Heavenly Colors

西條寺 サイ

第1話

 雨が全てを消し去るなら、

 貴方の名前以外、私には、もうどんな願いもない。 


 指定された部屋の扉を開けた時、は戸惑って足を止めた。そこはアトリエとも研究室とも違う、不思議な部屋だった。どこに飾られているのか、ウィンドベルに似た高く澄んだ音が響く。内鍵のかかった大きな窓からは、夕暮れの空が見えた。焼けたオレンジ色に白い雲は溶け、淡いピンクや紫の光がうっすらと漂うその景色。温かく幻想的な光が、玩具の散乱した床を染め上げる中、史瀬あやせは吸い寄せられるように窓辺に立った。永遠に見ていても飽きないだろう。その空の美しさに部屋を訪れた目的さえ忘れた。胸騒ぎのような微かな悲しみが込み上げてくるのは、この景色が、時間がやがて終わりを告げると知っているからだった。

 ウィンドベルか、その音がする方に目をやった時、史瀬は驚きのあまり声を発することさえできなかった。

 「真崎史瀬まさきあやせ、だろ?」

 「……あんたは?」

 やっとの思いで発した声は掠れていた。

 二人の距離はそう離れてはいない。いつからそこにいたのか、ガラスに上体を預けるように佇んでいた男は、ゆっくりと史瀬に歩み寄った。背は自分より少し高く、すらりとした体型は間違いなく男性だった。けれどその顔は、一見して性別も国籍も年齢も判じ難いほど、あまりに整って、謎めいてさえいた。

 「ハルだ」

 男はそう言って史瀬に右手を差し出した。警戒しているのか動こうとしない史瀬にハルは微かに笑ったようだった。

 「碓氷うすいと名乗った方がわかりやすいか?」

 「碓氷?あんたが?」

 ああ、頷いたハルは疑わしそうに自分を見つめる史瀬に軽く両手を上げて見せた。

 「想像してたのと違ったか?俺は医者でも学者でもない」

 また、部屋の内か、外か、どこかでベルが鳴る。重なり合う繊細な音が、細い鎖のように絡み合いながら、夕暮れの緩やかな光の中で幻のように響いた。

 ハルは屈みこみ、床に転がっていたゾウのぬいぐるみを拾い上げ

 「ここは子ども用のアトリエだ」

 無関心にも、優しくも見える眼差しで、手の中の小さなゾウに目を細める。

 「お前も、昔、ここに来たことがあるだろ?」

 再び目があった時、夕暮れの光を受けたハルの目は不思議な輝きを放っていた。命あるものの、根源的な力を表すような、強い光。魅入られたように動けない史瀬に、ハルは音もなく近づいた。ハルの手から、命のない玩具が滑り落ちていった。

 「同じ目だな」

 ハルは囁くような声でそう言った。その容姿にふさわしい、耳触りのいい深く甘い声を、ハルはしていた。それは囁きのような微かな音になった時、一層物憂げに、魅惑的に聞こえる。史瀬は眩暈を覚え、とっさにガラスに手をついた。揺れる視界の中で、空はさらに溶け合うように不思議な色になっていた。

 「史瀬」

 そう呼んだハルの表情は見えなかった。差しのべられた手を掴む間もなく、史瀬は床に崩れ込んだ。

 「お前と俺は同じ生き物だ」

 「何いって」

 史瀬の顔を覗き込むようにハルは床に膝をつき、微笑みに似た表情で僅かに首を傾げた。

 「お前は知ってる」

 ハルを見つめる力さえ、既に史瀬にはなかった。ぐらぐらと揺れる視界の中で、予言のように厳かにハルの声だけが頭上から降り注ぐ。

 「もう、知ってるんだ」

 ハルはそう言い残し、静かに部屋を出ていった。ドアの開閉に合わせ、また微かにベルが鳴る。史瀬は壁にもたれ大きく息を吸い込んだ。ゆっくりと吐き出す息は震え、わずかに乱れていた。窓から差し込む光が室内をオレンジ色に染める。温かく、なめらかに乾いた残照。

 自分をこのワークショップ・アパートメント、通称WAに招いたのは、染谷そめやという心理学者だと聞かされていた。子どもの頃、じん素良そらとともに何日か滞在した時の担当者だった。当時は一緒に遊んだり、絵を描いたりして過ごしただけだったが、今回はその追跡調査だという。春休みを利用した数週間、施設の中では自由に過ごせるが、その間に美術の評論家や現役の画家、心理学者や別の分野の第一人者との交流やインタビューなどがプログラムとして組み込まれている。その中に、碓氷という名前もあった。彼は、一体何者なのだろう。床に転がったゾウのぬいぐるみ。無意識に伸ばしかけた手を史瀬は止めた。

