第4話
日本未進出の海外ブランドと独占契約を結ぶのはなかなかに骨の折れる作業だった。会社のトップ同士の話し合い、現場レベルでのディスカッションなど、得られるリターンを考えても大変な時間と手間がかかる。売り手も今後の日本展開を考え、慎重にならざるをえないのだろう。今回何とか話をつけることができたのは、ネットだけではなく、都内でも話題性が高い商業施設内にショップを出店することが決まったからだった。
商業施設のファッションテナント事業部長を相手に、修一は今回の交渉をまとめてくれた礼を言った。
「
「いやいや。先方も御社の存在はご存知でしたし、よりいい条件をひっぱろうと多少ごねて見せた部分もあるんでしょう。うちとしても初出店のテナントはありがたいですよ。今回はいい取引でしたよ」
酒を酌み交わしながら一見和やかに会食は進んでいたが、修一にはまだ懸念があった。
「あとは、ネット販売と店舗販売の在庫を共有する際の優先権をどうするかということと、プロモーション費用負担ですね」
飯田の言葉に修一は頷いた。ネット販売での在庫を優先的に確保できないと出店に投資した意味がなくなってしまう。長い目で見れば回収できる可能性はあるが、できればこちらに有利な条件でまとめたかった。勿論、相手もそう考えているはずだが、交渉が長引けばその期間のコストもかさむ。
互いの腹を探り合うような沈黙を破ったのは、失礼いたします、という声だった。襖が静かに開くと、そこには千秋が正座していた。
「そろそろお車の手配をさせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか」
「そんな時間か」
修一は、わかったと告げ千秋を下がらせた。
「まだご相談させて頂きたいことはありましたが、また別の機会にいたしましょう」
そうですね、と頷いた飯田はそれにしてもと、修一を見た。
「深澤さんがあまりにお美しいので、初めてお目にかかった時は驚きましたよ」
飯田の言葉を否定はせず、恐れ入りますと修一は微笑む。
「非常に有能な方とお噂は伺っておりますが……プライベートでもパートナーでいらっしゃるんですか?」
好奇と嫉妬に光る男の目を修一は微笑んだまま見返した。
「まさか。確かにプライベートな時間まで管理されているのは事実ですが、あくまで彼は秘書です」
「そうでしたか。それは失礼を」
「とんでもない。もしよろしければ、お帰りは深澤に車を運転させますので、お送りさせて頂けないでしょうか」
あくまでも低姿勢に、優雅に微笑んだまま、修一はそう提案した。
ファッション業界や美容業界には、自分と同じ人種が実に多いと修一は思っていた。IT側の世界にも勿論一定数はいるのだが、ゲイやバイセクシャルであることが受け入れられやすいのは圧倒的に前者の方だった。
最初から色仕掛けでどうこうしようという気はなかったが、最後の一押しが必要な時、千秋の存在は大きかった。普通の女性にも受けはよかったが、その筋の男はたいてい千秋に興味を示す。与えるつもりは毛頭なかったが、餌としてちらつかせる分には絶大な威力があった。
「よろしいんですか?」
「ええ。時々私のドライバーも勤めますから、運転は上手ですよ」
愛車の小型ベンツを飯田に譲り、お気をつけて、と別れを告げた修一に、飯田は機嫌よく、鷹取さんもと会釈した。
千秋は修一に目礼すると運転席に乗り込み車を発進させた。
真っ直ぐに帰る気にはなれず、修一はタクシーに乗るとすぐ、夜更かしが好きな友人に電話をした。友人は彼の自宅の近くのバーで飲むことを条件に、付き合うことを了承してくれた。
修一は何度か訪れたことのあるショットバーで見慣れた顔をすぐに見つけた。
「今日はどんな懺悔に?」
いつものキャソック姿ではない、ネルシャツにデニムというカジュアルな装いで、
大きな目が小動物のような印象を与える、同じ年齢とはとても思えない、愛くるしい少女のような顔立ちの男。行きつけの店でなければ年齢確認をされることがあると言っていたが、修一には冗談とも思えなかった。
「悪いな急に」
修一が席に着きながらそういうと潤は楽しそうに笑った。
「急じゃないことなんてないくせに」
「まぁな」
神父という職業についた古くからの友人は、いつでも笑っている。10年以上をかけ口説き続けているにも関わらず一向に落ちる気配はないが、修一にとって潤と過ごす時間は何の気兼ねもない楽しいもので、暇を見つけては彼の教会にも足を運んでいた。
「修一、けっこう鈍いよね」
他愛もない話をずいぶんした後、潤は千秋のことを修一に尋ねた。驚いているのか。潤の目がいつもより丸く大きく見えた
「姦淫は勿論ダメだよ?個人的な見解は違っても。まぁ、それはいいとして、やっぱりできないんじゃない?いくら自分のボスだからって、それだけで同性に体許すとかって」
そんなこともわからないのか、そういうように潤は笑った。
時折、修一を送ってくる深澤という秘書のことを潤は思い出した。冷たく整った美貌の持ち主で、仕草にも一切の無駄がない。二人で話をしたことはほとんどなかったが、潤は彼が気に入っていた。
気に入っている、あるいは気になっていると言った方が正しいのか。完璧さの中に、どこか危うさがある。どこかで、何かを諦めてしまった人間特有の、薄い影のようなものに包まれている。絶望を通り越して、達観してしまった人の、乾いた痛みを、深澤千秋は知る人間だと思われた。
