そして現在。ニーアは自らの主である麗愛を前に一歩も引かぬと言った形相で彼女と相対じていた。

今回ゼリクから【ザプリュッド】に回ってきた仕事がどんなものであろうと、結局は件の野外講義の護衛ということに変わりはない。ならそれに参加することのない自分には全く関係のないことだ――そう信じていたのだが、事態は依頼書の文面によって一転してしまった。

ゼリクから手渡された封筒の中の数枚の依頼書。そこに記されていた一文が、ニーアにとって言葉を失うほどの衝撃をもたらしたのだから。


『――此度の野外講義に置いて、TTBの言状況を鑑み、その上で最悪の場合を想定し、万全を期すために【ザプリュッド】数名の助力を願いたし。また、その担当者の中に、ニーア=ゲイル=アシュリートを確実に参加させて頂きたい――』


 ニーアからすればまさに「ふざけるな」絶叫したくなる文章であったが、そのニーアの主であり、【ザプリュッド】の長である麗愛は安楽椅子に腰かけ、煙管で紫煙を大量生産しながら楽しそうに笑った。


「くくく……これはまさに――してやられたのぅ、ニーア」

「……黙れ、ババァ」


 常人ならばそれだけで気を失いそうなほど底冷えする声音で切り返しながら、ニーアは金のかかったソファに腰掛けて忌々しげにテーブルに拳を振り下ろす。


「あのオッサン……騙しやがったな」

「責任転嫁も甚だしいぞ。彼はなにも騙してなどいないだろう。お前が勝手に勘違いしただけのことだ。違うかえ?」

「~~~~~ッッッ!」


 かんらかんらと笑いながら上げ足を取ってくる麗愛の態度に、ニーアはその場で地団駄を踏みそうになるのを必死に堪えて、その代わりと言わんばかりに刃の眼光で麗愛を睨み据えるのだが、彼女にとってニーア如きの眼光などその辺の家の庭で吠える犬と大差なかった。

 彼女はニーアの眼光から生ずる圧力など完全に無視して、逆にニーアを一瞥するだけで威圧し、彼の不機嫌を隠そうとしない態度を委縮させつつ、鈴音のような声音で彼に命じた。


「睨んだところで何も変わりはせんよ、ニーア。

 そして私は【ザプリュッド】のマスターとしてお前に命ずるのだ。此度のゼリクからの依頼。我らが【ザプリュッド】はしかと引き受ける――この意味が、分かるな?」


 わずかに、麗愛の目が細められる。しかし、そこに込められた無言の意志を完璧なまでに受け取ってしまったニーアは、ソファから立ち上がって麗愛へと一礼――否、拝礼し、



「――イエス・マム」



 ただ一言、そう承諾の意を示した。

 元より、麗愛がこの仕事を受けると決断した瞬間から、ニーアに拒否する権利は存在しなかったし、する気もなかった。

 ニーアにとって、麗愛とは雇い主であると同時に保護者的存在でもある。そして何より、一人行く当てのなかった彼を育ててくれた恩人でもある。口ではどれだけ反抗的な態度をとって見せようと、ニーアにとって麗愛の言葉は絶対であり、その意に反するという考えは端から存在しない。