 「入るよ」

 軽いノックに続き、柔らかな男の声が聞こえた。史瀬はまだ立ち上がることができず顔だけをドアに向けた。

 「史瀬くん?どうした?」

 「すみません」

 白いシャツにチノパンというカジュアルな格好だったが、その人物は白衣を身につけていた。驚いたよう駆け寄ってくる彼の胸には、染谷というネームプレート。少し下がり気味の優しげな目元。そう言えば昔ここで会ったのは、目前の人物だったかも知れない。史瀬は右手をついて身体を支えながら、すみませんと繰り返した。

 「急に、立ちくらみがして」

 「いや、安静にしてた方がいい。顔色はそんなに悪くないから、貧血じゃないと思うけど。立てるかな?ゆっくりね」

 「大丈夫です」

 染谷の肩を借り、史瀬は近くのソファに腰を下ろした。染谷は部屋の奥へ姿を消し、戻ってきたときにはパックのオレンジジュースを手にしていた。

 「少し飲める?」

 「ありがとうございます」

 冷たく酸味のある果汁を飲み下すと、不意に現実に引き戻されたような気がした。軽く息をついた史瀬に染谷は頷いた。

 「大丈夫そうだね。覚えてるかな。染谷です。前に会ったのは十年くらい前だけど……」

 「ええ。何となく、ですけど」

 「そうか。まだ真崎主任と会ったばっかりの頃だったよね」

 はいと史瀬は頷いた。施設で妹と暮らしていた時、仁は不意に現れた。絵を見せて欲しいと言われ何度か会った後、この場所に連れてこられた。あの時はまさか、彼が自分たちの育ての親になるとは思いもしなかった。

 懐かしいね、と人のよさそうな表情で微笑み、染谷は史瀬の隣に座った。

 「私は心理学の研究者でもあるんだけど、施設の顧問医もやってるから。体調悪くなったらいつでも言ってね」

 「はい」

 史瀬の様子が落ち着いたのを見計らい、染谷は傍らに抱えていた黒いバインダーを開いた。

 「これ、今日のオリエンテーションの資料ね。本当はひとつひとつ説明しなきゃいけなんだけど、まぁ大事なことそんな書いてないし、後で読んどいてもらえる?動けそうなら施設の中、簡単に案内するけど」

 どうする?と問われ史瀬は資料を受け取った。書類に目を落としたが、公共スペースの利用ルールや緊急時の連絡先など、読めばわかるような内容が記載されているだけのようだった。

 「自分で読んでおきます。施設の中も、父について何度か遊びに来たことがあるので、大丈夫だと思います」

 「そうか。そうだよね」

 染谷は笑ってバインダーを閉じた。

 「早速だけど明日の午前中は、私のカウンセリングが入ってるよ。カウンセリングって言っても、インタビューみたいなものだから緊張しなくていいからね。君用のアトリエに、これまで描いた絵を仁さんから借りて飾ってあるんだ。そこで会おう。プログラムのある日の前日はメールが飛ぶから、それも確認しておいて」

 「わかりました」

 史瀬が書類を片手に持ち替えたのをきっかけに、二人はソファからゆっくりと立ち上がった。史瀬は、あの、と初めて自分から問いを発した。

 「碓氷ハルというのは、誰なんですか?」

 「碓氷くん?どうして彼を?」

 史瀬の言葉に染谷は驚いた顔をした。先程この部屋でハルに会ったことを、染谷も知らなかったのだろう。偶然だったのか、故意だったのか、ハルの真意を史瀬は計りかねた。

 「いえ……プログラムの中に、名前があったのを覚えてて。それに、染谷先生がいらっしゃる前にここで会ったので」

 そうかと染谷は軽いため息をついた。

 「彼なりの、歓迎だったんだじゃないかと、私は思うよ。別に他意があったわけじゃないんだ。彼は、何と言うか……この施設の中でも特殊な立場だし、とても個性的だから」

 いずれわかる、染谷はそんなことを言って話題を打ち切った。

 部屋を出る時史瀬が何気なく振り向くと、オレンジの残照は既に消え、うっすらと漂う雲の向こうから夜が近づいていた。冷たくなっていくリノリウムの床に体温を持たない玩具たちが横たわっていた。


 珍しく自分の執務室を訪れたハルを、荻田おぎたはデスクから立ち上がって迎えた。どことなく機嫌が好さそうにも見えるハルは、微かな笑みを浮かべ、お久しぶりですねと告げた。

 「どうした?お前が、珍しいな」

 「ええ。まずはお礼をと思いまして」

 「礼?」

 ええとハルは頷いて、まっすぐに荻田を見つめた。

 「客員研究員なんて立場を認めて下さったことです」

 そのことかと荻田は静かにハルを見つめ返す。

 「ゲストが調査員や研究員になるのは珍しいことじゃない」

 「実際、僕の存在自体厄介でしょう。弁えてますよ、さすがに」

 「そんな言い方をするな。俺たちはもう、家族みたいなものだ」

 荻田の言葉に、ハルはおどけて首を傾げる。

 「お父さんと、お呼びしても?」

 「碓氷」

 「冗談です。今日はお願いがあってきました」

 ハルは微笑み、姿勢を正した。多くの人間を見てきた荻田にとっても、ハルの立ち姿は見惚れるほど美しいものだった。無駄な力みも、少しの歪みもなく、計算された僅かの隙が媚態のように他人に警戒心を抱かせない。初めて会った日と同じ感動が、そこにはあったが、荻田は無表情のまま、何だとハルに問いかけた。

