第3話
「おはようございます」
足音もなく不意に姿を現したハルに、染谷はおはようと挨拶を返した。ハルが自分を呼びだしたことなどこれまで一度もなかった。しかも、まだ八時にもなっていない。神出鬼没とはいえ、ハルの姿を施設内で見かけるような時間ではない。昨日の史瀬の言葉を思い出しながら、染谷はいつになく喜々とした様子のハルの顔を見返した。
「昨日のカウンセリング、どこにいるのかと思ったら、史瀬くんに会ってたらしいね」
患者とも呼べるハルに、染谷は医師として渋い顔をした。従順な患者ではなかったが、約束をすっぽかすようなことは一度もなかったハルが、昨日のカウンセリングには姿を見せなかった。何かあったのかとそれなりに探してはみたが、結局見つからなかった。理由はその後、史瀬に会って判明した。ハルは悪びれた様子もなく、すみませんと澄ました顔で詫びて見せる。
「史瀬を呼んだのは、実際俺ですから。最初に挨拶しておきたかったんです」
まったく、染谷はため息がちに呟いた。どうせ自分が何を言おうと、彼の意志は変わらないし、彼自身も変えられない。こうしてカウンセラーである自分を呼び出し、朝早くから活動する気になったという変化の方を、この際喜ぶべきなのかも知れない。
「来ないなら来ないで連絡してくれ。私だって暇じゃない」
「わかりました。申し訳ありません」
言うだけ無駄だったなと、染谷はセキュリティカードをかざし、アトリエのドアを開けた。日光を避けるため、窓にはブラインドが下ろされている。染谷は照明のスイッチを押した。ハルは染谷の傍らを無言ですり抜け、壁に掛けられた一枚の絵の前に立つ。染谷もハルに続き、壁の絵を順に眺め、額装されていないままのキャンバスを壁に立てかけた。
史瀬の絵は、どこから来るのか。
彼の描く抽象画には、この世界に隠された秘密を思わせる深遠さと、全てのものが宿す有限性を突き付けるような儚さがあった。
青と黄のグラデーションだけで描かれる世界。彼は潜在意識で描いているのだと誰かが言った。
「史瀬は、赤を使いませんね」
傍らの染谷に、ハルは何気なくそう声をかけた。
「そうだね……でも、昔は魚の絵をよく描いていたと言ってたよ」
「魚、ですか?」
首を巡らし染谷を見たハルは珍しく興味深そうな表情をしている。染谷は逆に史瀬の描いた絵に目を転じた。
「妹さんが、好きだったそうだ。特に、金魚の絵をよく描いたとか……。金魚というくらいだから当時は赤い色も使ってたんじゃないかな」
「昔の絵は、残ってないんですか?」
「残念ながら。ご実家が火事になった時、全部焼けてしまったみたいだね。お母様は史瀬くんたちが小さい時に事故で他界されたんだけど、お父様はその火事で亡くなってる。ご両親がいなくなって施設に入ってからは、もう赤は使わなかったみたいだよ。今回は関係ないと思って借りてこなかったけど、動物を描いてた頃のスケッチブックは今も仁さんが持ってる」
なるほど、呟いたハルの口角が微かに上がる。それを認めた染谷はゆっくりと息をついた。
「お父様が亡くなった火事が原因だと、君も思うか?」
「そうですね。ただ、先生が考えてるのとは少し違うかも知れない」
どういう意味かと眼差しで問う医師に、ハルはうっすらと微笑んだ。小田島がキラースマイルと呼んでいたが、なるほどと染谷は苦笑する。見る者を惹きつけてやまない美しさというものが、この世にはある。時にそれは景色であり、物でもある。ハルはそういう類の存在だった。ハルは人間の底に眠る破滅願望を揺さぶった。何かに身を投げ出してみたくなるその衝動を、微笑一つで引きずりだせる。ハル自身が、あるいは美しい破滅の象徴なのかも知れない。
「この絵から、何か聞こえますか?」
「いや……私には何も聞こえないよ。むしろ、静謐に溢れてると思う。完璧なくらいの、静けさ、闇の中で、耳が痛くなるような」
「俺には、この絵から悲鳴が聞こえます」
「悲鳴?」
ええ、と目を細めながらハルは史瀬の絵に歩み寄った。
「消せない恐怖、排斥できない不安、無意識に抑え込んだ悲鳴が、ここに閉じ込められてる」
史瀬は、と染谷に背を向けたままハルは続けた。歌うように淀みのない、美しい声だった。
