第4話

 光源は壁面にはめ込まれたモニターが放つ光だけだった。生き物の気配を一切感じさせない、無機的な部屋。部屋の主は手元のモニターを見つめたまま、せわしなくキーボードを叩き続けている。ハルは振り向かない男の背にゆっくりと近づいた。

 「新手のクラッカーですか?」

 PCモニターにはWARNINGの文字とともに大量のデータが吐き出されている。悪意を持った第三者が、WAのサーバに不正にアクセスを試みているらしい。

 「最近特にひどい。元々ここは公に名の知れた機関じゃない。外国の政府か、企業か……そんなところだろうと思ってたが」

 「違ったんですか?」

 ああ、小田島おだじまは黒い画面に流れ続ける白いアルファベットと数字の羅列を目で追いながら頷いた。

 「俺は個人だと思う」

 「個人?」

 「ああ。アタックを仕掛けてくる時間帯がどうもおかしい。平日なら夕方以降、休日なら朝から晩まで断続的に。不思議と、火曜と金曜の夜は何もしかけてこない」

 「学生か、会社員か、そんなところですか?」

 「恐らく。火曜と金曜はクラブ活動でもしてるのかも知れないな。それに最近は春休みに入ったらしい。三月半ばくらいから、パターンが休日と同じになった」

 まんざら冗談でもなさそうに小田島は呟き、モニターから目を離さずにキーボードを叩いた。

 「こっちも防戦一方ってわけにはいかないからな。トラップをいくつかしかけてるんだが、ことごとく引っかからない」

 「ばれてるんじゃないですか?」

 「いや。それが、もっと……何と言えばいいのか、軽やかなんだ。こいつのアタックは、敵ながら美しい。音楽みたいな強弱があって、流れるように続くんだ。トラップを回避できてるのは、こいつの感覚的なものがそうさせてるからのような気がする」

 「絶賛ですね」

 ハルは少しおかしそうにそう言うとデスクの端に腰掛けた。

 「ああ。見たことのない独特なパターンだ。組織的に訓練を受けたハッカーじゃない」

 なるほど。ハルは呟き白い文字を吐き出し続ける暗い画面を覗き込む。

 「DEAREST DAUGHTER?」

 暗号のような文字の流れの中に、ハルは読み取ることのできる単語を見つけ出す。ようやくモニターから目を離した小田島がハルに口元だけで笑いかけた。

 「そいつのハンドルネームだ。ご丁寧にアタックの最後には毎回署名を入れてくる」

 「最愛の娘、ですか」

 「ああ。文字通り取れば女だろう。アタックの経由は毎回違う海外のサーバーだし、ログを解析しても何もでない。すご腕のお嬢さんだ」

 小田島がしばらくキーボードを叩いていると、WARNINGの文字も消えた。それを見届けてから、ハルはゆっくりと小田島の腕に手をかけた。

 「どうした?」

 「小田島さんにひとつ、頼みがあるんです」

 「頼み?」

 小田島は見惚れるようなハルの微笑みを見上げながらその腰に腕を回し抱き寄せた。

 「お前の頼みを、俺が一度でも断ったことがあったか?」

 「ないですよ」

 ハルは笑い、小田島の耳元に顔を寄せた。

 「紹介したい相手がいるんです。それから、ここを見せたいと思ってます」

 「ここを見せたい?セキュリティセンターの中をか?」

 驚いたように顔を上げた小田島に、ええとハルは頷く。吸い込まれそうなほど、妖しく美しい眼差しに小田島はやがてため息をついた。

 「小田島さんの立場を悪くするようなことはしませんから」

 「高いぞ?」

 自分のセキュリティカードに手をかけたハルの手を小田島が掴む。ハルはその手を意に介することなくそっとカードを抜き取った。

 「安いもんでしょ?」

 ハルは知っている。自分の相手に対する価値や、存在の大きさを。ハルに軽々と組み伏せられるのは、怖いくらい心地いい。非力ではないが、決して頑強とはいえないハルの身体を抱き寄せ小田島はその唇を奪った。しばらくされるがままになった後、ハルはそっと小田島の胸を押し身体を離した。ハルは決して抵抗できないのではなく、ただそうしないだけなのだと気付いたのはいつだったか。行きましょうという声に促され、小田島は席を立つ。誰に会わせようと言うのか。

 「どこに行くんだ?」

 「アトリエです。俺がリクエストしたゲストです。史瀬、真崎主任のご令息ですよ」

 ハルは肩越し、いつになく楽しげ振り向いた。



 深海のように静かで暗いアトリエで、史瀬は青い絵の具が僅かに残ったままのパレットを手に取った。WAは絵を描くにはふさわしい場所だった。完璧な防音システムと孤独を感じられる閉塞感、調光、空調、全てが心地よく整えられていた。

