Ⅳ
ガバリ――上にかけれていたシーツを蹴り飛ばして、ニーアは身体を起こして周囲を見回した。
「おヤ? 随分早いお目覚めですネ?」
大量の書物に埋もれていたヴィルヘイムが、起きあがったニーアを見て驚いたよ
うに眼を見開いた。と同時に、ニーアがその胸元に手を伸ばして引き寄せて叫ぶ。
「どういうつもりだ、ヴィル!」
「というト?」
ニーアの問いに、とぼけたように首を傾げるヴィルヘイム。
「とぼけるな! 麻酔まで使って人を眠らせた理由を聞いてんるんだよ!」
我鳴るニーアに、ヴィルヘイムはわざとらしいため息を漏らし、呆れた様子で口を開く。
「だって貴方、三十二階層の事件からほとんど寝ていないでしょウ?」
「それとこれと、一体何の関係がある?」
まるで今すぐにでも喉元に喰いかかろうとする獣のような視線でヴィルヘイムを見るニーアに、彼は本当に呆れたのだろう。普段柔和な笑みを絶やさない彼の表情から、その笑みが瞬時に消えた。
「その結果が現状を引き起こしたという事実ニ、貴方は本当に気づいていないのですカ?」
「――ぐっ!?」
ヴィルヘイムの言葉に、ニーアは息を呑んだ。そんなニーアに、ヴィルヘイムはまくしたてるように、あるいは責めるように言葉を続ける。
「君の連れのお嬢さんが心配だったのは分かりまス。ですが、それを理由に自身の体調管理を怠リ、本来ならばいつ意識を手放しても可笑しくないほど疲弊しているにも拘らズ、そこで無理をおして警戒を続ケ、その結果貴方はほとんど戦えないほどまで衰弱していタ」
矢次に吐き出されるヴィルヘイムの言葉に、ニーアは何も言い返すことが出来ずただ悔しげに顔を顰めることしかできなかった。
いつの間にかヴィルヘイムの襟元を摑んでいた手は解け、だらりと垂れさがっており、逆にヴィルヘイムのほうがニーアの襟元を摑み上げ、その瘦身からは想像できないほどの膂力でニーアを摑み上げる。
「本来ならば貴方は『騎士団』になど出し抜かれるはずがないのでス。如何にベオルフ=クロウの腕が立ったとしてモ、一撃で貴方が退けられるはずがないのですかラ」
「だが現実に、俺は奴に負けてんだよ! オッサンにも、そしてあの轟の野郎にもだ!」
そう。現実に、ニーアはベオルフの剣の一撃でほとんど戦闘不能に陥り、挙句轟の刃で本来ならば致命傷を負っていたのだ。
たとえ他人がどう自分の腕を評価しようと、結果が現実にある以上、ヴィルヘイムの言葉はただの慰めに過ぎない。
だが、
「貴方の実力ハ、麗愛も私もあなた以上に理解しているつもりでス。
――だからこソ! 貴方はあのような事態の最中、常に万全の態勢でいれバ、今あなたが此処にいることもなク、たとえ敗れたとしても麗愛が到着するまでの時間は稼げたはズ! そうすれば、少女は二人に拿捕されることもなかっタ! それなのニ、貴方はその可能性を自分の意地で潰してしまったことが分からないのですカ!」
「うるせぇ!」
その叱咤に、ニーアは奥歯を軋ませて声を荒げた。
その通りだった。ヴィルヘイムの言う通りなのだ。あの時、ニーアはほとんど眠ることなく神経を張り詰めて、常時緊張状態を保ち続けていた。いや、無理やり保っていたのだ。
ほんの一瞬でも気を抜けば、それだけですべてが無に帰してしまうような予感に、恐怖に駆られて――眠ることを恐れ、意識を途切れさせることを恐怖して、ニーアは頑ななまでに気を張っていた。
それが意味のないことだと分かっていながら。それでもニーアは半ば意固地になって休まずにいたのだ。
「……もう、あんな思い……したくないんだよ」
脳裏に蘇るのは、あの日の記憶。博士と離別したあの刹那――耳に、僅かに聞こえていた轟の笑い声。
その景色が垣間見えるたびに、耳に轟の笑い声が聞こえるたびに、それが再び回帰することがどれだけ恐ろしかったか。
「守りたかったんだよ……俺の周りにある――俺を取り巻く……世界を」
うつむくニーアに、ヴィルヘイムは問う。
「それで結局――貴方はそれを守れたのですカ?」
無慈悲な、残酷な問い。
そんな質問に意味はない。答えが分かり切っているといは問いではない。ただの確認。それをニーア自身に再確認させるための言葉。
ニーアは答えない。答える意味すらないからだ。
答えなくとも、現状がその答えを克明に表していた。
ただ強く――強くニーアは拳を握り締める。爪が手の平に食い込み、血が滲み――痛みを生じさせる。
だがそんな痛みは、痛みの内に入らない。
本当に痛いのは、その痛みを生み出す傷は、手の平よりもよほど深い所に出来ている。ずっと昔に負ったその傷は、今再び抉られて、新しい傷となりニーアを苛む。
そんなニーアから手を離し、ヴィルヘイムは踵を返して傍のデスクへと歩み寄ると、そこに置いてあった資料の束をニーアに投げ渡した。
反射的に、それを受け取って何気なく目を向けた。
『――《天上の御力》を転用した《
「なんだよ……これ?」
普段の彼からは想像もつかない力のない言葉に、ヴィルヘイムは嘆息しながら答えた。
「貴方を通して麗愛から頼まれタ、例のファイルの中身ですヨ。目を通すことをお勧めしまス。貴方がもう一度、轟と対峙する覚悟があるのならバ――いエ、あの少女を助けたいと願うのならバ……ですネ」
その言葉に、ニーアは僅かに逡巡した。
逆にいえば、逡巡したのは僅かだった。
「――決まってる」
そう、一言口にし、ニーアは思いっきり自分の頬に拳を叩き込んだ。
これには、流石のヴィルヘイムも両目を見開いて驚愕する。頬を叩いて気合を入れるのは見たことがあるが、一切のためらいもなく全力で自分の頬を拳で殴り飛ばすなど誰が予想するだろうか。
呆気にとられるヴィルヘイムをよそに、ニーアはその口元に不敵な笑みを浮かべて息を漏らした。自分の中に溜まったあらゆる鬱憤を吐き出すように。
そして、
「まだ間に合う――そうなんだろう? ヴィル」
「えエ――勿論でス」
ニーアの力の籠った言葉に、ヴィルヘイムは満面の笑みで応じて踵を返し、家の出入口へと向かっていく。
そしてニーアに背を向けながら、彼は弾んだ声音で言った。
「足を用意しまス。すぐに済ませますから、それまでに服、着替えておいてくださいネ。それを読むのはそれからでス」
言われて、ニーアは初めて気づいた。
自分の上半身が、包帯を除けば裸であったことに。
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