第5話

 次の日いつものように出勤し、カレンダーを見ると関口さんの文字で【内山先生の誕生日!】と書かれていた。

 9月15日なんだ。え?15日?

 携帯で日付をチェックする。今日は15日だ。

 どうして昨日教えてくれなかったのだろう。いつもご飯代も全て出させてくれずあっち持ちだ。知っていたら何が何でも出したのに。いや、それでも出させてくれるかはわからないけれど。

 プライドが高い人なのだと改めて思う。腕が良くないと言われていることも、絶対に私の前では出さない。治療の話は一切しない。

 でも、誕生日くらい…

「教えてくれたっていいのに」

 私達にはまだまだ長い距離があることを突きつけられた気がした。


 お誕生日おめでとうございます、が言えずに帰る時間になってしまった。私はつくづくダメな女だ。いつもお世話になっているのだからその一言くらい言えばいいのに。

「じゃあまた明日ね、シバ」

 内山先生はそくさくと帰ってしまった。何か予定があるのかもしれない。誕生日だもの、そんなの当たり前だ。誕生日の日にひとりで過ごすのなんて私ぐらいよ。誕生日を一緒に過ごしたかっただなんめ…思ってない。思ってないんだから。

 その日はメールも来なかった。



 おめでとうを言わなかった後悔は次の日まで続いた。こんなに後悔するなら言えば良かった。昨日の私はなんて臆病者だったんだ、と思う。そして今日の私も臆病者だ。でも…

「内山先生!」

「はい?どうしたんですか?」

 仕事モードの内山先生の顔に付箋を貼った。

「なにす……なんだよ、昨日だっつの」

 二人の時の先生の笑顔だ。何故だか泣きそうになってしまう。こんなのおかしいかしら。

【お誕生日おめでとうございます】

 こんなことして…私はなんて臆病者なんだ。何度もそう自分に言う。

 でも先生はその付箋を嬉しそうにノートに貼った。

「今日、待ってるね」とだけ言い残して患者さんの元へと行ってしまった。

 私はいつだって受け身だと思う。誘われ待ちなんだ。臆病者の私は、先生のその言葉に嬉しくて口元が緩んでしまった。こういう気持ちをなんというのだろう。



 急いで片付けを終わらせて先生の待つ駅に走った。ヒールがコツコツと音を立てている。でもその音はとても嬉しそう。

「先生!」躓きそうになるのを、先生が助けてくれた。

 あ、結構ゴツゴツした腕なんだ…。

 そのとき初めて気づいたことだった。

「今日は奢らせてくださいね」

「はいはい、了解です」

 春香の頭をポンっと撫でると優しく微笑んだ。

 春香がお店を選び、先生の食べたいものを頼んだ。先生はなんだか嬉しそうだ。昨日の誕生日は幸せな日だったろうか。友達にお祝いしてもらったのだろうか。聞きたいことはたくさんあるけれど、今日は先生の話す話をたくさん聞いてあげたいと思った。


 お会計をする前にトイレに立つと、その間に先生がお代を支払ってしまっていた。

「やっぱり、奢られたくないからな」

 プライドの高い人だ。先生の誕生日祝いだったのに。いつもと変わらない日になってしまった。

「楽しかったよ、ありがとう」

 目頭が熱い。ありがとうだなんて、私が言うべきなのに。先生はなんて良くできた人間なんだと思う。私はこんな男の人を知らない。

 送るよ、と電車に乗る二人。

 肩が当たる。心臓の音が聞こえないか心配になる。沈黙が心地よく感じている。

「シバ。俺…プロポーズするんだ」

 沈黙を破ったのは先生だった。

 私は電車を降りていた。涙が溢れて止まらなかった。この気持ちをなんというんだろう。

 この気持ちは…ああ、私は先生が好きなんだ。初めて会った日に好きになっていたんだ。先生が…


「好きなのに…」

 久しぶりの恋は、届くことのないものだった。

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