声をかけた。

 小田島が再び少女に視線を向けると、彼女は一瞬だけ躊躇った後、小田島の横を通り過ぎハルの傍らに立った。

 「俺です」

 「何?」

 「俺が彼女をこの部屋に入れたんです」

 「何故?」

 目を細めた小田島にハルは微笑み、素良の肩をそっと抱いた。

 「俺が何でもできるってことを彼女に見せたくて」

 素良がゆっくりとハルを見上げる。その頬に指先で触れ

 「わかっただろ?」

 ハルが囁くと、素良は黙って頷いた。

 「彼女は、WAの正式なゲストですし……何より、仁さんの娘さんですから、安心して下さい」

 「真崎さんの?」

 「ええ」

 素良の胸元から顔写真入りのIDを持ち上げると、ハルはそれを小田島に見せた。真崎素良、と書かれたゲストIDに小田島は肩の力を抜いた。

 「あまり自分の立場を悪くするようなことはしない方がいい」

 珍しく自分に苦言を呈した小田島にハルはええと微笑んで見せる。

 「ご忠告、ありがとうございます」

 不思議そうにハルと小田島のやり取りを見つめていた素良。彼女の腰に腕を回すと、行こうとハルが促した。

 碓氷、呼び止められたハルは肩越しに振り向き、また後でとかすれた声で告げる。二人がドアの向こうに消えたのを見届けた小田島は、先程まで少女が立っていた場所にあるキャビネを確認した。

 「アツィルト」

 それは野々宮という男を代表とする、占い師の集団だった。近頃、宗教団体化してきているという噂もある。たった一人の野々宮というカリスマ的な占い師の存在によって、若い女性の間だけではなく、政財界や幅広い世代から支持されているという団体。一部は熱狂的な野々宮信者だとも聞く。素良くらいの年齢の少女であれば、そうした話題にも興味があるのかも知れない。

 小田島はキャビネからファイルを引き出すと何気なくページをめくった。かつて野々宮を特集した雑誌の記事や、個人的な感想を綴ったブログなどのコピーが時系列にクリッピングされている。野々宮の写真も出ていたが、仮面の皇帝と呼ばれるだけあって、どこにも素顔は載っていない。中世の貴族のような衣装に、顔全体を覆う陶磁器の仮面。自分にとっては滑稽極まりないが、こんなものに心を奪われる人間もいるらしい。

 最後のページは今から十年ほど前の小さな新聞記事だった。しかしそこには小田島が初めて知る情報が記されていた。

 『野々宮氏の傍らには、ドールと呼ばれる娘と思しき美しい少女が常に付き添っており、彼女の占いも非常に当たると好評だという。』

 野々宮のように謎めいた男にも家族がいたらしい。小田島は呼び飛ばしたページに戻ってみたが、ドールについての記載はほとんど見つけられなかった。辛うじてその単語を見つけられたのは、数年前のブログ記事だった。

 『なお、残念ながら噂のドール姫にはお目にかかれなかった。どんな美少女なのか楽しみにしていたのに残念。』

 それ以降、雑誌記事は勿論、ブログにも彼女の名は出てこない。何かあったのかも知れないが、すぐにはわからないだろう。

 何とも言えない後味の悪さを感じながら小田島はファイルをキャビネに戻した。



 階段の踊り場まで素良を連れてくると、ハルはその手を離し壁にもたれた。

 「野々宮について調べてるのか?」

 「いけない?」

 いや、ハルは微かに笑い

 「それだけで、あの部屋のセキュリティを破ったのか?」

 素良が片手に持っていた小型のPCに目をやる。

 「安心しろ。強請るつもりも責めるつもりもない」

 どうして、じっとハルを見つめていた素良がようやく口を開いた。その美しい目の中の戸惑いと疑いをハルは一瞬で捉えた。

 「俺も野々宮を調べてる」

 ハルの言葉に素良は微かに目を見張る。戸惑いは消え驚きが浮かび、微かな希望と捨てきれない疑いが彼女の表情を険しくさせる。ハルはまた少しだけ笑う。

 「俺はただ、面白そうだと思ったから調べてる。たぶん、お前とは違う理由だろ?」

 「違う」

 「まぁ、そうだろうな。理由は聞かないが」

 「どうして?」

 「何が?」

 素良は胸の前でPCを抱えると真っ直ぐにハルを見つめた。それは好意でも、好奇でもない。真実だけを見極めようとする強い眼差しだった。こんな目で他人から見つめられるのはいつ以来か。