「ひどいことしてるんじゃないよね?」
念のため、友人にも確認しておくことにする。
「まさか」
修一は肩をすくめる。わがままな人間ではあるが、根は悪人ではない。性善説に基づかなくてもそう判断する自信が潤にはあった。
「なら、いいんだけど」
「何だよ?」
物言いたげな潤の口元に修一は眉を顰める。
「僕は千秋さんのことよく知らないけど、修一はわかってる?」
「千秋のこと?」
そう、とグラスを取りながら潤は頷いた。
「あの人、たぶん、辛い経験してると思うよ」
「そんなもん誰だってしてるだろ?」
「そういうことじゃなくて……何て言うかな。何も信じられなくなるような、何もかも諦めたくなるような、そういう経験ね。だから、今さら何にも傷つかない、千秋さんはそういう人間の目をしてる」
「千秋が?」
確信を持って潤は頷いた。
「修一も知らないんだ」
「ああ」
そんな風に千秋を見たことはなかったとグラスを口元に運びながら修一は思った。しかし、そう言われてみれば千秋にはどこか投げやりなところがあるような気はする。仕事は常に完璧にこなすし、言動にも隙がない。これまでたくさんの人間と会い、何百人もの人間を動かしてきたが、千秋の能力は特出していた。だからそれほど気にならなかったのかも知れない。千秋は他の人間と違う。そういう漠然としたイメージの中で、何か大切なことを見落としていたのかも。
千秋は自分自身に対して、自分の人生に対して、どこか冷めている。どんな状況でもあまり感情を露わにしないし、動揺を見せることもない。
たった一度、初めて千秋を抱いた時、あの夜だけは少し違っていた。あれは、千秋の昔の男の話をした時だ。初めて見せる悲しげな顔で、それ以上話したくはないと千秋は言った。
「何か、思い当った?」
「いや。腹を割って話すってこともあまりないからな」
「そうなの?」
「ああ。お互い割り切ってるんだ」
「あんまり、いい意味じゃなさそうだけど」
気付いているのか、少しだけ目を細めるように潤はじっと修一を見つめた。
「あいつもそれで納得してる」
「納得ね」
目を反らして潤は微かに笑う。
「何だよ?」
責められているような居心地の悪さを修一は覚え、落ち着きなくグラスを手の中で揺らす。
「まぁ、こういうのって部外者が口出しすることじゃないしね。だけどあんまり傷つけるようなことしちゃダメだよ」
子どもに言い聞かせるように潤はそう言って話題を打ち切った。
修一は少し安堵してグラスを空け、同じものをオーダーした。店員にグラスを渡す修一を何気なく見ていた潤が、そう言えばと口を開いた。
「こないだ、面白い人と知り合いになったよ」
「面白い人?」
「そう。僕がたまに勉強教えに行ってる養護施設があるんだけど、そこに寄付してくれてる人が、実はけっこう有名な会社の社長さんで」
へぇ、と新しいグラスを受け取りながら修一は大した興味も示さずに頷いた。
「まぁ、ありそうな話だけどな。人間使いきれないほど金を持つと最終的に社会貢献とかし始めるだろ?」
よくある話だと修一は呟く。そして
「言っとくが、俺だって少しはしてるんだぞ?周りに言わないだけで」
「わかってるよ」
拗ねることはないのにと潤は思わず笑った。多くの人間を導き、引っ張っていく立場にあるくせに、どうしてこの友人は大人に成りきれないのだろうと微笑ましい気持ちになる。自分が出会ったあの人物にも、意外にそういう面はあるのだろうか。そんなことを考え、それはやはりなさそうだと潤は打ち消した。
「その人さ、初対面で、僕のこと、篠森さんは悪い人でしょって言ったんだよ」
「お前に?」
そう、と潤は大きく頷いた。
昔から天使のように可愛いと言われ続けながら育った男は、気を悪くした様子もなくそれでさ、と続けた。
「そんな風に見えるのかって聞いたら、そうじゃなくて自分と同じ臭いがするから、って言われたんだよね」
どう思う?真顔でそうきいた友人に修一は思わず噴き出しそうになった。
「どう思うっていうか、それ単に口説かれただけだろ?美人を美人扱いしないとか、賢いやつをバカ扱いするとか、それまでそいつが受けたことないような扱いすることで、気持ちを引きつけるなんて。詐欺師の常とう手段だろ」
「まぁ、さすがに詐欺師じゃないとは思うけど。僕ネットとかって全然詳しくないけど、修一なら絶対知ってる会社だと思うよ。何だっけなぁ……。忘れちゃったけど、とにかく変わった人だなぁって思ったんだよね」
今まで一度も危険な目にあったことはないと言い切る潤だが、ただ本人が気づいていなかっただけどいう可能性もあるなと修一は思い至った。そういう奴には気をつけろ、そう言おうとした時、潤がにやにやしながら自分を見ていることに気がついた。
「何だよ?」
「やっぱり社長って変人多いんだね」
「お前が言うな」
脱力感を覚え、それから何だかおかしくなって修一は笑った。潤といる時間は、他の誰と過ごすものとも違う。学生時代に戻ったようだと感じた時、自分が明日からまた取り組まねばならない問題を思い出してしまった。
あくびをした潤に眠いかと修一が声をかける。
「いい人間はそろそろ寝る時間だね」
天使のような三十男はそう呟いて笑った。
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