 救われたのが命であるのならば、それこそ命を賭して彼女の命に応え完遂しよう。それがニーアの内に秘めている決意だから。

 そんなニーアの心情など知ってか知らずか、麗愛は満足げに口角を上げて鷹揚に頷いて見せる。


「よい返事だ。では明日、任せるぞ。他の者は後で適当に見繕っておく。今日の残りは自由に過ごしてくれてよいぞー」

「へーへー、りょーかい」


 麗愛の労いに対し、寸前の了承時とは打って変わったまるで気のない返事を返すニーア。

 しかし、


「……ババァ」


 ニーアは僅かに躊躇いながら麗愛に呼びかける。

 椅子を気分よく揺らしていた麗愛は、ニーアの声音にわずかな変化を感じ取ったのだろう。即座に椅子の動きを止め、煙管を一度大きく吸って紫煙を吐き出した後、


「――何かあったか?」


 そう切り出す。ニーアは即応した。


「昨日――十五階層で白衣の男に会った。身元とかは分からねー。ただ、アンタにこいつを渡すように頼まれた」


 話しながら、ニーアはコートのポケットから記録媒体を取り出して麗愛に投げ渡す。彼女はそれを受け取り、僅かに目をくれた後それをデスクの上で置いた。


「それで、その男はどうした? まさかそのまま見送った――などとは言うまい」

「当たり前だっつーの。そうアンタが教育したんだろう」


 ニーアの返しに、麗愛は「当然だ」とでもいう風にうんうんと頷く。が、それも一瞬のことで、その表情はすぐに至極真面目なものにとって代わり、


「それで、そいつはどうした」

「身元を洗う前に殺された。ものの数分の間に――な」

「そいつらの特徴は」

「おそらく、上層の連中だ。それらしい目印はなかったが、装備や身のこなしを見てる限り、十分に訓練を施された実戦部隊だったぜ」

「ふむ……そうか」


 ニーアの説明に、麗愛は思案顔で煙管を銜えて首を捻った。そこで僅かに逡巡したが、ニーアは話すべきか隠すべきか悩んだ末に、もう一つのことを告げるために口を開いた。


「……それと、もう一つ……」

「何だ?」


 麗愛が即座に問うてきた。その視線と言葉を正面から受け、ニーアは僅かに逡巡した後、彼女にそのことを告げた。


「その場には、奴が――斑目=轟がいやがった」

「――!?」


 ニーアの口から告げられた名を耳にした刹那、麗愛の表情が驚愕の色に染め上げられる。ぽろりと口から煙管が零れ落ち、麗愛は慌ててそれを摑み取りながらニーアに尋ねる。


「確かか?」

「――ああ。確かに、武装した連中にそう呼ばれていた。そいつを渡してきた男を殺したのも奴だった」


 ニーアはぎりっ……と歯を軋ませながら答える。掌に食い込むほど強く拳を握り締め、怒りと憎悪に顔を染めながら、ニーアは吐き出すようにその名を口にする姿を見て、麗愛はニーアの言葉が真実なのだと悟る。


「そうか……よく、切りかからなかったな。偉いぞ」


 麗愛は肩を震わせて感情を押し殺しているニーアにを見て、朗らかに笑ってそう褒めながら、その内心で驚嘆していた。

 ニーアにとって、斑目=轟という存在は絶対的な悪であり、殺したくて仕方がない殺意の的のような存在だ。そのことを麗愛はよく――それこそ痛いほどよく知っている。

 だからこそ、その場の感情に任せて目の前に現れた仇敵を衝動的に殺そうとしなかったニーアに、麗愛はその実心底驚かされた。


「ガキじゃ……ねーんだ。感情任せで暴れるのは獣だろうよ。それに……俺だけならいいけど、他の連中を巻き込むのは、きっと博士が望まない……」

「そうだな。奴――恭一郎は、そんなことを望むまいさ」


 吐き出すように呟かれたニーアの言葉に、麗愛は同意を示しながら煙管をデスクの傍らに置いて、置いてあった記録媒体を手に取った。


「あの小僧が何をしようとしているのか。他者を自らの手で殺してまで闇に隠したかったものがある――そして今となってはこれだけが手がかりか。しかし、こんな物の中身をどう確かめろというのか……」

「それを剣の魔女に渡せ――おれはそう言われたぞ?」

「しかし私はこの手の機械に弱いのは、お前もよく知っているだろう?」


 麗愛のしょぼくれた表情を見ながら、ニーアは「ああ……」と頷いた。

 この童女はどういうわけか機械技術という者との相性が圧倒的に悪いらしく、【ザプリュッド】の構成員と連絡を取るために用意した携帯通信の出来る端末ですら扱いに慣れるのに数年の歳月を要したくらいだ。


(……なんつーか、俺の周りにいる女どもは、どうにも相性が悪いものにはとことん駄目なのな……)


 脳裏によぎる、動物が好きなくせに動物にこの上なく嫌われる桜色の髪をした先輩少女の姿が浮かんだ。きっと今日も報われない究極の一方通行に明け暮れているのだろうと思うと、何故か目頭が熱くなったのはご愛敬。

 ニーアは脳裏に浮かんだ動物を追いかけて四苦八苦するシエラの姿を振り払い、僅かに嘆息してから麗愛に問う。


「じゃあ、どうするんだよ。そいつの中身、一応俺も見れないかと思って弄ってみたけどよー。滅茶苦茶プロテクトかかっててファイル一つ開けなかったぞ」

「だろうな……それだけ秘密にしたい物がこれの中にはあるのだろう……仕方ない」


 麗愛は一人納得し、ニーアに向けて記録媒体を投げ渡す。それを慌てて受け取るニーアに向けて、麗愛は煙管を手に取り指先で回転させながら言う。


「ニーアよ。今からちぃーと、最下層のほうに行って来てくれぬか。奴の手を借りるのは腸が煮えくり返るほど嫌じゃが、背に腹は代えられん。代金は奴の言い値でよいと伝えておけ」