「平静を装ってるんです。世界の半分は闇で、半分は光でできてるのに。それなのに、まだ、光の中には影が蹲ってる。それにあいつは気付いてる。闇の中に置いてきたものを、今でも光の中に見出すんでしょう。この絵の中にあるのは、終わりのない闇と、そこで見てた悪夢だ。けど、あいつが本当に恐れてるのは、時々光の中に現れる影なんじゃないかな」
「君の考察にはいつも脱帽するよ」
恐れ入ります、ハルは染谷の方に少しだけ顔を向け、囁くようにそう言った。再び史瀬の絵に向き合う。その絵に触れたそうに指を伸ばし、そのまま動きを止める。
何を思うのか。ハルの後ろ姿を見つめながら染谷腕を組んだ。その底知れなさに時折寒気さえ感じる。
これまで何に対しても興味を示さなかったハルの史瀬への態度には、単なる興味を超えた執着のようなものがある。そこにある物は何なのだろう。
君は、と医師はたまらずハルの背に声をかけた。
「どうしてそこまで史瀬くんにこだわる?」
ハルは肩越しに、微かに染谷を振り向いて、口元に笑みを湛えたまま再び背を向けた。
「それをどう説明したところで、先生にはわからないと思いますよ。先生じゃなくても、他の誰にも」
「確かに、私にもそんな気はするよ……」
諦めたように小さくため息をついた染谷はハルの背から史瀬の絵に目を移す。この静まり返った絵のどこから、悲鳴が聞こえるのだろう。史瀬の絵には、切なくなるような儚さを感じさせるものがある。しかしそれはどこまでも繊細で、淡い輝きのようなものだった。染谷にはどうしても絶望や悲鳴といった激しい感情には思えなかった。
あいつの絶望が、独り言のようにハルが呟く。
「絶望?」
自分には垣間見ることのできないハルの顔。その美しい顔に、彼はどんな表情を浮かべているのだろう。
「あいつの絶望が、俺を引き寄せる」
嘆息をつくようにハルは言う。恍惚としているかのようにも聞こえる声に、染谷は史瀬の静かな佇まいを思い出す。物静かな少年だった。彼の描く絵とよく似ている。整った顔立ちと落ち着いた雰囲気から、実際の年齢よりは大人びて見える。聡明で、深い川のような底知れない力強さを感じさせる独特な目をしている。しかしそれ以上の印象を染谷は史瀬に抱いていなかった。
確かによくいるタイプではない。けれど、ハルほどの男がどうしてそこまで夢中になるのか染谷には理解できなかった。ハルの言うように、説明されたとしても、きっと理解はできないのだろう。
「そろそろ、あいつが来るんでしょ?」
不意に振り向いたハルに問われ、染谷は腕時計を見た。
「ああ、そうだね」
「俺は外します」
それじゃぁと言い残し、ハルは名残を惜しむことなく部屋を出ていった。
初めてアトリエに足を踏み入れた史瀬は、壁に飾られた自分の絵を見回し、それから染谷の顔を見た。
「外してもいいですか?」
「飾り方、まずかったかな?」
染谷の問いに、史瀬は微かに笑みを浮かべ首を横に振った。
「落ち着かないんです。今までも、自分の描いた絵を見返したりはしなかったし。次の絵も、描きにくいから」
「そうだね。一周りしながら外そうか」
染谷は史瀬とともに壁に掛けられた絵を一枚ずつゆっくり眺めながら、外して回った。全ての絵を壁側に向け立てかけ、二人は部屋の隅のソファに腰を下ろした。
「それじゃ、少し話を聞かせてもらってもいい?カウンセリングとは言っても、ただの雑談だと思ってくれていいよ。私は君の絵はもちろん、創作の過程にも興味を持ってる」
今日の染谷は白衣を着ていなかった。手にはノートパッドを挟んだバインダーと万年筆を持っているが、表情は穏やかで他愛もない話題を友人に語りかけるような口調は史瀬を安心させた。
絵はどんな時に描くのか、どこから描くのか、青と黄色以外は全く使わないのか。染谷の問いに、史瀬は時間をかけて答えた。一つ一つの回答は言葉少なだが、それを導き出すまでにそれなりの時間がかかる。史瀬は染谷の問いに毎回沈黙し、自分の中に答えを見つけては、言葉に置き換える。そんな作業を繰り返しているように見えた。
「いつから今みたいな抽象画を描くようになったの?」
染谷に問われ、史瀬は動きを止めた。これまでとは違う微かな緊張を染谷は史瀬の表情に見出した。
「子どもの頃はずっと、動物を描いてました。妹が好きだったし、家に図鑑がたくさんあったから」
