第6話
指の節でドアを3回ノックするのは千秋の癖のようだった。高くて軽いリズミカルな音。失礼しますという声を聞く前に誰が部屋に来たのか、修一にはわかるようになっていた。
「おはようございます、社長」
「ああ。おはよう」
いつも通り一縷の隙もない立ち姿だった。上目づかいに千秋を見てから修一は再びPCに目を落とした。
「飯田部長から早速お礼のメールが来た。それに、今回の契約だが、こちらの条件を全て飲んでくれるそうだ」
「それはよろしゅうございました」
感情のこもらない千秋の声に修一は顔を上げた。
「ただ、お前をいずれ出向させて欲しいそうだ」
「ご自身の下に、ということですか?」
「ああ。嫌か?」
「会社員ですからね。正式に辞令が出るのであればお断りする理由はありませんが」
部下や他の役員からは鉄面皮と恐れられる有能な秘書はにこりともせず手にしていた書類を修一のデスクに置いた。
「捺印申請が届いておりますので、お早めにご確認ください」
書類に触れていた手を修一がとると、千秋は表情を変えず、何か?と尋ねた。
「怒ってるのか?」
「何をです?」
「俺には一つしか心当たりがないが」
「いささか、少なすぎるかと思いますが」
「怒ってるじゃないか」
千秋の手は離さず、修一はゆっくりと立ち上がる。
「悪かったよ。お前の好みじゃないってことは、さすがに俺でもわかった」
40後半にして完全にグレイヘアの飯田だったが、スタイルはよく、日焼けした肌も似合うスポーツマンタイプの男だった。遊び慣れたイタリア人のような雰囲気でもてる方なのだと想像はついたが、その自意識が逆に鼻についた。
両肩を包み込んできた修一を、ガラスの下の目を細めて千秋は見返す。
「そういう話をしているつもりはありません。後は慶さんにでも引き取ってもらって下さい」
「ああ。わかってる。悪かった」
懐柔するように優しく自分を抱きしめる修一に、社長、と千秋が低い声で呼びかける。
「心にもない謝罪の言葉でしたらけっこうです」
「お前は本当に厳しいな」
小さく笑って修一は千秋の首筋に唇を寄せる。
「今夜は予定がないだろ?何か旨いものでも食いに行こう。お前の好きなところでいい。どこでも予約してくれ」
千秋の尖った眼差しを正面から受け止めながら、修一はその唇を静かに奪った。たまらない程巧みで甘美なキスを、飯田も昨日は堪能したのだろうか。
なぁ、と修一が千秋の目を覗き込んだ。
「どこまでさせてるんだ?」
「ケースバイケースですよ」
千秋はため息をつきながら修一の胸を押した。
「昨日は?」
「面倒なことにならないように対応したつもりですが」
修一に掴まれた手を上げて、離して下さいと千秋は冷静に告げた。
「寝たのか?」
「そういう詮索は悪趣味ですよ」
冷めた目で自分を見る千秋が何を考えているのか修一にはわからなかった。いつも冷たく取り澄ました千秋がベッドで乱れる様は思い出すだけで鳥肌が立つ。それを飯田や他の男も知っているのか……。
「元はと言えば俺の知らないところでお前が勝手に始めたんだろ?」
微かな苛立ちを修一の声に千秋は感じた。修一の感情はいつもストレートだった。本人に悪気はないし、すぐに忘れてしまうあっさりした性格ではあるが、機嫌の悪い時には社員が手を焼いているのも事実だった。またこの人は、と千秋は内心ため息をつき、ゆっくりと口を開いた。
「最初から何か意図があったわけではないですよ。ただ、降りかかってきた火の粉を穏便に払った結果ですし、社長や会社には迷惑のかからない方法を選んでいるつもりです。そろそろ幹部定例が始まりますが」
さりげなく壁の時計に目を移し千秋は修一を促した。渋々手を離した修一が口を開くより早く、今夜はと千秋が言った。
「神楽坂にしましょうか。私も久しぶりに飲みたいので車を手配しておきます。十九時に予約いたしますので最後の打ち合わせはそれに間に合うように終わらせて下さい」
「わかった」
