Ⅵ
警備隊の本部の一室。【剣の賢者】の執務室で、グレイアースはペンを走らせる手を止めて黙考する。
(……分からないな)
胸中でそう呟きながら、グレイアースはデスクの上に設置してある端末を操作して、今朝届いていたメッセージに再び目を通す。
今朝方自分の端末に送られてきたメッセージ。その内容も色々と興味深いことが書かれていたが、要約すれば警備の要請に過ぎない。それだけならば、グレイアースもさして気に留めることもなく仕事の一環として処理していただろう。
だが、そのメッセージには安易に警備要請のメッセージと割り切るには見逃しがたいものがあった。
「……どうして、この名前が」
グレイアースが着目していたのは、メッセージの本文ではなく、その差出人の名にある。
――ベオルフ・クロウ
差出人の名前の欄に書かれているその名前が、グレイアースがこのメッセージを何度も読み返してしまっている理由だった。
ベオルフ・クロウ。
その名はこのTTBにおいて知らぬ者がいないと言っても過言ではないほど高名な――近年において英雄と呼ばれる存在の名前だ。
かつては荒くれ者の集団と恐れ嫌われていた『騎士団』の意識改革を行い、今の形へと再結成しただけではなく、自ら【マモノ】との戦いにおいて最前線で戦い、三年前の大型【マモノ】グレンデルと壮絶な戦いを繰り広げた果てに、グレンデルと相打ちとなって殉職した前任の【剣の賢者】――それが英雄、ベオルフ・クロウ。
そして、グレイアースの剣術の師でもあるベオルフから届けられたメッセージ。死んだはずの彼から、三年の月日を経て届いたメッセージにグレイアースはおそらくこれまでの人生で一番驚いた。
その彼から届いたメールの内容は、グレイアースの記憶の中にいる通りの彼の文面そのもの。必要最低限のことしか書かれていない彼らしい文面。
だがその文面は、『騎士団』を率いこのTTBの治安を任されているグレイアースとしては見逃すわけにはいかないものだった。
信憑性はないが、警戒しておくにこしたことはない――そう結論に至ったグレイアースは、下層のほうに少数ではあるが『騎士団』の騎士を送り込んでおいた。
(何も起きないのならばそれでいい。だが、もしこれが本当だとしたら……)
それは、ある種の予感だったのかもしれない。グレイアースの中に生じた、何かが起きるのではという微かな予感は、
「グレイアース様! 緊急事態です!」
副官であるヘルマと共に、現実となって訪れることとなった。普段から礼を欠かすことのない彼女が、ノックもそこそこに了承の返事も待たず駆け込んで来た――それはつまり、彼女が口にした言葉通りの緊急事態が生じたということを意味する。
グレイアースはそう判断した。
「報告を」
故に彼女を咎めることはせず、彼は早急に彼女に続きを促す。ヘルマは佇まいを僅かに整えると、あわただしい様子で言葉を連ねた。
「下層、第三十ニ階層に配置していた部隊より、第一級緊急事態発生との報告あり。まだ確認は取れていませんが、【マモノ】が出現した可能性が大きいです!」
「――っ!?」
ヘルマの言葉に、グレーアースは息を呑んだ。
第一級緊急事態。それはこのTTBにおいて最大級の非常事態が発生した際のみ発令される、最優先で事態収拾をしなければいけないことが生じたということだ。
そして、これが適応される事態の要因は、たった一つ。
――【マモノ】。
『大災禍』以降、この世界に現れた存在であり、同時にある種の事象と認識される――人類のとっての災い。
人の形に似た、黒い霧のような集合体であり個体。
前世時代の従来の武器では一切が通用せず、響律式の実用化まで人類は一切の抵抗の術を持たぬまま【マモノ】の手により無抵抗に等しい蹂躙に晒されるしかなかった。
ただ存在するだけで、人類にとって災厄となる存在。それが現れた。
しかし、問題はそこではない。
【マモノ】の被害というのは、毎年必ず数十件ほど起きている。そして奴らが現れたとしても、現代は響律式が戦術として確立しているし、響素を集束して武器へと転換する兵器――装柄も存在し、これらを用いて【マモノ】と抗戦する外延部防衛局に十分な戦力が存在する。
故に、ただ【マモノ】が出現しただけでは、ヘルマもグレイアースもここまで緊張することも焦ることもない。
問題なのは、【マモノ】がTTB内部に出現した、ということにある。
約百年前に建設されたTTBの主目的は、【マモノ】の蔓延した大地とTTBを巨大な障壁で遮断し、絶対的な安全の地を齎すということにあった。
事実、TTBが生み出されてから百年近く、このTTB内は絶対な安全の地として君臨し、それを統治する〈大樹の葉〉の絶対的な権限は此処から来ている部分が大きい。
だが此処十年近くの間に、TTBの絶対的な安全というお題目の実態は徐々に揺らぐものとなっている事実を知る者は少ない。
TTBが【マモノ】に対しての完全な安全地帯である――その前提はとっくの昔に覆されていた。すでに下層――特に七十階層より下では、ほとんど毎日【マモノ】の出現報告が大なり小なり『騎士団』の下に届けられている。
いつ、どのようにして奴らがTTBに侵入したのかは不明だが、現実に【マモノ】は今、徐々にTTBを侵食している。
しかし、それはほとんど人の踏み入らず、居住区画も存在しない遥か下層の話であった。故に〈大樹の葉〉はこの事実に対する収集を後回しにし続けてきた。
(……だが、今回はそんな風にうやむやにできる事態ではなくなるぞ)
近年でも【マモノ】の出現階層は六十八階層が最大だった。だが、今回はそこから三十階層も飛び越えて第三十二階層に出現した――これはTTB始まって以来の大事件と言っても過言ではない。
「現場に配置した騎士たちは?」
「報告後、即時掃討に向かっております――しかし……」
グレイアースの問いに即応したヘルマが、僅かに言葉を濁す。
「何か問題が?」
すかさず問うグレイアースに、ヘルマは僅かに逡巡して見せた後、言葉を次いだ。
「現場である第三十二階層には、コルプース・アカデミーの学生たちが多数存在しています」
「なんだと!?」
思わず、グレイアースが声を荒げた。
コルプース・アカデミーの生徒がどれだけ三十二階層にいるのかは不明だが、一般人に【マモノ】の出現を目撃されるのは〈大樹の葉〉としてあってはならない事態だ。
(急ぎ収集に向かわなければ、大変なことになる!)
