第2話

 仁はロッキングチェアに身を沈め、古びたスケッチブックを開いた。そこには、十年程前に史瀬が描いた絵が何枚も納められていた。

 初めて会ったのは、児童養護施設だった。クリスマスも近い十二月のある日。他の子どもたちは職員と一緒に大きなクリスマスツリーの飾りつけに夢中だった。

 独特な絵を描く子どもがいる。数枚の絵とともに送られてきた史瀬の写真とプロフィール。仕事の一環ではあったが、それよりただ、会いたいという気持ちが勝っていたのは事実だった。

 二人は寄り添うようにレクレーションルームの床に座っていた。史瀬は黙々とスケッチブックに何かを描いていて、素良はそれを黙って見つめていた。

 とても大人しい子たちだと、職員は言っていたが、二人とも非常に成績がよく、兄は絵に、妹はピアノの演奏にそれぞれ特出した才能があるようだとも語っていた。

 「こんにちは」

 仁は二人を驚かせないように少し離れたところで腰を屈めそう声をかけた。二人はほとんど同時に仁を見たが、怯えた様子はなく、小さな声で挨拶を返した。

 「史瀬くんと素良ちゃんだね。僕の名前は、仁です」

 兄妹にしてもあまり似ているとは言えない二人は、真っ直ぐに仁を見つめた。その瞳は輝くように澄んではいたが、子どもには珍しい、諦めとも穏やかさともつかない静けさを湛えていた。

 妹より、兄である史瀬の方が、彼女に似ていることを、仁はその時はっきりと気付いた。写真を見せられた時、何かの間違いかと思ったが、やはり、史瀬は今は亡き幼馴染の少女によく似ていた。しかし、私情だけで動く訳にはいかない。幼い面影を断ち切ろうと、仁は目の前の子どもたちと向き合った。

 「何を描いてるの?」

 仁はゆっくりと二人の傍に腰を下ろすと、二人が真剣に見詰めていたスケッチブックを覗き込んだ。

 「お魚」

 そう答えたのは妹の方だった。

 「すごいね」

 仁は思わずそう呟いた。黒と青、黄色で描かれた魚は金魚、それもランチュウのような特殊な種類の金魚だった。尾や背びれは勿論、水の中で揺らめく魚のしなやかな動きが画用紙の上に見事なまでに描き出されている。とても小学校低学年の子どもが描いたとは思えない。

 「いつもお魚を描くの?」

 色鉛筆を握りしめた史瀬が顔を上げる。子どもらしからぬ強い眼差しに仁は一瞬たじろいだ。傍らの素良は無邪気に笑い、兄からスケッチブックを取り上げると、仁に手渡した。

 「見る?」

 「ありがとう。ちょっと見せてね」

 描かれているのはほとんどが動物の絵だった。それも背景まできちんと描きこまれているものが多い。馬は草原に、象はサバンナに、ラクダは砂漠に、そして先程と同じ金魚は金魚鉢の中に描かれている。

 「いつも何かを見て絵を描いてるの?」

 仁が問うと史瀬は少しだけ頷き、小さな声で本、と答えた。

 「そっか。本で見た通りに描いてたんだね」

 「うん」

 「金魚はね、お家にいたんだよ」

 史瀬にスケッチブックを返した仁はそっと素良の頭を撫でた。

 「お家で飼ってたんだ」

 「うん。でも死んじゃったの」

 少しだけ表情を曇らせた素良。史瀬は何も言わずスケッチブックに向い、青い色鉛筆で絵を描き始めた。

 あの時の史瀬の集中力には驚かされるものがあった。そして今でも絵を描き始めると寝食を忘れることがある。しかし学校には休まず通っているし、成績も常にトップクラスだった。やはりある種の天才なのだろう。素良にも音楽の分野で特殊な才能がある。どんな両親の下、どんな環境で生まれ育ったのか。二人の両親についてはある程度わかってはいたが、あくまで書類上でのことだけだった。時々見える、史瀬の目に宿る激しい光をどう理解すればいいのか。自分の理解が及ばないせいで二人の才能を埋もれさせるようなことがあってはいけない。職場でもあるWAからのゲストインビテーションを受け入れたのは、そんな思いからだった。それは苦渋の決断でもあった。

 二人とも今朝からWAへ行ってしまった。どこからもピアノの音も、テレビの音も聞こえない。日頃から物静かな兄妹ではあるが、仲はいいようだし、そろえば時折笑い声もする。この家がこれほど静まり返るのはいつ以来か。仁にとってその静寂は不吉なほどでもあった。

