Ⅲ
地上三七〇〇〇メートルもの高さを誇るTTB――その深層は、地上の光も霞む地下二三三メートルの位置に存在している。
ほとんど人も住むことのない、この塔のゴミ溜めとすら呼ばれる場所――地下都市区画。
塔の機能の七割以上がこの場所に設置されている様々なエネルギー循環機関によって賄われており、それ故にこの巨大な塔を機能させる機器の排熱量は常軌を逸し、その熱を冷やすための冷却により発生する大量の蒸気が一帯を包んでいる。
「……相変わらず気の滅入る場所だな」
蒸気でほとんど視界を奪われた通路を歩きながら、ニーアはうんざりした様子でそう愚痴を零した。
太陽の光がほとんど届かない此処での光源は人工的な明かりのみ。その光が射す足元と記憶を頼りに、ニーアはその建物に辿り着いた。
ほとんどがニーアの身体の何倍もの大きさのある配管や巨大な換気扇――そして足の踏み場もないと表現したくなるほど緻密に配備された配線の群衆の中で、その建物は逆に異質な存在感を持ってそこに君臨していた。
いや、たとえこの建物が上層の居住区画に存在したとしても、この建物は間違いなく異物に見えているだろう。
それは住居と言うにはあまりにも無骨。全体が鉄の壁で作られた建物。鉄製の四角い箱がそのまま巨大化したと思えば想像も難くないないだろう――その建物は、正にそう言うものだった。
分厚く冷たい鉄の壁は、長い歳月をここの蒸気に曝され続けた結果鉄錆に覆い尽くされているが故に、まるでこの建物だけが時間に取り残されたかのように残されている。
ニーアはその建物の前に立ち、ほとんど壁の錆色と同化した玄関をノックする。
「ヴィル! ヴィルヘイム=チャンバー! 死んでるかー? 死んでんなら返事しろー」
その尋ね方はおかしいと思えるのだが、この建物の主であるヴィルヘイム=チャンバーに対してはおおむね正しい尋ね方だった。
「……そうですネー。半分ほどは死んでいますヨ?」
扉を隔てているため、僅かに籠った声が返ってきたのを確認したニーアは、了承も得ぬままその扉を無言で開けて中に入った。
建物の中は空洞――正方形の空間が存在していた。階段もなければ、他の部屋へ続く扉もない。頭上十メートルほどにある天井と、三〇メートル四方に広がる四角い空間。ただそれだけの場所だった。
その場所の四方の壁を埋め尽くすのは巨大な本だなと、その本棚を埋める大量の書物――そして床に四散するその本棚にすら収まらぬまま数メートルの高さに積み重なった本の塔と大量の紙。
知識の埋もれる場――そう比喩的表現ができるようなその空間の中央に、その男は一つの椅子でまどろむように座っていた。
喪に伏したような漆黒の衣服に全身を包む、左目の周囲に十字の刻印を刻んだ――異様な雰囲気を纏う痩身の男は、闖入してきたニーアを一瞥すると、その何処か脱力した表情ににこりと笑みを浮かべる。
「――久しいですネ、ニーア」
もし、その場に彼という存在を知らぬ者が同行していたのなら、きっとその同行者は全身の毛を逆立てて後退っただろう。
男の声は、とてもではないが男の口から発せられたとは思えない、正に独特の歪さを孕んでいた。
上から。下から。右から。左から。前から。背後から。身体の内側から。あるいは鼓膜を直接的に。あるいは頭蓋に……。
人間は音や声を等しく聴覚で捉え、それを神経伝達により脳に伝わることでその音声を『聞こえた』と認識する。
それはある意味万物の法則であり、この世の摂理であり、いわば世界の理によって律されたものだ。
しかし、男の――ヴィルヘイム=チャンバーの声だけは、その例に属さない多次元的なものだった。たとえとして最も近いものがあるとすれば、それはおそらく
しかし、それが何であるのかと問われれば、誰であれ明確な回答を口にすることはできないだろう。
そして、その唯一の答えを持っている声の持ち主であるヴィルヘイムは、そのことを尋ねると決まってこう答える。
「人が禁忌に触れる以前、この世に言葉は一つだった――つまり、そういうことでス」
ヴィルヘイムはいつもそう答える。そしてそう言われた者は、誰一人として反論する術を失っていた。
答える気がなくてはぐらかしているのか、あるいは本当に知らないから答えらしいものを口にしているのかは分からないが、ヴィルヘイムに対して言えることは、とりあえず胡散臭い奴という認識で終了される。
その胡散臭い男を前に、ニーアは軽く呆れた様子で溜息を漏らした。
「ババァからあんたの所に行くように言われたんだよ。こいつの解読を依頼だ。言い値で任せる――だとよ」
そう言って、ニーアはポケットから取り出した記録媒体をヴィルヘイムに向かって放り投げる。ヴィルヘイムはそれをゆっくりした動作で伸ばした手で受け取ると、けたけたと声を発して笑い、
「彼女にしては実に気前がいいですネ?」
そう小首を傾げながら立ち上がった。
「期日はどうします?」