 「アツィルトの主宰、野々宮ののみやについて、調べたいと思っています」

 「どうして野々宮を?」

 「毎日、TVでもネットでも騒いでるじゃないですか。多くの、それも不特定多数の人間を熱狂させる物には、何かしらの理由がある。それが知りたいんです」

 「だが、史瀬はどうする?客員研究員になってまでお前が会いたいと言ったんだろ?野々宮についてリサーチしたいなら、史瀬のことは他の奴に任せろ」

 「フィールドワークということでどうですか?史瀬とは、いろいろな形で関わってみたいんです。以前お話ししたと思いますが、僕が研究の対象にしたいのは真崎史瀬の絵と、本人です。反応を引き出す為にも刺激は必要です」

 ハルの自信に溢れた言葉に、荻田は軽いため息をついた。

 「それで、野々宮の何を調べるつもりなんだ?」

 「そうですね……野々宮について直接調べるのは難しいでしょう。これだけマスコミが騒いでいるのに素顔はおろか年齢も本名も不明のままだ。僕はむしろ、野々宮を頂点とした占い師の集団の方から調べようと思っています。現代の秘密結社とも呼ばれてる、アツィルト。ご存知でしょう?公安の方もそろそろ気になりだしてるんじゃないですか?」

 「一体どこからそんな話を聞きつけてくる?」

 荻田は顔を顰めハルをじっと見つめる。普通の人間なら委縮してしまうような鋭い眼差しだった。ある種の訓練を受けた者だけが身につけることのできる威圧感。しかしそれさえ意に介さずハルは話を反らす。

 「勿論、史瀬を危険なことに巻きこむつもりはありません。これから敵に育つかも知れない組織なら、内情は早めに把握しておいて損はないと思いますが」

 ハルはそっと一枚の紙を荻田のデスクに置いた。リサーチをプロジェクトとして承認し、開始の指示を出すのはWAの代表である荻田の役割だった。

 「申請書です。ご承認頂けるようであれば、サインを」

 自分の願いは全て叶うと、ハルは既に知っている。

 「置いておけ」

 ハルに背を向けながら荻田は告げた。

 「ありがとうございます」

 ハルは慇懃に礼をし、部屋を出ていった。荻田はハルが残していった申請書を手に取り、記載された内容に目を通す。ハルらしい無駄のない簡潔な文章で、アツィルトの端的な特徴や構成、プロジェクトの目的や成果目標が記されている。共同研究員として真崎史瀬を希望するという最後の一文に、荻田は微かに顔を顰める。どうしてハルは史瀬に拘るのか。仁への嫌がらせというわけでもないだろう。これまで何人も天才と呼ばれる少年少女がこの施設を訪れた。しかしハルはその中の誰に対しても関心を示さなかった。

 荻田はゆっくりとペン立てから万年筆を取り上げた。ハルの変化に興味を覚える一方、穏やかな気分とは言い難い。

 WAは表向き、文科省管轄の施設とされているが、実際には違う。背後にあるのは法務省の外局、公安調査庁だった。アツィルト並びに主宰である野々宮についてのリサーチ指示が出たのはちょうど昨日だ。ハルがこのタイミングで申請書を提出してきたことが偶然のはずがない。

 サインを終え、ペン立てに万年筆を戻すと、荻田は窓辺に立って街を見下ろした。小高い丘の上に立つこの施設からは街が一望できる。何年も前、ハルはこの建物へ続く長い坂道を一人で登ってきた。どこから来たのかは自分でもわからない、ただ、この建物が目についたからここに来た。あの時、ハルはそう言った。少年とも少女とも判じ難い、美しい子どもだった。彼を一目見た職員は皆、天使のようだと囁いたけれど。彼が本当の天使なのか、天使の姿をした悪魔なのか、あるいはもっと特異な存在なのか、荻田は未だに判断できずにいる。少なくとも、彼が現れてからその運命が狂ってしまった人間は何人もいた。ハルが望んで誰かの運命を狂わせたわけではない。しかし直接手を下すことなく、ハルは他人を、その意思を変えることのできる存在だった。

 荻田にとって、ハルをこの施設内に留め置くことは本意ではなかった。しかしそれが本人の意志であり、上層部の意志である以上、異を唱える理由はない。危険分子と成りえる者は、身内として扱った方が御しやすい。上の人間はそう考えているようだったが、誰がハルを管理できていると言うのか。ハルは既に、全ての人の手を離れている。否、彼は最初から誰の手にも懐いてはいなかった。

 今さら、と荻田は思う。今さら何ができると言うのか。彼は既に解き放たれている。どこからとも、何からとも言えなかったが、荻田はそう確信していた。

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