第2話

 梅雨が明け、7月になった。まだ少し蒸し暑い程度の通勤路。

 やっと最近、あの人の事を考えなくなってきた。もう会うことはないだろう。

「おはようございます」

「シバちゃん!」

 出勤してすぐに春香の元へ走ってきたのは受付の関口茜せきぐちあかねさん。この人がこういう態度をとる時は決まってなにか歯科医院で噂がある時だ。今日なんだろう。院長の機嫌が悪いとか?

「新しい先生、入ってくるんだって」

 しかも若い男の人よ、と続けた。

 まったく興味のない春香は「楽しみですね」とだけ返した。

 新しい歯科医師が入ってきたって私の生活は変わらない。だったらいっそ入ってこない方がいい。そう思ってしまう。

 受付の仕事をしよう、と着替えて受付にいく。するとドアが開く音がした。

 …患者さん?まだ診療時間前なのに。

「初めまして」

 全身が一気に硬直するのがわかった。

「今日からこちらで歯科医師としてお世話に……あれ?君…」

 ああ、気づかないでほしい。こんな私を見てほしくなかった。穴があるなら入ってしまいたい。そんな気持ちだ。

「…柴崎春香です」




 内山和哉、32歳。職業、歯科医師。

 あの日聞けなかった、聞きたかったこと。こんな形で聞くことができるなんて思いもしなかった。

 ああ、やっぱり綺麗な顔立ちだな。爽やかな笑顔を患者さんに向けているのを見るたびに心臓がうるさくなる。

 もう二度と会うことはないと思っていた。もう一度会えて驚きと喜びが交差している。胸が張り裂けそうだ。内山先生は、私を合コンに行くような尻軽女だと思っているだろうか。




「え〜!あの日遅れてきた人だよね?歯科医師だったんだあ。すごい偶然ね」

 みなみはアイスコーヒーをすすりながら目を見開いていた。

「春香って、内山さんみたいな顔がタイプだったの?」

「タイプっていうか…すごく綺麗だなって。ずっと眺めていたいと思うの…」

 自分で言って恥ずかしくなる。4年間彼氏もいなかったこんな芋女が何を言うって思うだろうか。

「春香はきっと…」

 きっと?

 みなみの携帯が鳴った。

 ごめん、彼氏からだ。と言って足早にお店を出て行った。

 きっと、の続きが聞けていない。まあまた今度でいっか。

 コツコツ、と窓ガラスを叩く音。振り返るとそこには「内山先生!」あの人だった。



「一人でカフェって…何していたの」

 クスクス笑いながら問いかけてくる。恥ずかしくて死んでしまいたい。

「親友といました!…彼氏の所に行っちゃいましたけど」

「もしかして、みなみちゃん?彼氏いたんだね」

 みなみはモテるもの。大学4年間も常に彼氏がいた。みんなイケメンのお金持ちだった。可愛くていい子でよく笑う。みなみは本当にモテる。女の私から見ても見ても、みなみと付き合ったら楽しくて幸せになれると思うほどだ。

「てことはさ、今日フリーなんだ?ちょっと付き合ってよ」

 そういって春香の腕を引っ張り連れてきた場所は…スカイツリー。

「日によって色が違うんだ。空気の色、雲の色、街の色。今日は空気が澄んでいて綺麗だね。雲は美味しそうな色だ。日曜日だから街には人が多くてカラフルだ。わかるかな?」

 そう言われて見渡す景色は、私が今まで見たものとはまるで違った。私の見てきた景色はほとんどが真っ黒で、唯一綺麗だと思えたのは休み時間に一人で来る公園の木々。でも今日は全てが美しく思える。

「柴崎さん、連絡先教えてくれない?」

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