「出来るだけ早急に――ババァが口にしたわけじゃないが、なんとなく嫌な予感がするんだよ。だから急いでくんねーか?」
「それはまた、どうして?」
ヴィルヘイムは踊るように室内を歩き回って、空間の一カ所を占拠している本に埋もれたデスクに歩み寄り、そこに設置されて常時演算を行っている端末を操作しながらそうニーアに尋ねた。
ニーアは率直に答える。
「斑目=轟――奴が関与してるかもしれねー」
カタカタと端末のキーを叩いていた手が僅かに動きを止めた。ヴィルヘイムがその眼の下に大量のクマを浮かべた双眸でニーアを振り返って捉え、首を傾げる。
「あの坊やがですカ? それは確かニ?」
「ああ。そいつを俺に預けた男が、あのクソ野郎に殺されたところを見てる――つまりはそういうことだろう?」
「あの小童が自らの手で始末してでも隠したかったことがある――そういうことですネ?」
ヴィルヘイムの答えに、ニーアは無言で首肯する。対してヴィルヘイムは満足げに頷いて見せ、目視が不可能なくらいの速度で端末のキーを高速で叩く。
「承りましょウ。あの恭一郎の小倅が何をしようとしているのカ、私も興味がありますかラ」
そう言って、ヴィルヘイムはにこりと笑った。ニーアは僅かに鼻を鳴らして鷹揚に頷いて見せ、意地の悪い笑みを浮かべた。
「任せるぜ。あのババァが苦虫噛み潰したような顔までしてお前に依頼したんだ。存分に応えてやれよ」
何処かからかうような楽しむような、そんな調子で軽口を叩いたニーアに、ヴィルヘイムもくつくつと笑って大きく頷いて見せる。
「了解でス。彼女が泣いて悔しがるほど完ぺきな仕事をしてご覧に見せますとモ。
――そうですネ……一見した限リ、随分とプロテクトが多く暗号化が若干複雑ですガ、この程度ならば一週間もあれば完璧に解読して見せましょウ。解読が終了し次第、麗愛の所に連絡を入れますとお伝えください」
「わーった」
ヴィルヘイムの返答に頷いて見せ、ニーアは不敵に笑って踵を返す。
「忙しそうですネ?」
視線を端末の画面からそらさず、ヴィルヘイムはそうニーアに声をかけると、彼はおどけた調子で肩を竦めてワザとらしく首肯する。
「本当だぜ。面倒臭い仕事ばっか回されっから、働かされる側からしたらたまったもんじゃない」
「ですガ……君を見ている限りでハ、退屈はしていないようですヨ?」
「違いない」
全くその通りだという風に、ニーアは複雑そうな笑みを浮かべてヴィルヘイムの言葉を肯定する。
「忙しくって目が回る日々だ。
学校に行ってお勉強。
喫茶店の接客。
請負屋としての命がけの日々――そのおかげで、飽きも退屈もなかなか感じなくて、これでもかってくらい充実してやがる。俺のような
自嘲するように、ニーアは何処か哀愁の漂う表情でそう呟く。
そんな自らを貶めるような言葉を口にするニーアを見て、ヴィルヘイムはうっすらと、その死人の如き顔色で何処か優美な笑みを浮かべ、あっけらかんと語る。
「たとえ
だからそう悲観しないようニ。人の生は一度きリ。たとえそれが人形の生であっても同じこト。君は君が思うように生きればいいのですヨ。それガ……恭一郎の望みですかラ」
ヴィルヘイムの言葉に、ニーアは僅かにその両目を大きく見開き、そして何処か泣き笑いのような表情を浮かべて、
「――本当に、そう……思うか?」
「ハイ、と私は答えましょウ」
ニーアの問いに、ヴィルヘイムは迷いなく答えた。それが彼の生みの親の願いであると、確たるものであると証明するように。
わずかな沈黙が二人の間に生じる。
ヴィルヘイムの柔和な笑みと、ニーアの無表情が向き合い、互いの視線が交錯した。
「……そうか――」
やがて、ニーアが小さくそう囁いたのが聞こえ、ヴィルヘイムは満面の笑みで頷いて見せた。
「ええ、必ずですヨ」
その言葉に、ニーアは彼にしてはごく珍しい柔らかい笑みを零し黙って頷き返すと、その表情はすぐに普段の顰め面に戻り、まるで何事もなかったかのように歩みを進めた。
「そんじゃ、そいつのことは任せたぜ」
「もちのろんでス! 君も色々と気をつけてくださイ。君の言葉を借りるわけではありませんガ、嫌な予感がしますのデ」
「お前がいうと洒落にならねーなオイ」
苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべながらそう返して、ニーアは玄関から建物を出ていく。
残されたヴィルヘイムは端末の画面から視線を一切そらさぬままだった。しかし扉が閉まる瞬間、ニーアは確かに彼の声を耳にした。
「――本当ニ、何事もないことを祈っていますヨ」
ヴィルヘイムのその言葉が、やけにニーアの耳に残る。
まるで、これから起きる何かを予感させるような――そんな気がしたのだ。
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