Ⅴ
夕闇が訪れ、徐々に夜が迫る中、壮年の男は人気の失せた道で壁に背を預け、肩で息をしながら頭上を見上げた。
頭上には夜闇に染まる空と、それに相反するように輝きを強める月が見える。
「分かってはいたが……やはり広いのだな……このTTBは」
改めて、彼は自分が生きているこの機械仕掛けの塔の巨大さを目の当たりにした。
この塔の何処かに住んでいるという、TTBが生み出される以前よりこの世に生きているとすら言われる、魔女の名を冠する人物を求めて下層に来たものの、その実彼は彼女の行方を知らなかった。
だが、彼女の存在は何時だって噂として飛び交っていた。騎士団は何度も彼女の下に訪れ、
「……もう、それほど時間もないというのに」
すでに何度も追手の姿を見ている。往来の場ではそれほど荒っぽいことはしていないが、直に人の行き交い失せてくる時間。彼らの行動は過激なものに変わるだろう。
そうなれば、自分に逃げ切る術はおそらくない。
どれほど響律式を操れようと、所詮彼自身は科学者でしかなく、戦闘訓練を施された憲兵などには勝てるわけがない。
「……今は、逃げるしかない」
呟き、男は歩き出す。
数を減らしてきている人の波だが、まだ人はいる。人気のない場所を通るくらいならば、まだこちらを通る方が安全だと判断し、男は人波に紛れて歩き出す。
周囲に視線を巡らせ、追っての姿がないか注意しながら歩いていると――あまりにそのことに注意を払い過ぎていた為だろう。
「うわっ!?」
「わわ」
男は誰かにぶつかってしまい、たたらを踏みつつも倒れるには至らず、慌ててぶつかった相手を見た。
「……痛い」
ぶつかった相手は、小柄な桜色の髪を持つ少女だった。本当に小柄で、その背丈は自分の胸ほどの高さまでしかないだろう。おそらく、近過ぎて視界に収まらなかったのが衝突の原因だろうと、男は判断した。
「ったく、何してんだよ」
そう悪態つきながら少女に手を差し伸べたのは、おそらく少女の連れなのだろう。黒いフード付きのコートに身を包んだ、白金の髪を持つ目つきの悪い少年だった。
少女は少年の差し出した手を取って立ち上がり、少年はその鋭い視線をこちらに向けられ、男は思わず息を呑んだ。
文句か何かを言われるのだろう。瞬間的にそう予想した男だったが、そのガラの悪そうな少年は、
「連れが迷惑かけたみてーだな。悪かった。アンタ、怪我はないか?」
そう、謝罪の言葉をかけてきたので、男は面喰ってしまい、言葉が出なかった。
そんな男の様子に眉をひそめつつ、少年は連れの少女を見下ろして、
「おいコラ。アンタがぶつかったんだからアンタもちゃんと謝れよ」
「うるさいなー。それくらい分かってるよ。いちいち口うるさい後輩君だ」
少女は抑揚のない声で少年の言葉に応じつつ、男にこうべを垂れた。
「すみませんでしたー」
「謝る気ねーだろ、アンタ」
そのまま二人は口喧嘩を始める。傍から見ていれば微笑ましい光景――事実周囲はそんな表情で見守っている――なのだが、男の視線は、別な所に向けられていた。
若者の着ている、黒いフード付きのコート。
その両肩に刺繍されている刻印。黒い塔を交差し貫く剣の刻印。
男は、その刻印を知っていた。
気づいた時には、男は若者の肩をガシッと掴んで彼を見ていた。
当然のように、少年の顔には困惑の色が浮かび、いきなり掴みかかって来た男に鋭い視線を向けて睨み据えるが、男は切羽詰まった様子で口を開く。
「君は、剣の魔女を知っているかい?」
そう問うた瞬間、少年の表情は一変し、一瞬驚愕に染めたすぐ後に、周囲に視線を巡らせて何かを警戒する。そして小さな、だが確かに聞こえる声音で、
「……ババアに何の用だ?」
彼はそう男に問い返す。
自分の問いかけの意味が伝わったという事実に、男の表情に安堵の色が宿る。だがそれも一瞬のこと。男は周囲を見回し、まだ追手の姿が見えないことを確認したのち、白衣のポケットからある物を取り出し、少年の手を取ってそれを握らせる。
突如手を取られてぎょっと目を剥くも、少年は自分の手に何かを握らされたことに気づく。だが、
「……それを魔女に渡してくれ。頼んだよ」
男は囁くようにそう言って、少年の側から離れて走り出す。
「おいっ!?」
少年が慌てて呼び止めようと声を上げるが、男は構わず走り続ける。託すべき物はもう託した。後はできるだけ彼から離れて時間を稼ぐ――それだけでいい。
周囲への迷惑など考えず、ただ闇雲に人波の間を駆け抜け、出鱈目に道の曲がってを繰り返した。
やがて、自分が何処にいるのかすらも分からなくなるほど滅茶苦茶な走りをし、苦しくなった呼吸を整えるために建物の壁に背を預けて深呼吸する。
そして呼吸が整ったころ合いを見計らって再び走り出そうとした。
「――やっと見つけたぞ。ディーリング君」
酷く無感情な声が背後から聞こえると同瞬、腹部に鈍い痛みと共に熱を感じ、恐る恐ると自分の腹を見下ろし――白銀の刀身を自分の血で赤く染めた細見の剣を見た。
振り返れば、メガネを掛けた長身の男が右手に握る剣を引き絞り、それを今まさに打ち出そうとしている姿が見えた。
「裏切り者には死を――それが鉄則だろう?」
胸を穿つ音と、享楽じみた宣告の声を最後に、男の意識は暗転した。
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