 「どうして、助けてくれたの?」

 「面白そうだと思ったからだ。いくら仁さんの娘とはいっても、正式なメンバーにしか入室は許されてない部屋だ。お前が入ってくのを見て、何をするのか気になった」

 ハルの言葉に素良は半信半疑という様子だったが、いくらか落ち着きを取り戻し、セキュリティはとゆっくり口を開いた。

 「前に解除しておいたの。これはカード代わりにタッチするのに使っただけ」

 「たいしたもんだな。ここのセキュリティはそんなに甘くないはずだ」

 「他で試したことないから、よくわかんないけど」

 「初めて破ったのがここのセキュリティってことか?」

 「そんな悪いことしてないと思うけど……ちょっと強引に入っただけで」

 淡々と告げる素良にハルは笑う。

 「初めは、興味なんてなかった」

 ハルを見つめていた素良は不意に視線を外し、独り言のようにそう言った。

 「ただ友達について行っただけ。野々宮の名前は知ってたけど、本当に、本人に占ってもらえるなんて思ってもなかった」

 「野々宮本人に占ってもらえたなんて、ラッキーだな。最近じゃ滅多に人前に出てこないんだろ?」

 みたいだね、素良は頷きゆっくりとハルに視線を戻した。

 「何を言われた?」

 「身近な存在に、生命の危機が迫っています、って……」

 なるほどとハルは頷きゆっくりと素良の顔を覗きこんだ。

 「すごく、怖い音がした」

 「音?」

 「目に入った色から音が聞こえることはあるけど、人から聞こえることなんてほとんどなかったのに……。野々宮に会った瞬間、すごく怖い音がした。今まで聞いたことがないような、嫌な音。禍々しいような、苦しくなるような音。それに、野々宮の声も……すごく怖かった」

 仮面の奥の冷たく燃える目を、不明瞭だが静かで威厳のある声を、素良は知っているような気がした。いつか聞いたことのあるはずの声。しかし不思議とその人物の顔が思い出せない。そんなことはこれまで一度もなかったのに。

 衝撃でも恐怖でもあったその出会い。皇帝の仮面の下。男は、どんな顔をしていたのだろう。

 「兄貴からも、何か聞こえるのか?」

 「アヤを、知ってるの?」

 また微かな緊張が素良の目元に走る。ハルはああと頷き、うっとりとしたような笑みを向けた。

 「よく知ってる」

 囁くようなその声音に素良は微かに顔を強張らせた。

 「アヤからは、聞こえない。他の人からも、ほとんど」

 わずかにかすれた声で応じた素良は、ハルから少しだけ目をそらした。

 「だったら、あいつの絵からは?何か聞こえるんだろ?」

 「今は、見ないようにしてるから」

 「何故?」

 「アヤの絵を初めて見た時……今までわたしの為に描いてくれてた動物とか魚じゃない、青と黄色の絵を見た時、すごく怖かったから」

 「怖かった?」

 ハルの問いに素良は静かに頷いた。

 「怖くて……すごく、悲しかった」

 「何が聞こえた?」

 「例えるなら……遮断機のサイレンみたいな音と、悲鳴。それから……耳が痛くなるような静けさ。あの絵を見た時、何も聞こえなくなった。いつもなら、普通の音も聞こえるのに、あの時は、本当に何の音もしなかった」

 「史瀬には?」

 素良は黙って首を横に振った。アヤは、と躊躇いがちに口を開く。

 「知らない方がいいと思う。アヤはたぶん、わたしに、知って欲しくなかったと思うし」

 素良は、気付いてしまったのだろうか。兄が妹に隠してきた秘密に。誰にも話さずにいた秘密に。秘密を抱え続ける兄と、秘密に触れたことを黙っている妹。それは肉親という、深い情愛に根付いた思いやりだったか。どこか青ざめて見える少女の美しい横顔に、ハルは微かな笑みを浮かべた。

 「それ、メモ用のアプリ、入ってるか?」

 「入ってるけど」

 「貸して」

 「どうするの?」

 渋る素良の手からモバイル端末を取り上げると、ハルはアプリを起動させた。

 「今付き合ってる男は?」

 「は?」

 右手で画面を叩きながら、顔を上げずにハルがきいた。

 「好きな奴は?」

 「関係ないでしょ」

 ハルはゆっくり顔を上げ、モバイルを素良の手に返した。

 「俺のIDとパスワードだ。この施設の中で何か探りたいならいつでも使っていい」

 「何でそんなこと?ていうか、一番下の数字は?」

 「俺の携帯だ。いつでも連絡してきていい」

 「はぁ?意味わかんないんだけど」

 気にするな、そう言ってハルは階段を下りはじめた。

 「ちょっと」

 「野々宮のことについて何かわかれば連絡する。お前も、何かあれば教えてくれ。お前が知らせたいと思うものだけでいい」

 待ってという素良の言葉にも振り返ることなく、ハルは姿を消した。残された素良はモバイルの画面に目を落とした。本物のIDとパスワードなのだろうか。そんな物を自分に与えることに何かメリットはあるのか。

 胸がざわつくのを抑えられない。小型のPCを抱え、素良は何気なく窓に目をやる。街は燃えるような夕焼けに照らされていた。

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