第10話

 覚えのない相手からのメールを千秋は受け取った。会社のアドレスに送られてきたということは、どこかで名刺交換をしたのかも知れないが、どうしても思い出せなかった。しかし、アドレスのドメインにはよく知る社名が入っている。CleversGroupといえば、間違うはずがない。タイトルは先日の御礼。千秋は躊躇いながらメールを開いた。

 送信者は、中谷一馬という社長秘書だった。修一とともに出席した出版社創立記念パーティーへの参加の御礼、ということらしい。クレバースの子会社が出資していたことを思い出したが、数十分会場にいただけだ。わざわざこんなメールが届くことも珍しい。受付で回収した名刺の持ち主全員にメールを送っているのだとしたらずいぶん丁寧な対応だ。

 「……」

 マウスを握っていた千秋の手指に僅かに緊張が走る。メールの後半には、明らかに自分一人に対して向けられたメッセージが記載されていた。

 『つきましては、深澤様にお目にかかりたく、まことに勝手ながら下記にて小宴の手配をさせて頂きました。本来であれば鷹取様をお招きすべきところですが、弊社遠藤が今回はぜひ深澤様にお越し頂きたいと申しております。御迷惑でなければ御社までお迎えにあがるよう、申し遣っておりますがいかがでございますか。……』

 メッセージの最後には、何度か訪れたことのあるホテルと最上階にあるレストランの名前が記載されていた。修一の名前を出す辺りがいかにも隆生らしい。昔からそうだった。相手の急所を一瞬で見抜き、何気なく愛撫するように無言で告げる。お前の弱みはもう抑えていると。あくまで優雅に、礼儀正しく。だからこそ抗うことも怒りを露わにすることさえできない。隆生は、何もしていないし、何も言っていないのだから。

 隆生と最後に会ったのはいつだったか。メールを閉じながら千秋は深くため息をついた。今さら何の用があるというのだろう。それでも、隆生からの申し出を断ることはできない。迎えに来る、というのはある種の脅しともとれる。勿論それを指摘すれば、隆生は優雅に微笑んで否定するだろう。まさか、そんなつもりはないと。

 一瞬だけ、修一に相談しようかとも思った。しかしこれは自分の個人的な付き合いの範囲だ。それに、隆生の話は修一にしたくない。興味本位で詮索されることもないとは言い切れないし、修一がその責任感の強さから何かしらのアクションを起せば、同じ業界の企業同士としての軋轢に発展しかねない。

 最善とは思えなかった。しかし、それ以外に道はない。

 優しく上品で、何でもできる。そんな隆生に愛されていると信じていた頃、自分は彼の何も知らなかった。そして、彼を理解できないままに別れた。今さら、隆生は何故こんな連絡をしてきたのだろう。

 やはり、今でも隆生は、自分に理解できるような存在ではない。千秋はそう気付いた。



 指定されたレストランの前で、千秋は一人の女に呼び止められた。

 「深澤様、でいらっしゃいますね?」

 見覚えのない若い女だった。ホテルの従業員ではないのだろうが、黒いスーツに身を包み、隙のない動きで千秋の行く手を遮る。

 「そうですが」

 「お運びいただいて恐縮です。お食事は、お部屋にご用意させました。こちらへ」

 千秋の返答を待たず女は歩き出した。艶やかな栗色の髪からか、仄かに甘い香りが漂う。どこかスパイシーで深みのある、その甘さ。それは、千秋の知る、ある男の香りだった。

 女は最上階専用のエレベーターに千秋を乗せ、カードキーを手渡した。

 「私はこちらで失礼いたします」

 女は無表情に千秋を見た。

 「そちらにカードを刺して頂ければ、お部屋まで参りますので」

 「……」

 千秋は黙って女の言葉に従った。ドアは静かに閉まり、エレベーターはゆっくりと上昇し始めたようだった。このホテルには、何度か来たことがある。あのレストランにも、最上階の部屋にも。そして、そこで待っている相手も、千秋は知っていた。

 軽い衝撃とともに、エレベーターが停止した。ドアが開くとそこには赤い絨毯の敷かれた廊下がある。行き止まりには立派な木製のドア。

 「待ってたよ」

 ドアは、千秋が辿り着く前に開かれた。微笑んで自分を出迎えた男に、千秋は応じるべき言葉を持たなかった。

 「会いたかったよ、千秋。よく来てくれた」

 それが当り前であるかのような自然さで、遠藤隆生は千秋を抱きしめた。先ほどの女から感じたのと同じ香りがした。変わることのない懐かしい匂いに千秋は目を細めた。

 どうして、と声にならない言葉が千秋の唇に宿る。

 「先週のパーティーでお前を見かけた」

 「そうでしたか」

 「一緒にいたのが、鷹取社長?」

 「ええ」

 相変わらず、否、以前にも増した威圧的な雰囲気。それでもその声を聞けば消えることのない懐かしさが千秋の心を乱す。目をそらしたままの千秋に隆生は微かに笑ったようだった。