 「旦那様」

 私室のドアをノックしたのは家政婦だった。どうしたと声をかけると、来客だという。約束はしていなかったが、その名を聞き仁は驚いたように椅子から立ち上がった。

 リビングには、よく見知った顔があった。

 「職場の外でお会いするのは、何年ぶりでしょうね」

 「何の用だ?」

 仁の問いには答えず、ハルは立ったまま室内を見回す。広々とし、品のいい調度品に囲まれたリビングには家族写真が多く飾られている。

 「史瀬と、初めて話をしましたよ」

 こうなることはわかっていた。仁は苦々しげにハルの顔を見たが何も言わなかった。

 「何度か、遠目には見かけたことがあったんですよ。けど、あんな近くで話をしたのは初めてでした。綺麗な顔してますね」

 ハルは口元だけを歪めるように微かに笑った。

 「誰かに似てて……一緒にいるのは辛くないですか?」

 「何が言いたい?」

 「僕が、怖いですか?あの人を奪って、今度は史瀬まで」

 自分から見ればまだ少年とも呼べそうな男の声に、仁は震えた。

 「やめろ」

 「あの頃の彼女の年に近づいて、これからもっと似てくるかも知れない」

 「やめろと言っている」

 「そんなに怒らないで下さい。動揺してるって、告白してるようなもんですよ」

 「黙れ」

 ハルは柔らかく微笑んで、チェストの上に飾られていた写真立てを手に取る。そこには幼い兄妹が写っている。十年程前だろうか。史瀬と素良だった。

 「女顔っていうわけでもないのに、何故史瀬なんでしょうね。素良より、史瀬の方が似てる。冷たそうなのに、どことなく色気があるから……そのせいですかね?」

 「わざわざそんな話をしに来たのか?」

 仁は苛立った様子でハルの手から写真立てを取り上げた。

 「彼女と築きたかった家庭の、レプリカみたいなものですか?でも、貴方が思ってるよりずっと早く、美しい絵画は朽ちていくかも知れない」

 「用がないのなら、お引き取り頂けないかな」

 「用ならありますよ。ご子息と、共同研究をさせて頂きたいんです」

 仁の怒りをかわすように軽やかにハルは笑う。

 「何だと?」

 「させて頂きたい、というのは正確じゃないかも知れません。正しくは、ご子息と共同でリサーチをさせて頂くことになりました。依頼ではなくて、ご報告です」

 「ふざけるな。誰がそんなこと」

 「萩田さんには既に了解をとってあります。正式なアプリケーションの手続きも明日には完了予定です」

 「私は何も聞いてない」

 「ええ。反対されるのは目に見えてましたから」

 「何が目的だ?」

 押し殺した仁の声。ハルは怯んだ様子もなく、何も、と答えた。

 「目的なんてない。ただ、史瀬に興味があるだけです。それに、史瀬にもそろそろ理解者が必要でしょう。いつまで経っても貴方にあいつは理解できない」

 「な」

 「ご自身でも、わかってるんじゃないですか?戸籍上は確かに親子だ。けど、結局は赤の他人でしかない。まぁ、実の親だからといって必ずしも子どもを理解できるわけじゃないですけどね。貴方は不安なんですよ。いつか史瀬に何もかも見抜かれて、去られるのが。本当はどこかで、お互いに理解できないまま、離れたいと思ってるんじゃないですか?」

 「憶測で物を言うな。お前に何がわかる?」

 仁の声は激情からか微かに震えているようだった。ハルは憐れむように仁を見つめ、それでもと微笑むように囁く。

 「WAへ行かせることを許したのは英断だと思いますよ。保護者の立場を利用すれば、いくらでも阻むことはできたのに」

 何もかも知っている。ハルはそう言うように自信に溢れた言葉で仁を責めた。あるいは責めるつもりなどハルにはなかったのかも知れないが。何も言えなくなった仁に、ハルは一礼した。

 「それでは真崎主任、また明日」

 優雅に部屋を出ていくハルの後ろ姿を、仁は見送ることさえできなかった。怖くないと言えば嘘になる。ハルのことも、史瀬のことも。手にした写真立ての中には、幼い兄妹がはにかんだ表情で佇んでいる。仁にとって二人は、血の繋がりはなくても、最愛の息子であり、娘だった。誰に何を言われようと自信を持ってそう断言できる。しかし何故だろう。ハルに投げかけられた言葉の一つ一つが、石礫の雨のように心を打った。

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