Ⅱ
三十二階層で起きた【マモノ】の出現という大惨事は、その翌日から瞬く間にTTB内を駆け巡った。それによって生じた情報の錯綜と、居住区各地で起きる暴動――そしてその真偽を問うべく塔民の多くが統括機関〈大樹の葉〉の総本部に押し寄せるという騒動にまで発展した。
絶対に安全と思われていたTTBへ【マモノ】が侵入し、それが大量に発生しただけではなく、大型のモノが複数――更には響律式を扱うという突然変異についてもあらゆる憶測が飛び交う中、〈大樹の葉〉からの発表は一切なく、彼らは黙秘を続けている。
最も、〈大樹の葉〉ですらこの事態は予想だにしていなかっただろう。確かにTTB内部の【マモノ】の現出に関しては長年黙秘し続けてきたが、これまで被害らしい被害もなく、塔に住む人間に被害が出ていなかった故の安心もあったのだろう。
それもまた統括機関の惰性と言われればぐうの音も出ない。
しかし、今回ばかりは〈大樹の葉〉も混乱に陥り、此度の件で話は持ちきりとなっていた。統括機関の重役たちは連日の議会に次ぐ議会で疲弊し、状況への対処と今後の行政や対応に関して長い時間をかけて論議している。
また、TTBの各部門の長である十二賢者もまた、現状への対応に追われていた。特にTTBの治安維持を任される『騎士団』は、連日生じる暴動の鎮圧などでほとんど休む間もなく出動の連続で疲弊の色を隠せないでいる。
ちなみに、この騒動で一番の被害を受け、更にはこの情報の漏洩となったコルプース・アカデミーはしばらくの間休校措置が施され、生徒のすべてはしばらく外出禁止令が命じられていた。
無用な情報が口々に流れるのを恐れた統制機関の措置だろうか。あるいはこの件を問題視したアカデミー側の措置かは分からないが、正直大した意味を成していないのは現状が物語っている。
そんな様々な問題の交差によって、現在TTBは未曽有の事態に陥っていた。
「とまあ……あとは似たり寄ったりの情報が錯綜してるな。皆が皆、これまで安全だと思ってたTTBが実は奴らの侵入を許し、大多数が住んでいる二十階層のすぐ下まで来てるとなりゃ――まあ、無理もないが」
「そうか……すまんなニーア。まともに動けるのがお前くらいしかおらん故に、こんな些細な仕事をさせて」
ニーアの説明に、麗愛は微苦笑を浮かべて椅子に深く座り直した。その表情は何処となく疲労の気配を漂わせている。おそらく、彼女もまたこの連日の騒動で【ザプリュッド】を総動員して動いているのだろう。
「別にいいさ……」
それが分かったからこそ、普段は当たり前のように口にする皮肉も悪態も鳴りをひそめ、ニーアはただそう一言だけにとどめて肩を竦め、自身もソファに腰を下ろした。
「どの道、いずれはTTBの安全性なんて瓦解するのは目に見えていたことだろ?」
ニーアのぼやきに、麗愛は僅かに目を見開いて驚く。が、すぐに納得した様子で肩を竦め、煙管を口に銜えて苦笑した。
このTTBという前世紀の科学の粋のすべてを注ぎ込んで建設した、おそらく人類上最大の建造物だろう。その構成や構築に用いられた技術も機材も、今の人類の力では再現することはほとんど不可能と言われている。故に、TTB全体の機能に何か問題が生じるような欠陥が生じた場合、これを修繕する力は今の人類にはない。
それ故にTTBの安全性というのはあらゆる意味で砂上の城とも、薄氷の上に立っているとも言えるほど――幾つもの欠陥が多く存在するのだ。
そのことを知っている人間など本当に極少数であり、この少年がそれを知っているという事実は麗愛を圧倒させるには十分だったが、彼女はすぐにその理由を理解した。
「そうか……聞いてるのじゃな、恭一郎に」
「まあ、ある程度は……な。だからあの人は、事あるごとに俺に言っていたよ。『大地を目指せ』って」
「なるほど、奴らしいな」
彼の育ての親――斑目=恭一郎は、TTBにあらゆる方面で精通している男だった。その彼に育てられたニーアが、TTBの問題点を知らされていないと考える方が難しいだろう。