 まくしたてるように矢次に飛んできた麗愛の言葉に、ニーアは信じられないという風に目を瞬かせて彼女を見た。


「良いのかよ? アンタあいつのこと嫌いだろ?」

「うぅ……奴のことは死んだ方がマシというレベルで嫌いじゃとも。しかし腕は確か――そればかりは否定しようのない事実だからのぅ」


 今にも泣きだしそうな表情でニーアを睨み上げる麗愛の様子に呆れればいいのか流石はプロと称賛すればいいのか判断がつかず、結局ニーアは肩を竦めてしぶしぶと頷いた。

 この記録媒体の中身も気になるし、何よりこれに斑目=轟が関わっているというのなら、ニーアの返答に否という言葉は存在しないのだから。


「わーった。今から行きゃいいんだろ?」


 ポケットに記録媒体を無造作に突っ込み立ち上がると、麗愛は勢いよく立ちあがってデスクに足を乗せ、ニーアに煙管を突きつける。


「ああ、マッハで頼むぞ」

「音速の壁超えてんじゃねーか」


 呆れながら突っ込みを入れ、ニーアは件の情報屋に会いに行くために『魔女の間』を後にした。

 ――目指す場所はTTB最下層部。地下都市区画アンダーグラウンドと呼ばれる、この塔の深淵。


   ◆◆◆


 ――パタンッ。

 そんな音を残して閉じられた扉を見て、麗愛は暫し何をするでもなくただ口に煙管を銜えて紫煙を吐き出していた。

 そして今しがたこの部屋を去っていた少年の背中をふと思い出し、そこに重なる懐かしい記憶にわずかに思いをはせながら、麗愛は煙管の灰を落とす。

 新しい脂を入れて指先を弾く。わずかに赤い燐光が迸り、煙管の先端に朱色の熱を灯す。響律式の使い方としてはいささか行儀が悪いが、この部屋からあまり出ることのない麗愛にしてみれば、こうでもして感を養っておかないと響律式自体の使い方すら忘れてしまいそうになる――というのは、やはり言い訳になるんだろうかと苦笑する。

 肺一杯に紫煙を吸い込み、それをゆっくりと吐き出す。最早何十年と繰り返された行動。意識せずとも、どのように煙を吐き出せば最適なのかすらも分かり切ってしまった。

 肺の中にたまった煙のすべてを吐き出し終えると、麗愛は煙管を銜え直し、カチカチと歯で何度も噛む。


「――しかし、轟の小僧……一体何をしでかすつもりだ?」


 麗愛にとって斑目=轟とは知らぬ顔ではない。むしろ生まれた日から知っていると言っていいくらいには顔なじみだった。此処五年ばかり――彼が彼の父を殺した日以来、顔を見たいとも思ったことはなかったのだが、


「二度と交わることはない……そう願ってはいた。だが、それは不可能なのだろうとも、思ってもいた」


 彼の父は、麗愛の古くからの友だった。故に、友を殺した轟の存在は、たとえ友の子息であろうともその生存を許容できるものではない。

 できることならば今すぐにでも轟の下へ馳せ参じ、自らの得物を以てしてその頭をかち割ってやりたい衝動に駆られる。


「が、それは私の役目ではないしのぅ……」


 自分などより的役がいる。ニーアという、最もあの男と相対すに相応しい者がいる。


「私が我が友の子を殺すか……あるいは、ニーアあやつが兄弟殺しとなるか……それだけのことか。まあ、どちらにしてもお前がそれを望むことも、許すことも思えないがな……」


 そして麗愛は振り返り、壁際に並ぶ棚の一角――そこに置かれた写真立を一瞥し、そこに映る一人の男へと向けて、決して答えの返ってくるはずのないと知りながら問いかける。



「――そうだろう? 斑目=恭一郎」



 それが、麗愛=マルスタインの古き友であり、

 斑目=轟の父の名であり、

 そして――ニーア=ゲイル=アシュリートの生みの親の名だった。





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