「ヘルマ、一番隊から五番隊までを即時集合させろ。我々も向かうぞ」
「既に招集をかけてあります。十分以内に完全武装で準備完了するよう厳命済みです」
ヘルマの言葉に、グレイアースは無言で首肯し立ち上がる。
「現場の学生たちの状況は?」
「混乱はあるものの、概ね自己判断で昇降機付近まで退避しているとのことです。あとは戦律科という響律式戦闘技術の教鞭を任されている教師たちが対応しているという報告が上がっています」
「その辺りは流石だが、やはり【マモノ】相手では分が悪いだろう」
幾ら戦い方を教える側にいる人間であっても、対【マモノ】戦闘にそう長けている者がいるとは思えない。
(急がせねばな)
そう胸中で一人ごちるグレイアースだったが、
「それが、何故かその場には教師陣以外の戦力が存在しているようで――」
「何?」
続くヘルマの言葉に、グレイアースは思わず動きを止めて彼女を見て、視線で続きを促す。ヘルマもそれを理解したのだろう。小さく首肯して言葉を続ける。
「確認したところ、どうも請負屋集団のようです。数はおよそ二十。全員が対【マモノ】戦闘用に響素結晶武具を装備し、【マモノ】と戦闘中とのことです」
「……何処の請負屋だ?」
ヘルマの説明に、グレイアースは部屋を出ながらそう問うた。ヘルマが即応する。
「送られてきた画像で確認したところ、塔を貫く二振りの剣の意匠――【ザプリュッド】と思われます」
「剣の魔女の一派か」
剣の魔女――『騎士団』でその名を知らぬ者はいないといわれるほどの、常軌を逸した剣の使い手として名を馳せる、実年齢不明の童女の姿をした人物。その彼女が設立し、屈指の実力を誇る請負屋集団。それが【ザプリュッド】と、グレイアースは認識している。
「彼らは腕も立つし、義理も通す――しかし」
「我々に素直に手を貸すような者たちとも思えませんが。あの粗野な店主のように」
皮肉を込めてヘルマが言うが、グレイアースは彼女の発言に思わず苦笑した。目の敵にしているようで、何気に彼のことをしかと観察はしていたようだ。
いや、目の敵にしているからこそ気づいたのだろう。あのニーアという少年の来ていたコートの肩にあった意匠――あれは間違いなく【ザプリュッド】のものだった。
そして先日出会ったあの桜色の髪の少女。あの娘が着ていた服装はコルプース・アカデミーのものであり、その制服を着込んでいた少女を、彼は「先輩」と称していた。
「彼が手を回したか……そう考える方がいいだろうな。おそらく、彼はTTBの事情にも通じている。【マモノ】の塔内現出のことも知っているだろう」
「だから、万が一を想定して保険を掛けていた――そう思われますか?」
「いや、そう思いたいんだ」
ヘルマの指摘に、グレイアースは微笑を浮かべて答えた。
(……しかし、それが彼ではないとしたら――一体誰がそれだけの準備をした? あるいは、誰かがこうなるように仕向けた? しかしそうだとしたら、それは一体何のためだ?)
脳裏に生じた幾つかの疑問。しかしそれを解明している時間は、今のグレイアースにはなかった。
(考えるのは止そう。今は目前の問題を片付ける方が先だ……)
「ヘルマ、君も準備したまえ。すぐに向かうぞ」
「御意のままに」
そう言葉を交わし、グレイアースとヘルマは長い廊下を颯爽と歩いていった。
もしこの時、グレイアースが自身の中に生じた疑問を後回しにすることなく、【マモノ】の掃討と問題の解決を並行して行っていたのならば、後の未来が僅かばかり変わったかもしれないが――今の彼がそれを知る由もなかった。
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