第3話
「お前、コーヒー淹れるの上手いよな」
「え」
新聞を片手にコーヒーを飲んでいた修一が不意に顔を上げた。どこにあったのか、昨日はどれだけ探しても見つからなかったネクタイを首から下げている。
「前から思ってたんだ。俺が自分で淹れるより、何て言うか、まとまった味がするんだよな」
「そうですか」
「好きなのか?」
「ええ……。自分一人の時はわざわざ淹れたりしませんが。淹れ方を、昔……詳しい人に教えてもらったんですよ」
「へぇ。まぁ、適当に淹れた感じじゃないもんな」
修一はまた新聞に目を落とした。
自分ではドリップコーヒーなど淹れないし、コーヒー自体それほど飲みたいとも思わない。ただこうして淹れる時になればやはり、昔教わったやり方を守りたくなる。
「コーヒーはこうやって淹れるんだよ」
慣れない手つきでフィルタに湯を注ごうとしていた千秋の手を隆生が取った。
「真ん中にお湯を置くようにするんだ。ゆっくりね。端の方にはにはなるべくかけないようにして」
「はい」
隆生に手を握られたまま、千秋はフィルタの中を見つめた。隆生がコーヒー好きだというのは知っていたが、自分で淹れる時にもいろいろなこだわりがあることまでは知らなかった。
「だんだん中心から膨らんでくるから、しばらくそのままにしておいて。馴染んだらこうやってのの字を書くようにお湯を注ぐんだ」
ゆっくりと、湯を注ぎ入れた後、隆生はそっと千秋の手を離した。
「やってごらん」
千秋は慎重な手つきで隆生に教えられた通りにした。
「そう。コーヒーが泡立ってきたら少し大きく動かしていいよ。端にはかからないようにね。雑味が強くなるから」
「はい。淹れ方で、味ってそんなに変わるんですか?」
隆生の指示に従いながらも半信半疑で千秋はドリッパーから隆生へ目を移す。
「うん。変わるよ。沸騰したてのお湯で入れるとそれだけで苦くてさっぱりした味になるし、少し冷ましてから淹れると甘くて重たい味になる」
「へぇ……」
「世界一のコーヒーが淹れられるようになるまで、いくらでも練習していいよ。豆もフィルターもたくさんあるから」
千秋の頭を優しく撫でて、隆生は囁いた。いつでもここに来ていいのだと、そう言われたようで千秋は嬉しかった。
「初めてにしては美味しく淹れられたね」
千秋が入れたコーヒーを一口飲んで隆生は笑った。
「よかったです」
「家に泊まった日は、千秋がコーヒー淹れてくれる?」
「はい」
「毎日でもいいよ。楽しみだ」
隆生が笑う。ここでしか見せない子どものような無邪気な顔で。自分しか知らない隆生の表情や、生活。それに触れられることが嬉しかった。隆生を喜ばせることができるなら何でもしたかった。そうして、コーヒーの香りは自分の中で、幸せの香りになっていた。あの日から、隆生の為に何度コーヒーを淹れたかわからない。その度に隆生は微笑んで自分を褒めてくれた。
「……」
ばかばかしい。
香りと音の記憶は容赦なく蘇ってくるというのは本当だと、フィルターをゴミ箱に捨てながら千秋は思った。幸せの残り香みたいなものが、自分を感傷的にさせている。そう気付いた。
「どうした?」
「いえ」
何に対してか小さく笑った千秋を修一は見とがめたが、顔を上げた千秋はいつも見慣れた無表情に戻っていた。
「そろそろよろしいですか?」
記憶を遠くへ押しやるように千秋は時計を見た。
「ああ。もうそんな時間か」
修一は新聞を畳んで腕時計に目を落とした。
「お前が家にいると助かるな」
「いなければいないできちんとできるんですから。あまり甘えないで下さい」
修一が使ったカップを片付けながら千秋はため息をつく。子どもじゃないんですから、という声が微かに聞こえた。
修一は振り向いてキッチンでカップを洗う千秋を見た。朝から一分の隙もない立ち姿だった。数時間前まで自分に抱かれて乱れていた人間と、とても同一人物とは思えない。
「ネクタイ曲がってますよ」
部屋に戻ってきた千秋は細かい指摘を忘れず、置いてあったカバンを手に取った。
「信じられないな」
「何がです?」
修一の言葉を聞き咎め、千秋は少し苛立ったように動きを止めた。その厳しい眼光に修一は肩をすくめた。
「いや。お前はオンとオフがはっきりしてて凄いなと思っただけだ」
「社長も少しは切り替えをつけて下さい」
「そうだな。まぁ、つけるタイミングがな。いつだ?服を着たらか?」
言いながら自分の腰に手を回そうとした修一にカバンを押しつけ、行きますよと千秋は短く言った。それが促しではなく、命令だということを既に理解していた修一は大人しく千秋に従うことにした。
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