 壁に立てかけられたキャンバス。これほどたくさんの絵をこれまで描いてきたのかと史瀬には不思議に感じられた。タイトルがあるものも、ないものもある。キャンバスの大きさもばらばらだったし、完成までに要した時間もそれぞれ違う。描き始めた頃は筆を使っていた。しかし次第にペインティングナイフだけで絵を描くようになった。深く、重く、鋭く、自分の内から湧き上がる物をキャンバスに表現するには筆よりナイフの方が使いやすかった。染谷と二人でこれまでに描いた絵を一枚ずつ眺めた。全て青と黄によって描かれた世界だった。グラデーションの中で生まれる陰影。0と一の間に永遠があるように、たった二色の中にもそれぞれ永遠が秘められている。震えるほど繊細な微かな色の違い。考えて描いたわけではない。けれど、史瀬にとってその絵の中の全ては必然だった。

 キャンバスに絵の具を重ねていく。実際には白を埋めていく作業なのに、史瀬には、白の中から、青と黄が生まれてくる気がしていた。

 無心で絵を描いていると、呼吸さえ忘れることがある。何かに追われるように、何かを追いかけるように必死にキャンバスに色を重ねながら、息苦しさに眩暈を覚え、はっとして息を吸い込む。どこへ向かっているのか、あるいはどこから逃れようとしているのか。手だけは絶え間なく動き続ける。深い青の中に落ち込み、鮮やかな黄色に引き裂かれ、嵐の湖面のように激しく波打つ感情。何を感じているのかさえ、自分にもわからない。ただ、激痛が時折胸を刺す。全てが死に絶えたかのような静けさの向こうから、誰かが自分を呼んでいる。

 覚えてるか?

 世界一美しい女だった。

 お前が殺した。

 誰より愛してた。

 お前よりも。

 誰かが自分に囁きかける。記憶の底から湧き上がる青い闇。誰も知らないはずの暗い青。

 痛みが、恐怖が光の内に蹲る影のように揺れながら忍び寄ってくる。

 無意識に唇を噛んで、史瀬は目前のキャンバスだけを見つめ続ける。重なり合う青と黄色。絵の具を激しく叩きつければ叩きつけるほど、外界の音や気配は遠くなる。蘇る声が、光景が、誰かの眼差しが、薄くなり、自分から離れていく。夜から逃げるように、その場所にかけ込めば、ゆっくりとけれど確実に朝が訪れる。

 深海から引き揚げられたように、やっとの思いで息をつく。今日も生きられた。そんな心地がする。気が付けば絵は描き上がっていた。これ以上足すことも削ることもない。それは閉じられた中で完成した一つの世界だった。



 突然アトリエにやってきたハルと小田島という男に史瀬は驚いた。ハルは小田島を部屋に残し、史瀬を半ば強引に外へ連れ出すと特殊なセキュリティが施された部屋に案内した。

 「ここは?」

 他の部屋とは明らかに目的の異なる暗い室内。モニターやパネルが発光することでぼんやりと室内を照らし出している。ハルはモニターの中心にある革張りの椅子に腰かけ、史瀬を見上げた。

 「この施設の、セキュリティセンターだ」

 「どうしてこんなところに連れてきた?」

 「知りたかったんだろ?ここがどんな場所か」

 それはと言い淀んだ史瀬にハルは微かに笑い、正面のパネルを操作した。

 「ここじゃ突出した、あるいは特殊な才能の持ち主を探してる」

 「特殊な才能?」

 「ああ。例えば、お前たちがそうだ」

 立ち上がったハルを史瀬は黙って見返した。

 「お前たち兄妹の才能は、埋もれかけてた。それを仁さんは見つけ出した。何一つ不自由のない環境にお前たち兄妹を引き取って、ここまで育ててくれたんだろ?」

 何も言わない史瀬に、ハルは不満そうだなと呟いて微かに笑った。

 「どうしてそんなことを?そう、思ってるんだろ」

 ハルは軽々と人の心を見透かす。恐怖にも似た感情が一瞬史瀬の胸を過ぎる。

 「美術的なものであれ学術的なものであれ、ここでの滞在中何らかの才能を認められれば、民間の企業や国の専門機関がそいつの将来を保証してくれる」

 「保証?」

 ハルは史瀬の驚きを気にとめた様子もなくゆっくり背を向けモニターに目を映した。

 「まぁ、簡単に言えばパトロンがつくんだ。海外留学や一流講師の斡旋、国内外の特殊な教育機関にも簡単に入れるようになる。勿論、それに係る費用は全て企業や国が持つ。いずれ大きく育ったら、死ぬまで緩やかに絞り取られ続ける。それこそ才能が枯渇するまで」