麗愛の記憶の中にある恭一郎という男は、よくよく大地をこよなく愛する男だった。このTTBに移り住んでからも、事あるごとに大地への帰還を夢語り、そのための研究を行っていた。
そんな大地への帰郷を夢想する男に育てられたニーアは、その思想を色濃く受け継いでいると言っていい。故に、ニーアはTTBという存在を根底から快く思っていない節がある。
もっともニーアには個人で、大地に変える方法を常思索しながらも、このTTBにこだわる理由が多いので、今もこの地に留まっているわけだが。
ニーアが思い出しながら口にした言葉に、麗愛は楽しそうに笑い――煙管から流れた紫煙を吸い間違えてむせ込んだ。
「たく……いい歳したバーサンが
「うっさいわ! 好きでこんな姿しとるわけじゃあないわい!」
ニーアの皮肉に、麗愛は歯を剥き出しにして憤慨する。が、その姿はどうにも昼寝を邪魔された子犬を幻視させる。どうにも彼の周りには小動物を彷彿させる人間が多い。
即座に視線を反らして明後日の方向を眺め始めたニーアに、これ以上の抗議は無駄と悟ったのだろう。麗愛は小さく咳払いをした後、至極真面目な表情を作ってニーアを見た。
気配を察したのだろう。ニーアもまた、普段脱力気味の表情に僅かな緊張を走らせて麗愛の視線を受け止める。
口火を切ったのは、麗愛のほうだった。
「それで――何が起きたのだ、あの場で。報告によれば目も眩むほどの閃光が辺りを包み、その次の瞬間には全ての【マモノ】が消失――これはただ事ではない」
「だろうな……それで?」
麗愛の問いに、ニーアはあくまで知らぬ存ぜぬを決め込むつもりでいた。同時に、それはおそらく叶わないだろうという予感もあった。
自分などよりも百年近い人生経験の差を持つ麗愛を相手に、齢十年そこらの自分の嘘が通じるとは到底思えない。
事実、麗愛はニーアから視線を別の方向へ向けた。この部屋に置かれた大きなベッド。本来は麗愛の寝所であるその場所に今居座り、眠り続けている少女へと。
シエラ=F=レッヒェル。
桜色の髪を持つ少女が、そこで静かな寝息を立てていた。
あの騒動の最中、ニーアは倒れた彼女を抱えて昇降機とは異なる裏道――TTBの中央塔にある旧作業地の階段を使って十五階層まで昇り、下層で起きた騒動で混乱を起こし始めていた人の中を駆け抜けながら【ザプリュッド】に駆け込んだのだ。
必死の形相で駆け込み、更には青ざめた顔で息も絶え絶えの少女の様子に麗愛も異常を察し、その場ですぐに響律式を以て治癒を行った。
そして此処に運ばれて三日過ぎたが、その間彼女が目を覚まづことは終ぞなかった。
「お前は知っているのだろう? あの光が何なのかを。そして、あの状況下で一人だけ連れ出し、昇降機とは全く異なる裏道を通って此処に駆け込み、挙句あの小娘をかくまうように頼んできた――これでは何かありますと言ってるようなものだろうに」
麗愛の言葉はどれもこれもが的を射ていた。ニーアにして見れば、彼女の言葉のどれ一つとて撥ね退ける材料がない。
「ニーア。私は問うぞ――その娘は、何者だ?」
そこで畳みかけるように、麗愛は言葉を連ねた。いや、それはただの問いかけでもある。
別に応える必要はない。だが、これだけは聞かせてほしい――そんな意味が込められているように、ニーアには感じた。
正直、どう答えたものだろうとニーアも思考を巡らせる。
ニーア自身も、彼女のことは多くは知らない。分かっているのは、普段からやたら自分の周りをうろちょろしては動物を愛でようと必死になり、しかしそれが叶わぬまま悔しげに頬を膨らませてお菓子をねだる先輩らしからぬ先輩――それが、ニーアの中にあるシエラの認識だった。
ただ、ニーアが彼女のことで知っていることが他のあるとすれば――それは一つ。
「ババァ……昔、博士から聞いたことはないか? 攻防を一つとし、更にはその響律式の影響範囲内では絶対な力を持つ唯一響律式……」