機嫌を直したらしい修一はモバイル端末を手に部屋を出ていった。無駄話のせいで捺印がもらえなかった分は、修一のランチタイムを削って対応してもらうしかないと思いながらデスクを見る。今日は午後から出版社の創立記念パーティーへも出席しなければいけない。店の予約は少し遅らせよう、そう決めて千秋は社長室を出た。
「千秋」
「江島さん」
修一とともに出席したパーティーの会場で、千秋は以前の上司でもある江島屋社長、江島政彦と出会った。
「まだあの坊やのところにいるのか?」
千秋の肩越しに、生意気そうな若者が彼の父親ほどの年齢の男から挨拶を受けている。自信と才気にあふれた強い眼差しが、昔の弟に似ていると江島はその時思った。
「坊や、ですか」
江島の言葉に千秋は微かに目を細めた。千秋の端正な顔から読み取れる感情は数少ない。それでも、うっすらと漂う微笑みの中には負以外の感情もいささかは含まれているようだった。
うちに戻ってこないかと、江島は熱心に千秋を口説き続けていた。大学を卒業後、新人研修を受けていた頃から、千秋の飛び抜けた優秀さには気づいていた。
「楽しいんだな。彼の下が」
「どうでしょうか。どこにいても、仕事は同じですよ」
「だったらうちでもかまわないだろ?」
子どもじみた江島の口調に千秋は少しだけ笑った。
「老舗の商社です。人材難だなんてことはないでしょう」
「結局、離れたくないんだろ?」
江島の目がまっすぐに千秋を見つめた。
「離れたくないのは、あの坊やからか?それとも彼の会社からか?」
何をと言いかけた千秋を江島は遮る。
「それで、お前は幸せなのか?」
周囲を憚った江島の低い声。
「……」
「もう、あいつの時のようなこと、俺はごめんだ」
「江島さん」
咎めるような悲しげな千秋の声に、江島は手元のグラスに視線を落とした。
「すまない。だが、心配なんだ。もう、親心みたいなものだと、自分でも思う」
「いえ……江島さんに謝って頂くようなことは、何もないんです。確かに、私は鷹取が好きです。経営者としても、一人の人間としても。だから、彼の下にいます。それは本当です」
「それ以上の関係じゃない、そう、言い切れるのか?」
千秋を真っ直ぐに見詰めた江島。それはと千秋が視線を揺らした。
「あの時とは、違いますよ。私も、もうそんなに若くありません」
寂しげにも見える微笑が、口元と強張った目元に漂う。
また無理をしているのだろう。江島は千秋の顔を見ながら内心ため息をついた。
千秋は自分の欲望や痛みに対して鈍感な人間だと江島は思っていた。逆に言えば、他人の欲望にはひどく敏感だ。空気を読むのが上手いし、相手の考えを読んで必要な物を先に差し出すことができる。そういう人間は確かに会社には必要だし、上司にとっては理想的な部下であり、秘書だと言える。けれど、いったんビジネスの場を離れると、千秋はひどく不器用になる。他人の感情にはよく気がつくのに、自分が感じているものを掴むのが上手くない。
そして、行き過ぎてから気付く。自分が傷ついていることに。望んでもいなかったことで、何かを損ねてしまったことに。
「まぁ、どこにいてもやりがいを見つけられるかどうかは自分次第だからな。ただ、いつでも歓迎される場所があるってことは忘れるなよ。いつでも、困ったことがあれば連絡してこい。いいな?」
短くため息をついた後、江島が告げた言葉に千秋は驚いたように顔を上げた。そして、強張った表情を溶かすように微かに柔らかく笑う。
「ありがとうございます」
「また今度、ゆっくり飲みにでも行こう」
「ええ、喜んで」
自分の上司の姿を見つけた千秋は、失礼しますと江島に会釈し、足早にその場を離れた。その後ろ姿を追いながら、千秋と隆生の関係を知った日のことを江島は苦く思い出した。
「千秋……」
江島はその場に居合わせた相手の名を茫然と呟いた。
「兄さんにあげるよ」
悪戯を思いついた子どものような声でそう言った隆生。
一人で行ってくれと頼まれ、向った部屋にいたのは千秋だった。そして、やっと全てを悟る。
千秋は驚いてソファから勢いよく立ち上がった。
何故、と千秋の唇が震えるのを江島は確かに見た。
「そうですか」