そこまで言うと、史瀬はまた沈黙した。伏せられた目が微かに動く。それは、答えを作ろうとしている時の目の動きだった。過去の出来事を思い出そうとする時、史瀬の視線は自然と右側に動く。最初の雑談の中で染谷は史瀬の会話や思考の癖をある程度確認していた。人によって特徴は異なるが、特殊な訓練を受けていない限り、誰しもが無意識に行ってしまう仕草に、その人物の本音や迷いは現れる。史瀬は今、何かを隠したいと思っている。染谷はそう確信した。
「動物を、描くのに飽き始めて……気付いたら抽象画になってたんです。一時期は、同時に描いてました」
「飽きたのに、動物を描いてたのは、妹さんの為?」
染谷の問いに驚いたように史瀬は顔を上げた。そして、一瞬間をおいて、ぎこちなく頷く。
「そう、ですね」
「だとしたら、抽象画は自分の為に描いてる、ってことかな?自分の為にっていうか、自分が描きたいと思って?」
沈黙を返す史瀬。それは今までの思考の為の沈黙ではなく、黙秘のように染谷には感じられた。ハルは史瀬の絵から悲鳴が聞こえると言っていた。そのことと何か関係があるのかも知れない。
「何を描いてるのか、描きたいのか、正直、自分でもわからないんです。ただ、手が動く。そんな感じです」
しばらくしてから、史瀬はぽつりとそう呟いた。
「なるほど。私には芸術の才能が全然ないから上手く言えないけど、芸術家の中にはきっと、自分にも説明できない、理論や理屈じゃない部分があるんだろうね」
染谷の言葉に史瀬は力なく笑って見せる。それは大人びた少年の気遣いのようだった。
「ちなみに、ご家族やご親戚に、絵描きさんは?」
「いないと思います。父は学者で、母は専業主婦でしたから」
「実のお父様は、皆川史彦先生だよね?私も学生時代は先生のご著書を何冊も読み漁ったよ。史瀬くんは子どもだったからまだわからなかったかも知れないけど、お父様は本当にすごい学者さんだったよ。先生の功績は今でも学会に残ってる」
そうですかと嬉しそうな様子もなく史瀬はただ頷いた。ほとんど無表情に見えるその顔に染谷は違和感を覚える。親子ではなくても、生き別れるより死に別れた場合の方が、相手に対する感情や記憶は美化される傾向にある。しかし史瀬には実の親に対する思い入れが希薄なようだった。
よく見なくても、史瀬には確かに皆川史彦の面影がある。著者として本に掲載された写真を何度か見たことがあったが、学者にしておくのは惜しいほど端正な顔立ちをしていた。じっと見つめすぎたせいか、史瀬が不意に顔を上げた。
「俺と妹は、たぶん、両親が違うんだと思います」
「そう思う、理由は?」
驚くことなく染谷は史瀬の唐突な言葉を受け止めた。染谷の問いに史瀬はまた軽く目を伏せた。
「両親も、素良もO型です。けど、俺だけ違う」
そうかと染谷は頷き、史瀬くんと呼んだ。
「血液型というのは、意外とあてにならない。新生児の血液型を調べると母親の血液型が出ることはよくあるし、一般的なABO以外の特殊な型を突然変異として持つ人間も意外にいるんだ」
「そうですか」
史瀬は特に異論を唱えることなく大人しく頷いた。しかし染谷には、それが一種の拒絶であることがわかる。いずれ、実際にDNA鑑定でもすれば明らかになることだ。本人がそこまでの必要性を感じていないのなら、それ以上その話題について話し合うことに意味はない。
顔立ちを見る限り、史瀬は皆川史彦の関係者で間違いないだろう。あるいは彼の兄弟の子どもだという可能性もあるが。
今日は、と史瀬がゆっくり顔を上げた。
「何時までですか?描きかけの絵があるので」
これ以上、話はしたくない。史瀬は言い訳のようにイーゼルにかけてあったキャンバスを振り返った。
「ああ、ごめんね。もう一時間だし、今日はこれで終わりにしよう」
「ありがとうございました」
ソファを立って、史瀬は頭を下げた。染谷も走り書きをしたバインダーを閉じ立ち上がる。
「こちらこそどうもありがとう。君の絵も、創作過程も、とても興味深かったよ。また話をさせてくれるかな?」
ええ、大人びた顔で史瀬は頷き、少しだけ微笑む。
「ありがとう。また連絡するよ。何かあれば史瀬くんからも、いつでも。今日は他にプログラムはないから、後は好きなように過ごしていいよ。カフェテリアなら何時でも食事が取れるし」
「わかりました」
またねと部屋を出ていく染谷を史瀬は会釈で見送った。
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