 モニターにはまだ幼い子どもたちの姿も多く映っている。ハルの言い方は悪意に満ちていたが、全て嘘というわけでもないのだろう。

 「怖いと思うか?」

 ハルは肩越しに史瀬を見た。試すような微笑みが微かに漂っている。

 別に、強がるわけでもなく史瀬は短く答えた。ハルは楽しげに史瀬に向き直った。

 「もう二つ、この施設には目的がある。一つは才能を後天的に生み出す、あるいは植え付ける為の研究」

 「そんなことできるのか?」

 「ああ。あいつらが見てるのはゲストの才能そのものだけじゃない。お前もいろんな検査やテストを受けさせられただろ?血液や脳のCT、IQは勿論、音感や体力、語学力、ロールシャッハみたいな心理テストもあったはずだ」

 ハルの言う通りだった。自然に囲まれた美しく開放的な環境の中で、自由に絵を描いて過ごして欲しい。美術の専門家やその他の分野の第一人者と交流し、新たな発見や創造を楽しんで欲しい。仁の部下でもある施設の事務員からはそう聞かされてきた。しかし説明に反して妙に入念な検査やテストに違和感があったのは本当だった。

 「子どもの才能が国に認められるかも知れないチャンスだ。協力したがる親も多い。生活環境から趣味、嗜好まで、よくここまでと思うほどのデータが一度に取れる。それに、追跡調査もしやすいからな。時が経つにつれて凡人になったのはどういうケースなのか、天才のまま一生を終えるのはどんなケースなのか。突き詰めればどこかに共通点があるはずだし、それがわかれば、後天的な天才が生まれないとも限らない。だろ?」

 「完全に、研究の対象なんだな」

 史瀬の言葉にハルはああと頷いた。

 「たった一人の天才を探しだす為に、こんな大掛かりなことはしないさ。スポンサーとして金を出してる企業だって、見つかれば運がいい程度にしか思ってないだろう。勿論、それなりに優秀な人材をまとめて確保できると思えば悪くはない。ただ、この施設から一番利益を得てるのは民間企業じゃない」

 「国なのか?」

 「そうだ。ここには法務省や警察庁の人間もいる」

 「どうして?」

 ハルは頷き数十枚並んだモニターの一つを指差した。

 「優秀なハッカーやプロファイラーがここで見つかることも多いからだ」

 ハルの指差したモニターにはパソコンの並んだ部屋が映し出されている。そこに映っているのは学生と思しき数人の男性だった。

 「研究者として招かれたはずが、本当はゲストとして試されてるんだ。もっと言えば、監視もされてる。敵になりえる存在をいち早く見つけ出す為に。もっともほとんどは国にスカウトされておしまいだけどな。天才じゃなくても、学生や研究者の中には実戦向きな奴らもいる」

 「実戦、て?」

 「研究室に籠ってないで現場でお国の役に立て、ってことだ。公安調査庁も科学警察研究所も慢性的に人手が足りない」

 そこまでハルが言うと、史瀬は再びどうしてと声に出した。

 何だ、とハルが史瀬に顔を向ける。

 「どうして、そんなことを俺に話した?それに、あんたは何なんだ?どうしてこんな場所に入れて、そこまで知ってる?」

 「質問攻めだな」

 ハルは笑い、モニター前に置かれていたイスに再び身を沈めた。肘かけに腕を置いて頬杖をつくと、からかうように史瀬を見上げる。

 「簡単な質問から答えようか。どうして俺がこんな場所に入れるか。それは俺がセキュリティ部門の責任者と顔見知りだから。さっき会っただろ?小田島さんはここの部門長だ」

 ハルの答えは半ば史瀬をはぐらかすようなものだった。しかしそれ以上踏み込んだ問いは憚られた。

 ハルは史瀬の様子には関心がないように、二つ目、と宣言した。

 「俺がどうしてそこまで知ってるか。俺はここでも特殊な立場にある。一応、客員研究員ってことになってる」

 「客員研究員って?」

 「ここに招かれる研究対象、ゲストでもなければ、ゲストを観察する調査員、アナリストでもない。その上に、リサーチャーという身分がある。これが研究員だ。個々の事例や調査結果を一段上、まとまったデータとして検証する部門だ。追跡調査や後天的才能の研究が主だが、国から要請があれば何でも調べる。何せいろんな才能や頭脳が集まる場所だからな。俺はその中でもプロファイリングに近いことをやってる」

 客員なのは、とハルが口の端を釣り上げるような笑みを浮かべる。

 「つまり、正式な職員じゃないからだ。俺は元々ゲストとしてここで暮らしてた」

 史瀬の中で、何かが引っかかる。ハル程の頭脳の持ち主なら、ここに招かれたとしても不思議はない。しかし、何故だろう。それだけでは納得できない何かが、ハルの話の中にはあるような気がした。

 「三つ目。何故お前に話したか。これは説明が難しい」

 「ハル?」

 椅子を軋ませて立ち上がったハル。モニターから放たれる人工の光を背に、ハルはじっと史瀬を見つめ、それは、と囁くような声で静かに告げる。

 「いずれわかる」

 答えになっていない。史瀬は言いかけて止めた。躊躇うような沈黙にハルは微かに目を細め、戻ろうと史瀬を促し部屋を出た。

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