第8話

 チェスボードの前でじっと考え込んでいた一馬かずまは、自ら白のキングを倒して降参の意志を示した。

 「ダメですね。やっぱり俺には勝てません。どう考えても隆生さんの次の手でチェックメイトです」

 若い秘書はそう言って立ち上がった。

 「コーヒー、淹れてきますね」

 「ありがとう」

 隆生と目が合うと少しはにかんだように微笑む。それは、若い人間特有の表情なのかもしれない。隆生は不意にそう思った。懐かしい面影。千秋も昔はよくそんな顔をして見せた。

 隆生はチェスボードに残っていた黒いクィーンを手に取った。一つの動きしか許されない他の駒とは、役割も存在感も全く違う最強の駒。千秋はクィーンの使い方をよく心得ていて、チェス自体も上手かった。しかし、結局一度も自分に勝つことはなかった。そしてこれからも、勝つことはないだろう。

 千秋に会ったのは、何年ぶりだったか。千秋はこちらに気付かなかった。多くの人間が集まっていたパーティーの広い会場で、けれど遠目にも、隆生にはすぐにわかった。

 かつて手に入れ、手放した存在は、しばらく見ない間にずいぶん成長し、洗練されていた。表情や仕草には一切無駄がなく、まっすぐでしなやかな立ち姿はただ美しかった。

 傍らにいた男は、彼の現在の上司だろう。ずいぶん若いようだったが、自信に満ち溢れ、策略を楽しむような知的で傲慢な目をしていた。

 それぞれに目があった相手と一人ひとり挨拶を交わしながら離れ、けれど気がついた時には共に並び立っている。互いの立場を理解し、距離を理解し、そうあることが一番自然だと知っているかのような絶妙な立ち位置に二人はいつも戻る。

 そんなことに気がついた人間はきっと隆生の他にはいなかっただろう。

 隆生がそれに気がついたのは、その距離の、微笑みの、声の、存在の、千秋がそこにいることの心地よさを、確かに知っていたからだった。

 「どうぞ」

 「ありがとう。いい香りだ」

 手渡されたカップに口をつけ、隆生は目の前の若い男を見た。憧れと微かな怯えが、綺麗なアーモンド形をした目に潤んだような光を与えている。

 「美味しいよ。上手くなったね」

 「よかった」

 見覚えのある表情で、彼は微笑んで目を伏せた。

 「一馬は、もうチェス飽きた?」

 隆生がクィーンを元の位置に戻しながら尋ねると、一馬は顔を上げて首を横に振った。

 「飽きないですけど、全然勝てないから……隆生さんの方がつまらないでしょ?」

 「そんなことないよ。だったら、ハンデあげようか」

 「ハンデ?」

 そう、隆生は頷き、黒のクィーンをチェスボードの外へ置いた。

 「僕はクィーンなしでいい」

 「本当に?」

 「いいよ」

 一馬は嬉しそうに全ての駒を元の位置に戻した。最強の駒なしではいくら隆生でも苦戦するはずだと思っているのだろう。

 それでも隆生には勝算があった。クィーンの動き方は、確かに最も大胆で最も自由だと言えた。しかし、周囲の駒の配置によっては、様々な制約が生まれ、本来取りたくない動きを選ばざるを得ないような状況を作り出すことはできる。

 クィーンを駆使して一気にキングを追い詰めるより、相手から自分の手の中に入り込んでくるような展開が隆生は好きだった。

 攻めているつもりで追い詰められ、逃げているつもりでさらなる深みにはまる。気付いた時にはもう、挽回の余地さえない。

 何故これほどはっきりと相手の考えが読めるのか、昔は不思議に思ったことがある。けれど、その答えに隆生はある日気付いた。

 自分は、相手と同じプレイヤーとしてゲームに興じているわけではない。最初からチェックまでのシナリオを描き、その通りにゲームを導いているだけなのだと。

 「始めようか」

 勝ち目のないゲームがあることを知っている人間はそれ程多くない。それでもこうして、自分の描くシナリオに狂いはないか時折試してみたくなる。結果は変わらない。それは挑戦でも賭けでもなく、確認と呼ばれる作業なのだろう。

 楽しそうにポーンを手にした一馬を隆生は優しい眼差しで見守った。

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