自分の知る全てを伝え終えた後、千秋は取り乱した様子もなくそう呟いて静かに頷いた。けれど、不意に顔をそらした千秋の頬を、一筋涙が流れた。後にも先にも千秋が泣いたのを見たのはそれ一度きりだった。
しばらく声もなく泣いていた千秋がそっと自分の胸を押した。
もう大丈夫だと俯いたまま告げられた時、江島の胸がひどく痛んだ。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
千秋は立ち上がるとそう言って深く頭を下げた。
「失礼します」
その表情を垣間見ることはほとんどできなかった。千秋が去った部屋でしばらくいろいろなことを考えたが、結局隆生に対する怒り意外に理解できる感情が見つからなかった。
どういうつもりだと電話越しに聞いた自分に隆生は笑った。
「千秋が、好きだったんじゃないの?聞いてたよ。兄さんの会社の人から。ずいぶん可愛がって育ててるって」
「そんなことは関係ないだろ」
何を怒ってるの?電話越しに隆生は笑ったようだった。怒りは込み上げたが、昔から弟はこういう人間だったと、既に諦めてもいる。
「ばかばかしいから嫌だったんだけど、来月、家族で雑誌に載ることになったんだ。結婚してること、千秋には話してなかったし、知ってる人間にも口止めはしてたんだけど、メディアに出たらきっと、遅かれ早かれ耳に入るだろうと思って。傷つく顔、見たくないしね」
「お前は……」
だから俺に見せたのかと江島は受話器を握る手に力を込めた。
「惜しいけど、千秋のことは好きにしていいよ。まぁ……仕方ないね」
「仕方ない?何が仕方ないっていうんだ?」
「全部だよ」
全部、と繰り返した声には微かな愉悦さえ漂う。
「僕にとっても千秋は特別だった」
未練など感じさせない声で隆生は言う。
それは過去だと、懐かしく振り返るように。
「もう抱いたの?」
「いい加減にしろ」
自分をからかうように電話越しに笑い声が響く。
「兄さんは、真面目すぎるんだよ。もっと自分の気持ちにも欲求にも素直になればいいのに」
「俺がいつそんなことを言った?」
「言ってはないんだろうけど、見てればわかるよ。千秋を初めて会わせた時から、気になってたんだろ?別に恥ずかしいことじゃないよ。僕のものだから、我慢してるんだろうと思ってたけど、それだけじゃないみたいだね」
数年前、この子たちを江島屋で育てて欲しい、そんな依頼を隆生から受けた。幹部候補にしたいが、社内の人材育成制度が整っていない、いずれ全員自分の会社に引き戻すつもりだと隆生は当時江島屋の副社長だった政彦に頭を下げた。珍しいこともあると思ったが、隆生が一から今の会社を築き、育て上げたことは知っていた。父の遺言で不平等に配された遺産にも文句ひとつ言わなかった弟の願いを撥ねつけることは気が引けた。何より兄弟仲が決していいとは言えなかった弟に頼られているということは嬉しく感じられた。そこで引き受けたのが千秋を含む五人の学生だった。いずれも優秀だったが、千秋は周囲が驚くほどよくできた。公にはされなかったが、千秋は隆生の秘蔵っ子であることは周りの噂から知ることができた。
それが、こういうことだったのかと江島は憤りを覚えた。
「もう二度とお前の頼みはきかない」
悔しさを滲ませそう告げた兄に弟はいいよと事もなげに応じた。
「僕の方から頼みたいこと、たぶんもうないから。それじゃ、今日はどうもありがとう」
電話は一方的に切れた。
それから一月ほどして、千秋は江島屋を退職した。在籍していた経営企画室からは慰留して欲しいと強く要請されたが、全ての事情を知っている自分の近くにいることは辛いだろうと千秋の申し出を受け入れた。
あれから千秋がどんな思いで過ごしてきたのかは知るすべもないが、自分と連絡を取ることを拒否するわけでもなく、時折近況を知らせてくれるのは嬉しかった。
また辛い思いをしなければいい。江島はそれだけを願っていた。
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