第9話

 公演の後、来場してくれた知人たちに挨拶をしていた千秋は、ロビーの喫煙コーナーに修一を見つけた。舞台上からは気付かなかったが公演の最初からどこかにいたのだろう。驚いて駆け寄ると修一は、おつかれ、と言って軽く片手を上げた。

 「社長……わざわざ、聞きに来て下さったんですか?」

 煙草を指に挟んだまま、修一はいや、と口元だけで笑う。

 「見に来ただけだ」

 何が違うのか、そう言いたげなタキシード姿の千秋。修一は煙草の灰を灰皿に落とすとついでのように腕時計を見た。

 「これから打ち上げか?」

 「ええ。私は行きませんが」

 「どうして?」

 「いつものことです。あまり、ああいう席は得意ではないので」

 そうか、微かに笑った修一。

 「飯は?」

 「特に何も考えていなかったのですが」

 「予定もないんだろ?付き合えよ。腹が減った」

 「ええ。ありがとうございます。すぐに着替えてきます」

 「ああ」

 千秋は軽く頭を下げると楽屋の方へ歩いて行った。何気なくその姿を追った修一の目に、一人の男がとまった。背はそれほど高くはないが、均整のとれた体つきをしている。年齢は三十後半くらいだろうか。どこか優雅な雰囲気で表情は微笑んでいるように柔らかい。人目をひく、優しげで甘い顔立ちをしている。

 クラシックの公演にふさわしいと言えるような、品のいい紳士的な男だった。修一には見覚えがあるような気がしたが、誰だったのかが思い出せない。仕事の関係で、どこかで顔を合わせた相手かも知れない。近くまで行って声をかけようか、一瞬躊躇っている間に男は出入り口にむかって歩き出した。

 (誰だ?)

 男は一瞬だけ振り向いたが、足を止めることなくホールを後にした。その目は千秋が入っていった楽屋の方を見ていたようだった。楽団員の関係者かも知れない。

 思い出せないのであれば、それほど重要な相手でもなかったのだろう。修一は煙草を灰皿に押し付け、腕時計を見た。今から出ればちょうど予約した時間くらいに着くはずだ。

 たまにはまっとうな労いをするのも悪くはないだろう。無駄足になる可能性もあったが、今日は来てみてよかったと、着替えを終えた千秋の姿を見つけながら思う。

 「フレンチでいいか?」

 千秋の好きな店の名を告げながら車へ向かう。千秋は驚いたように頷いたが

 「空いてますかね?」

 少し戸惑ったようにそう言った。

 「まぁ、1席くらいあるだろう」

 ぶっきらぼうな修一の言葉に、そうですねと千秋は応じた。

 ダメならダメで他にも店はある。千秋はそう思っていたが、店に着くと既に席は用意されていた。いつの間に電話をしたのかと思ったが、それも修一なりの気遣いなのだろうと特に触れないことにした。

 「そういえば、楽器は?」

 「今日はコンサートホールの物を借りました。移動も大変なので」

 「まぁ、そうだよな」

 シャンパンで乾杯しながら、修一は千秋の顔を見た。

 「どうしてチェロを選んだ?」

 「え?」

 「オケの花形はバイオリンだろ?」

 「そうですね。祖父が、チェリストだったので、その影響です」

 そうか、と頷いた修一はゆっくりと華奢な作りのグラスをテーブルに戻した。

 「チェロってエロいよな。弾いてる姿がたまらん」

 「そんなことを考えながら聞いていらっしゃったんですか?」

 呆れた、と千秋はため息をつく。

 「いや。だから見に行ったんだろ?」

 聞きにきた、をわざわざ見に来たと言い直した修一を思い出し、千秋は小さく笑った。

 「どうした?」

 「いえ……お忙しいのに奇特な方だなと改めて思いまして」

 「奇特か。まぁ、お前ほどじゃないけどな」

 「私ですか?」

 「ああ。そりゃそうだろ。別に秘書じゃなくても、お前は自分の仕事ができる。今日車できただろ?運転手に後でここまで来てくれって連絡するのも俺には面倒くさかった」

 「ご自分でなさったんですか?」

 後で代行の手配を依頼しようと思っていた千秋は意外そうに修一を見た。

 「ああ。今日はそういう主旨の会だ」

 「私の、慰労、ということですか?」

 「まあ、ある意味な」

 ありがとうございます、と笑った千秋に修一は少し照れくさそうに、たまにはなと言った。

 しばらく他愛もない会話を交わした後、千秋は社長、と呼びかけた。

 「私がこの会社に来た時のこと、覚えていらっしゃいますか?」

 「何だ急に?」

 「私を奇特だとおっしゃいましたよね。同じことを言われたなと今思い出したんです」

 前菜に合わせた白ワインを飲みながら、何の話だと修一は首を傾げた。

 「私は、大きなことをしている人が好きなんです。自分で自分の為に仕事をすることもできるんでしょうが、自分より大きな仕事をできる人間の役に立つ方が、やりがいを感じるんですよ」

 「それで俺を酷使するわけか」

 なるほどと頷いた修一に千秋は笑う。

 「そうです。私の力は社長の力です。余すことなくお使い頂ければ本望です。採用面接の時も、確か同じようなお話をした気がするんですよ」

 「ああ。そうだったな。面白いことを言う奴だと思って決めたんだ」

 「そうでしたか」

 千秋は微笑んで大ぶりのワイングラスを軽く揺らす。

 「これからも頼むぞ」

 「改まってどうされたんですか?」

 驚いたのか動きを止めた千秋に見つめられ、修一は居心地悪そうに視線を反らした。

 「そういう主旨の会だって言っただろ?」

 「そうでしたね。こちらこそこれからもよろしくお願いします」

 ああ、と頷いた修一に千秋は微笑んだ。

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