 何を、という間もない。その腕に抱き取られ唇を奪われるまではほんの一瞬だった。隆生の冷たい氷のような手で、心臓を優雅に掴まれたような、千秋にはそんな気がした。抗う気力さえ根こそぎ奪うその静かな力。

 「抵抗していいんだよ?」

 キスの僅かな合間に隆生が囁いた。

 「僕には珍しい。過去に手放したものが、無性におしくなるなんて」

 感傷に似せた甘い囁き。それさえ作り込まれた完璧だった。

 「お前の香りは、忘れられなかった」

 隆生は千秋の首筋に唇を押し当てながら囁く。

 「やめてください……」

 「どうした?」

 隆生は千秋から少しだけ離れた。観察するような静かで冷たい眼差しの中に佇んで、千秋は目を伏せた。

 来るべきではなかった、来てはいけなかった。そんなこと、わかりきっていた。ただ、それができないことも知っていた。

 「こんなことの為に、私を呼びだしたんですか?」

 「怒ってるの?」

 「隆生さん」

 「食事をしながら、話そうか。千秋は、このホテルのフレンチ、好きだったよね?そこの料理を特別にルームサービスで運ばせたんだ」

 おいで、と隆生は微笑んで千秋を奥の部屋へ通した。

 豪華なダイニングテーブルの上にはフレンチのコースのような皿が並んでいる。どれも用意されたばかりなのかまだ温かな湯気と香りが漂っていた。

 「サーブもしてくれると言われたんだけど、断わったよ。二人きりになりたくてね」

 肩越しに振り向いた隆生が優しく微笑む。善意しかない、隆生はよくそういう笑顔を見せた。偽りも嘘も裏切りも計算も、全て無縁のように思わせるその柔らかな表情。その表情は、きっと自分にしか向けられないのだと、昔はそう信じていた。だからこそ、隆生を信じていられた。それが、彼がいくつも持つ仮面の一つだということに気付きもしなかった。仮面に血は通わない。そこに隆生の真実はなかった。

 席に着こうとしない千秋に隆生は音もなく歩み寄った。

 「お腹、空いてない?」

 ゆっくりと抱きしめられながら、千秋は壁際に追い詰められた。背中が壁に当たった時、千秋は思わず隆生の顔を仰いだ。

 「た……」

 抗う間もなく、上から唇を塞がれる。隆生の手は千秋の頬を撫で、首筋から胸へとゆっくり下降していった。その手を千秋が反射的に掴むと隆生は顔を上げて千秋の首筋を柔らかく噛んだ。

 「食事より、他のものの方が欲しそうだね……」

 「やめて下さい。どうして今さら?」

 「今さら?今さら、何?」

 慣れた隆生の愛撫に千秋は必死で抵抗した。

 「どうして……私を呼んだんですか?」

 「会いたくなったからだよ。パーティーの会場で、お前を遠目に見かけた。あの頃より大人になって、綺麗になってた……周りの目が自分に向いてることに気づいてただろ?お前は大勢の中にいても人の目を引く。隣にいた鷹取社長もなかなかだったけどね」

 千秋、隆生は耳元に唇を寄せながらそっと髪を撫でた。

 「今は、彼のものなの?」

 「え……」

 「鷹取社長は、まだ独身だそうだね。あれから、会社のことも、鷹取社長本人のことも、いろいろ調べさせてもらったよ。革新的で勢いのある、いい企業に育ってるみたいだね。多少、汚いやり方をするのはご愛敬ってところかな。社長もまだ若い。それに、お前の働きも大きそうだと思ったんだよ」

 どこまで知っているのか。間近に千秋の瞳を覗き込んだ隆生の静かな笑みは、彼が優位に立っていることを千秋に知らせた。

 「まぁ、そんなつまらない話は後でいい。今は、お前が欲しい」

 「隆生さん!」

 その優雅な仕草のどこにこれほどの力があるのだろう。隆生に手を引かれ連れていかれたのはベッドルームだった。三方をガラスに囲まれたその場所。都会の空高くに君臨しているようなそんな錯覚を感じさせる。

 「綺麗だろ?千秋は夜景が好きだったから、一番景色のいい部屋にしたよ。千秋とは、いろんな景色を見たね。ここも、覚えてる?」

 「離して下さい。帰ります」

 「ダメだよ」

 隆生は千秋の肩を掴んでゆっくりとベッドに座らせた。隆生の下がり気味のまなじりの穏やかさに反して、その目には強く冷たい光が宿っている。

 自分は、彼が怖いのだ、千秋はようやくそれに気付いた。怖さと愛しさと尊敬と憧れと、自分にも説明のできない強烈で激しい感情に繋がれたまま、五年以上の時間を彼だけに捧げた。隆生の望むことをして、望むように振舞って、望むように生きた。自分を隆生に縛り付けていたものが、愛情故の献身だったのか、恐怖故の服従だったのか、あの頃にはまだわからなかった。

 しかし、今も変わらない。この眼差しに見つめられると身動きが取れなくなる。拒絶の言葉さえ、口にできなくなる。

 優しく頬を撫でて、隆生はゆっくりと千秋に唇を重ねた。

 「いい子だ」

 動かなくなった千秋をベッドに押し倒しながら隆生は微笑んだ。

 「……」

 悲しみも怒りもない。自分を抱く男の中にある空虚な闇が、自分を犯していく。そこにはもう、感動も痛みもない。

 触れ合った素肌から隆生の体温を感じる。いつもそうだった。ひどくひんやりしていて、どれだけ必死に求めても熱を帯びることはない隆生の肌。全てを、自分自身さえ完璧にコントロールして、迷いとも不安とも無縁。この男は、本当に人間なのかと、何度となく千秋は不安に襲われた。

 「相変わらずいいね。従順で、健気で……いじめたくなる」

 千秋は目を閉じながら、何故か、社長と心の中で修一を呼んだ。わがままで、子どもじみていて、情熱的で、時々はっとするほど優しい。彼と自分は対等な立場だといつか言った言葉は、きっと修一の本音だったのだろう。

 「あっ!」

 痛みと、快感が千秋の全身を突き抜ける。

 今も、と千秋の背中に口づけながら隆生はうっとりと囁く。

 「誰か、可愛がってくれる男がいるんだね」

 「……」

 「隠さなくていい。お前なら、それが当然だ」

 隆生に与えられる快楽とは裏腹に、千秋の胸は不安と恐怖に満ちていくようだった。人ならざる者に抱かれているような、そんな感覚。かつて、感じたことはなかった。どうして、これほど、隆生が怖いのだろう。

 冷たい身体に抱かれながら、悪い夢を見ているようだと千秋は空ろに思う。不意に訪れる痛みと、絶え間ない慣れた快感が、自分を現実に繋ぎとめている。やがて隆生の冷たい欲望を受け止めながら、身体だけが絶頂を感じた。

 千秋、と隆生が呼ぶ。

 「また、会えるかな?」

 「え……」

 ゆっくりと上体を起こした隆生の背を千秋は驚きとともに見上げた。

 振り向いた隆生は、こんな風にと千秋に唇を重ねた。

 「また、会いたいんだ。昔みたいに」

 隆生の指先に頬を撫でられながら、千秋は間近に権力者と呼ばれる人間の双眸を仰いだ。息苦しくなるほど、強い眼差しをしている。

 自分の意志を曲げず、望みを諦めず、全てを従わせることを求める目だった。

 「千秋」

 耐えきれず視線を反らしても、隆生は軽々と千秋のあごを捉え、こちらを見ろと言外に命じる。

 「たか……」

 覆いかぶさるように千秋に唇を重ねながら、隆生はそっと千秋の裸の背を撫でた。

 「また、会ってくれる?」

 その眼差しの中で、否と応じる術を千秋は持たなかった。力なく項垂れるように頷いた千秋の髪に隆生は口づけ、満足げに微笑んだ。

 「いい子だ」

 千秋の耳元でそう囁いた後、隆生は千秋の髪を撫で、顔を上げた。

 「愛してるよ」

 「……」

 優しい顔をして、隆生は囁く。そう告げられることが、かつてはどれだけ嬉しかったか。今は、ただ虚しかった。その言葉も微笑みも、自分に向けられる全ては嘘だと既に知っている。

 どうして、と問いかけたくなるのを千秋は必死にこらえた。答えなど、返ってくるわけがない。少なくとも、嘘以外の答えは。

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