「……? 確かにその話は何度か聞いたことがある。理論上は存在するが、実際は不可能とされる響律式をも上回るという、アレのことか? しかしそれが一体何の関係が――」
唐突なニーアの言葉に、麗愛は目を瞬かせて首を傾げた。そして、すべてを言い終えるよりも早く、麗愛はニーアの言いたいことの意味を理解し、目を見開いたまま寝所で眠るシエラを見すえた。
「待て……まさかこの娘がそうだというのか?」
「おそらく……な。確信はないが、この間の光は間違いなくそこのチビがやったことだ」
あの時、ニーアは確かに見ていた。巨大な【マモノ】が響律式を発動させようとした刹那、それを上回る速度で響素を召喚し、その膨大な量を解放して光へと転化させるシエラの姿を。
シエラを中心に発した階層そのものを呑み込むほどの光量に目がくらむ中、背中に八つの光の翼を背負って数十に重なる術式を展開し、それを余すことなく発動させたシエラ。
(……あんな量の響律式の多重起動なんざ、人間の脳が焼き切れかねないってのに)
シエラとて、響律式使いとしての講義は何度も受けているだろう。どれだけ強力な力を発現させる響律式であっても、それを扱うのが人間である以上限度がある。
常人が発動できる響律式の数は最大で三つ。訓練を積んだ熟練の響律式使いでも、その最大同時起動術式の数は五つが限界と言われ、史上でも響律式の多重起動数の記録は最大で十。それ以上は絶対にありえないと言われている。
それを超えた数の使用は遺伝子に組み込まれている〈響律譜〉が耐えきれず暴走を起こし、それだけの術式を演算しようとした脳が負荷に耐えきれず焼き切れ、良くて廃人。最悪、死に陥ることもある。
だが、ニーアが見たシエラの起動術式数はそんなものではなかった。
完全に把握し切れたわけではないが、あの時ニーアが確認しただけでも数は数十――最低でも五十は超えていただろう。下手すれば三ケタにも上っていたかもしれない――それは最早人間のなせる所業を上回る、正に神の御業などという領域だ。
「マズイのう。それだけの響律式だとしたら、上の連中は躍起になってでも得ようとするぞ」
「ましてやこの状況だしな……あれだけの大型を一気に殲滅できるとなれば、そりゃあ喉から手が出るほど欲しいだろうよ」
ニーアも麗愛も同じ結論に至っていた。もしこの事実が〈大樹の葉〉やその他の機関に知られれば、大事になることは避けられないだろう。二人の中では、すでにシエラをかくまうことを決めていた。
TTB内部に現出し、響律式を使う謎の【マモノ】。それをたった一撃で一掃した力を持つ響律式が存在する。【マモノ】の存在に怯え暮らす人類が、その力の恩恵を得んとしないわけがない。
「本当に、人間というのは業が深い生き物だよ。弱い奴らを踏みにじるのは好きだが、自分たちがそうされるのは我慢がならないとはね……」
地球上に存在するあらゆる生物を弱きもの・知恵なきものと淘汰して、この惑星の支配者と君臨しておきながら、いざ【マモノ】のような自分たちよりも強い存在が現れるや否や、その存在を疎み消し去ろうと足掻きもがき、躍起になる。なんとも愚かしい行為だろうか。
「もともと人間ってのはそういう生き物だろーが。他者を下に見て自分を上に置き悦に浸る――本能だろ、ホ・ン・ノ・ウ」
「厭味な奴だのぅ。お前」
「今に始まったことかよ」
「違いない」
ニーアの皮肉に、麗愛はかんらかんらと笑った。つられて、ニーアも苦笑を浮かべてシエラを見た。
話題の渦中。そしてもしかすれば今後の騒動の渦中の存在となるかもしれない少女は、静かに寝息をたてて眠り続けている。
そんな少女を見て、ニーアはどんな表情をすればいいのか僅かに逡巡したのち、呆れた様子で肩を竦めた。
「たーく、これだけ世の中が混乱に陥ってるってのに、呑気に居眠りとはね。いっそ呆れを通り越して尊敬するよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます