第9話

 ホテル・セントラルの中庭に届く太陽の光は刺すような熱気を含んでいたが、建物の日陰には乾いた風が流れ込んでいた。部屋の外で座り込んでいた僕は、廊下の壁にもたれ掛かって中庭を眺めていた。指に挟んでいたジョイントが気付かないうちにずいぶんと短くなっている。最後の一息を吸い込んで、コンクリートの床で揉み消す。糸のような煙が手にまとわりつく。そのままジョイントを中庭の茂みに放り込む。辺りには蝉の声しか聞こえない。ずっとこの騒音の中に居続けているような気がするが、それがどれくらい前からだったのか、よく思い出せない。

「今日も暑いね…、何か洗濯するものある?」

 いつの間にか側に居た、ホテル・セントラルの管理人が話し掛けてくる。背が低く、体付きも華奢な男だ。薄い糸屑のような顎髭を手で触っている。僕はしばらく考え込んで、首を振った。

「キュウはまだ戻らないね、どこに行ってるんだろうね」

 管理人はそう言い残すと、僕の前を横切って廊下の端から二階に上がっていった。キュウの部屋には相変わらず人の気配はなかった。キュウがいつから姿を見せてないのかも、もうよくわからなくなっていた。

 煙草に火を点ける。吐き出した煙を眺めていると、上半身裸のケイスケが部屋から出てくる。

「…誰かの声聞こえたと思ったけど、キュウさん戻ってんの?」

 ケイスケは辺りを見回すような仕草を見せる。寝起きだろうとは思ったが、眼が顔に埋まりそうなほどむくんでいて、赤紫に腫れた足首を引き摺っている。刺青を入れたほうの足だ。

「いや、管理人が居ただけ…。それ、大丈夫なの。ずいぶんと辛そうだけど」

「やばいね…、熱あるみたい。何だろう、これ」

「何だろうって…、馬鹿、刺青のでしょ。腫れてんじゃん、ばい菌でも入ったんだよ、だから止めとけって言ったじゃん、訳わかんない奴にやらせんのは…。顔もすげえむくんでるけど、目とか見えてるの、そんなんで」

「あんま見えてない…、ちょっとぼやけてる」

 ケイスケは崩れ落ちるように僕の横に座り込んだ。肩が触れる。熱かった。指を差し出してくる。僕は吸っていた煙草をケイスケの指先に挟んでやった。

「薬とか飲んだほうがいいんじゃないの。さっきまでここに居たからさ、管理人…、呼んでやろうか」

「いや、いい…。クサとか吸ったら治りそう…」

「お前、死にたいのかよ、治るわけないじゃん」

 ケイスケは笑いながら煙草の煙を吐き出した。

「…やっぱ気持ち悪い」

「大丈夫かよ…、病院とか行ったほうがいいんじゃないの。サエコは何処よ…、居ないのかよ」

 ケイスケはゆっくりと首を振る。そのまま手を膝に突いて立ち上がろうとするが、前のめりになって中庭に突っ込みそうになる。立ち上がった後も動かずに、僅かに揺れながら宙を眺めていた。

 足音が聞こえてくる。顔を向けると端の階段からヒロシが降りてくるのが見えた。眩しそうに帽子を直している。僕達を見付けるとこちらに向かってきた。にやついている。

「真っ昼間からやばいことやってるんやろう…、怖いなあ」

 ヒロシは僕とケイスケの前に立ち止まってそう言った。ケイスケが力なく手を挙げて会釈する。

「真っ昼間って言ったって、そろそろ夕方だけどね。ヒロシさんさ、この辺にある病院とか知ってるかな」

 僕がそう訊くと、ヒロシは首を傾げた。

「この辺やとどうやったかなあ…。誰か具合でも悪いの?」

「いや、ケイスケが熱あるみたいでさ」

「ほんとやね、顔腫れてる…」

 ヒロシがケイスケの顔を覗き込む。ケイスケは中庭の一点を眺めたまま殆ど動いていない。

「多分、刺青入れたときに菌でも入ったんじゃないかって思うんだけど」

「どうやろ…、刺青っていったって怪我と同じやから、熱出てるだけやと思うけどね、ざくっと切ったりとか、骨折ったりしたら大体そうなるやろ」

「そんなもんかな」

「うん…、そんなもんやと思うけどね。病院、この辺にはないと思うから、行くなら隣街のほうやね、保険とかないと高いけど」

「熱っ」

 ケイスケが手にしていた煙草を落として声を上げる。床に転がっている煙草はフィルターの部分にまで火が点いていた。

「取りあえず、寝てるのがええと思うよ。熱が引くまでタオルか何か濡らして頭に当ててなよ」

「…クサ吸ったら治るかなって思ったんだけど」

 ヒロシの話を頷きながら聞いていたケイスケがそう返す。

「…そうかもしれんね、この辺の人は風引くとスープに混ぜて飲むらしいから」

「え、本当に? 大丈夫なの」

 僕が聞き返すとヒロシが考え込む。

「…うーん、大丈夫なんやないかなと思うけどね。効かんかったとしても、寝てればいいだけやしね」

「やっぱりね、そんな気はしてたんだよ…、持ってんでしょ」

 ケイスケが手を差し出してくる。顔が浮腫んでいてよくわからなかったが、たぶんにやついている。仕方なく胸ポケットの煙草の箱からジョイントを取り出して、ケイスケに渡す。ケイスケはすぐに火を点ける。深く吸い込むと、ゆっくりと煙を吐き出した。

「うん…、多分効いた」

 ケイスケがジョイントを返してくる。受け取った僕に向かって笑みを浮かべる。ヒロシが笑い出す。僕も笑う。ケイスケは空を見上げるように顔を上げる。そのうちにゆっくりと体が揺れ始める。腰から上がふらついている。倒れ込みそうになって、折れた上半身を支えるように、膝に手を突いて項垂れた。

「大丈夫かよ…、やばいんじゃないの」

「うん、駄目だな…、気分悪い。寝てるわ」

 顔を上げてそう呟いたケイスケは、そのまま歩いて部屋の中に戻っていった。

「…大丈夫かな、あいつ」

「大丈夫、大丈夫」

 ヒロシはそう言いながら僕が回したジョイントを咥えて笑った。今日起きてから何本目かのジョイントをヒロシと回した。

「外でやるんはいいよね、気持ちいい。最近は天気もいいしさ、これからはずっと外でキメるしかないね」

「あれ…、部屋の中で何かキマってたんじゃないの。シラフなわけないしさ、ヒロシさんが…」

 ヒロシは僕が喋り終わる前に、財布の中から何かを取り出す。その様子を眺めていた僕の手の平に包みこませるように、小さな紙切れ渡してきた。

「相変わらずやけど、それ食ってるよ。部屋出る前に口の中に放り込むだけでね、こう、ぐっ、ぐってのが、ぐるん、ぐるんって感じやね」

 ヒロシが車のハンドルを切るような仕草を見せる。僕が笑い出すと、嬉しそうにヒロシも笑う。

「…今日って、これからどっか行く予定あるん?」

「いや、ケイスケもあんなだし、キュウさんも居ないしさ、特に決めてないよ」

「そう…。それやったら、たまにはバーハーツにでも遊びに行ってみようか、最近顔出してないでしょ」

「最近はそうかもね。でも、バーハーツに行くにはまだちょっと時間早いでしょ」

「そうやね…、でもまあそれ食って遊んでれば丁度ええんやないかな、僕なんかはビリヤードやってるしね。それ、この間カオルちゃんとこで仕入れたやつなんやけど、結構ええ感じやから」

 そう言いながらヒロシが僕の横に座る。緩んだ眼で僕を見ている。黒目が細かく揺れて輝いている。螺旋が回っているようだ。手の平を開いてみる。真っ白い紙切れだと思ったが、よく見ると薄く紫がかって見えた。ヒロシが自分の舌を指差して促してくる。僕はそれに倣って紙切れを口に含んだ。舌の上で転がしてみるが何の感覚もない。口の中に広がった痺れるような苦みはすぐに消えていった。

「すぐに効いてくるやろうから、行ってみようか、バーハーツ」

 ヒロシがそう言って立ち上がる。にやついている。僕は座ったままでいた。

「…キュウさん、戻ってこないね」

 僕がそう呟く。ヒロシが唸りながら頷いた。

「どうなんやろうね、本土に戻ってるんやないかって思ってたけど、こんなに長いとね。島におるんかもしれんけど、ここに戻ってきてないんなら、どっかで野垂れ死んでるんかもしれんね、そうなったら君、キュウさんの部屋に入ったらええんやない」

 ヒロシの体越しに見えたホテル・セントラルの白い屋根に橙色の陽が射し込んでいる。ヒロシが笑っているように見えたのは、夕陽に照らされてできた顔の陰影がそう見せたからだった。僕の視線に気付いたヒロシはゆっくりと振り返る。夕陽に染まった空を無表情のまま黙って眺めていた。

 バーハーツまではヒロシと二人で歩いてきたが、敷地のモニターの前で立ち止まっていたら、いつの間にかはぐれていた。いつものようにサッカーをやっているのだろうと思ったが、まだ放送が始まっていないようだった。ただ青い画面が映されている。モニターの前に居るのは僕一人だけだった。

「…一人で来てんのも珍しいね」

 声を掛けてきた男がアキラだとわかるのにしばらく時間が掛かった。そのせいか、アキラが吹き出すように笑い出した。

「今日は何キメてんの…」

 アキラがそう訊いてくる。僕は舌を出して見せた。

「ヒロシくんとこからでしょ、どう?」

「楽しいよ…、新モノみたい」

「サッカーとか見るんだっけ、今日はまだやってないみたいだけど」

「いや、画面…、青くて綺麗だなって」

「そっか…、うん、そうだね…。店の女の子達を接待してんだけどさ、落ち着いたら一緒に遊ぼうか」

 アキラはにやつきながらそう言った。背後に何人かの女が居る。女達は僕とアキラの様子を窺いながらバーハーツの入口に向かっている。きっと殆どが知っている女なんだろうと思ったが、誰一人思い出すことができなかった。

「…ヒロシくんとか来てないのかな」

 側にあったテーブルの椅子にアキラが座る。彫刻が喋っているようだと思った。地面に敷かれた石畳が何処までも、果てしなく続いている。並べられたテーブルの脚が巨大な建造物の柱に見える。傷んで割れた石畳の隙間から所々に草が生えている。長い間放置された遺跡に居るようだと思った。ずっと前から神聖な聖域だと言われ続けていた場所に足を踏み入れたような、そんな気がする。建物の屋根越しに見える空が暗闇に包まれてきている。視界に映っているもの以外の世界が欠落している。この空間だけが切り取られて、取り残されたように存在しているんだと思った。

「…ねえ、聞こえてる?」

 黙り込んだ僕を見て、またアキラが笑う。

「え…、何だっけ」

「誰かと一緒にさ、来てないの?」

「いや…、ヒロシさんとは一緒に来てたんだけど、はぐれちゃって」

「そう、ビリヤードでもやってんのかな…。ケイスケくんは?」

「あいつ刺青入れたでしょ、足首に…、そこんとこが腫れあがってて、たぶん部屋で寝込んでる。顔とかむくんじゃってさ、やばかったよ」

「そう…、サエコ、白い太ったおっさんに買われてたけど、別れちゃったのかね。まあ別にいいけどさ」

 アキラがそう言って僕から目を反らす。側に女が寄ってきていた。女はアキラの耳元で何かを話している。アキラが何度か相槌を打つ。しばらくして女は側から離れていった。

「何だかよくわかんないけど、騒がしいみたいだね…、何かあったのかな」

 アキラがバーハーツの入口に向かって歩いていく女を眺めながら、そう呟く。

「…ま、よくわかんないから別にいっか。喉乾いたしね」

 そう言って立ち上がったアキラが敷地の端を指差して歩き出す。モニターの奥にある屋台の売店に向かっているようだ。僕も後を付いていく。雑踏のざわめきが頭の中に溢れるように響いている。洪水の川を渡っているようで、うまく歩けない。ようやく売店に辿り着く。ずいぶんと長い時間歩いていたような気がするが、待っていたアキラは何も言わなかった。アキラからビールを受け取る。売店の中で椅子に座っている男が愛想笑いを浮かべながら僕を見ている。蝋人形のようだと思った。ビールを飲み込んだ後、舌の上で転がしていた紙切れがなくなっているのに気付いた。

「…キュウさん、まだ戻ってないんだってね」

 アキラはそう言いながら売店の側から離れる。僕はビール瓶を咥えたまま頷いた。

「うん…、今日も部屋に居なかったよ」

「ひょっとして、もう島出ちゃったのかもね。このまま戻らなかったらさ、君があの部屋に入ればいいんじゃない」

 アキラがそう言って笑う。

「ヒロシさんと同じこと言うんだね。キュウさんの前に居た人もそうだったんでしょ、突然居なくなったって、ヒロシさんがそう言ってたけど」

「そうだね、ずいぶんと昔のことだからよくは覚えてないけど、山に登ったまま戻らなかったんじゃないかな。キュウさんとかその人にべったりでさ、今だともう、やることなすことがさ、そっくりになってきてるよ」

「じゃあ、キュウさんもその人みたいに山に登ったのかな…」

 元居た場所に向かっていたアキラが歩くのを止める。横目で僕を見る。僕も足を止める。二人で立ち止まっていると、辺りの照明が次々に点灯されていく。敷地の石畳にテーブルや建物の影が何重にも重なっていき、全ての照明が点灯されると消えていった。アキラが何かを喋ろうとしたが、側に寄って来た女達に捕まった。バーハーツから出てきたようだ。僕は女達の声が聞き取れないくらいの距離に離れた。何を喋っているのかを理解するのが面倒だった。アキラは女達の話に相槌を打ちながらも、僕から目を離さなかった。

「…自分が何してるのか、わかってないって感じ?」

 声を掛けてきたのはナオミだった。しばらく立ち尽くしていた僕の側に一人で近付いてきていた。

「…あれ、なんでここに居るの?」

 僕の言葉にナオミが笑う。

「さっきも会ったわよ。アキラとみんなとで遊びに来てるんだけどね、死体が見つかったんだって騒いでるの…、山の頂上で」

「え…、山の頂上って…」

「湖があるのよ、知らない? そこの湖畔で見つかったんだって。これから麓まで降ろしてるみたい…、近くよ」

 そう言ったナオミが誰かに呼ばれて振り返る。そのまま僕の側から離れていった。僕はその場から動けなかった。今度はアキラが近付いてくる。

「聞いた? 山で誰か死んでたんだって…。今、降ろしてるみたいなんだけど、警察とかがかな、山の入口そんなに遠くないからさ、見に行ってみようか」

 アキラがそう言いながら歩き出す。僕を気に止めようともしていない。僕は慌ててアキラに付いていく。アキラの足が早い。遊びに行くのを楽しみに帰宅する小学生のように見えた。バーハーツから通りに出る。何かを話し掛けようとしたが言葉が浮かんでこない。アキラが横目で僕を見る。笑っている。

「…居なくなる前に、ヒロシ君と居るのを見た子がいるんだって、キュウさん…、一緒に山に登ったのかもね」

「え、どういうこと?」

「揉めてたんでしょ」

「いや…、よくわかんないけど…」

 辺りが騒がしくなってくる。喧噪に掻き消されて声が届き辛くなってきたのか、アキラは口を開かなくなった。笑みを浮かべたま歩いている。バーハーツからはずいぶんと離れて、大通りに向かっているようだった。普段は誰も居ないような場所に人が集まっていて、次第に密度を増していく。明らかに普通ではない。パレードでも待っているかのように、細い通りの両脇に人がひしめき合っているのが見えてくる。二人で立ち止まる。何かの会場のようだった。立ち並ぶ人々の背中に体を擦り付けながら進んで、人だかりの先頭に立った。開けた視界の先に舗装路が見える。島の大通り、外周道路だ。その大通りを挟んだ向かい側に、密集した林に口を空けたような登山口が見える。誰かが下りてきた。深緑色の制服を着た男が何人か居る。担架が見えた。掛けられた毛布の膨らみが人が横たわっているものだと想像させる。男達が通りを渡ってくる。僕とアキラの前を横切っていく。担架に掛けられた毛布の端から衣服の布がはみ出している。泥にまみれていたが、色が付いた鎖模様が見える。キュウがいつも腰に巻いているスカートだった。アキラが大きな声で笑い出した。

「ほら、やっぱりキュウさんでしょ、そうじゃないかなって思ったんだよね」

 周りの視線が笑い続けるアキラに集まる。僕は言葉を口にすることも忘れていた。上半身の血管が萎んでいくのがわかる。血が回っていない。視界が収縮していく。足がふらついている。意識なく後ずさる。何かが踵に躓いた拍子に膝の力が抜ける。崩れ落ちるように、僕は地面に転んだ。アキラが更に声を上げて笑う。息が詰まる。吐き気がする。近くに居る誰もが僕とアキラを見ている。皆笑っている。暗がりの中、白い歯と眼球がいくつも浮かんでいるように見える。自分がどうやって起き上がったのかもわからないまま、元来た道を駆けていた。何度か足を取られて転びそうになる。視界が重い。瞼を閉じたくなる。景色がコマ送りのように過ぎていく。どうして走っているのかもわからなくなる。ゆっくりと走る速度を落とす。丘のような坂道を登り切って立ち止まる。平衡感覚がない。ふらつきながら近くの建物にぶつかるようにしてもたれ掛かる。壁を背にしてそのまま地面に座り込む。心臓が脈打つたびに全身が跳ね上がりそうになる。深く息を飲み込んで、荒い呼吸を整えようとする。辺りは真っ暗だ。誰も居ない。緩やかな風が吹く。頬が濡れているのに気付く。血だと思って慌てるが、手で拭うと涙だった。記憶の中の風景が痺れるように薄れていくなか、開かれることのないアルバムから一枚のくすんだ写真を取り出してみたかのように、登山口から担架を持つ男達が下りてくる様子を思い出す。そのときの光景が視界に焼き付く。キュウは本当に死んだのだろうか。涙が溢れてくる。死んだのは自分だったんじゃないだろうか。あの担架に横たわっている僕を、キュウが笑いながら見ていたような気がする。涙で滲んだ視界が歪んでいく。何も見えない。自分が何処にいるのか、立っているのかも座っているのかもわからない。両手で涙を拭う。上空に星空が広がっていた。敷き詰められた星が煌めく夜空に投げ出されて、宙に浮かんでいるんじゃないかと思った。どこからか漏れた音楽が聞こえてくる。大きく輝く満月が口を開けて歌っているようだった。

 立ち上がった僕はゆっくりと歩き出していた。辺りの景色に覚えはなかった。気が付かないうちに音楽が鳴っているほうへ近付いている。丘を降りきると明かりが見えた。入口らしき壁の切れ目から中を覗き込んでみる。石畳が敷かれた床にテーブルと椅子が無造作に並べられている。頭上には低い屋根が掛かっており、辺りは柵で囲まれている。正面に見える建物のテラスのようだ。テクノ系のベース音が聞こえてくる。クラブだろうと思う。テーブルの脇をすり抜けるようにテラスの中ほどまで歩く。始めて来る場所だった。小さな電灯がいくつか点けられてはいるが薄暗い。椅子の背が腕にぶつかって立ち止まる。手を突いてその椅子に座る。煙草に火を点ける。ゆっくりと辺りを見回す。端のテーブルに女が座っている。誰も居ないと思っていた。うまく女にピントが合わない。こちらを見ているんだと思う。しばらくするとまた視界が歪み始める。煙草が手から落ちる。落ちた煙草を探そうと床に目を下ろす。石畳の細かい模様がざわめいている。目に映るもの全てが水に浮かぶガソリンのように揺らめいていて、解け合いながら混じり合っていく。両手で顔を覆うように頭を抱え込む。眼球が押し潰されそうなくらい圧迫されている。瞼を閉じると暗闇が広がる。また、自分がどこに居るのかわからなくなる。

 出来の悪い鈴が鳴ったような音がした。顔を上げる。テーブルの上に大きな丸いグラスが置かれている。細かく砕かれた氷の中に濃い水色の飲み物が注がれている。グラスの横に女が立っていた。

「何これ…」

 女に訊く。女は僕の横にあった椅子に座る。

「…ただのカクテルよ、女の子に人気があるの」

 リョウコだった。掠れそうで、それでも通る声を聞いて気付いた。リョウコは指に嵌められた二つの指輪でグラスを弾く。また、鈴のような音が鳴った。グラスに刺さっていたストローを僕のほうに向けてくる。僕はストローを吸い込む。グラスを押さえ込んだ手の平が濡れる。舌が焼けるように痺れる。飲み込んだ後、きついハーブの香りが口に残った。

「おいしい?」

「甘いかな…、よくわかんないけど、ベロが痛い。体によくはなさそうだね」

 僕はそう言って舌を出して見せた。痺れた舌がカクテルの色に染まっているような気がした。

「ここで何してるの?」

 リョウコが訊いてくる。僕の目を見ている。この場所に踏み入れた僕を、ずっと見ていたのだろうと思った。

「よくわかんないけど、迷いこんじゃって…。来たことないみたいだから、この辺り」

「来たことないって…、バーハーツよ、ここ。みんな中で踊ってるわ」

 そう言われて、僕はしばらく何も返せなかった。リョウコが微かに笑う。改めて建物のほうを見回す。確かにバーハーツの面影があった。いつも入っているのは正面で、裏手のほうなんだろうと思った。

「みんな踊ってるんだ…。アキラさんとかも居るの?」

 僕がそう訊くと、リョウコは元居た端のテーブルに目を向ける。

「そこのテーブルにみんなで居たんだけど、アキラは一度も戻ってきてないし、わかんない…」

 リョウコはそう言って首を傾げる。端のテーブルの上にはいくつかのグラスが置かれたままになっている。グラスには橙色の電灯が映り込んでいて、蝋燭が並べられているように見えた。

「山で死体が見つかったって聞いて、見に行ったんだ。下ろしてくるからって言ってたから、山の麓まで行ってさ、担架が運ばれてるくるのを見たんだ。そしたら、そうじゃないかなって思ってたら、やっぱり死体はキュウさんだったみたいで…」

 僕の言葉を遮るように、リョウコが笑った。

「…キュウなら飛行場がある向こうの街に居るわよ、女の子と一緒に歩いてるの見たって子がいるから…」

「え…、でも、アキラさんも担架で運ばれてるの見て、あれはキュウさんだって、そう言ってたから…」

「向こうに居るの、アキラが知らない話じゃないと思うけど、からかわれたんじゃない? 女の子って言っても中身はかわいい男の子だから、そういう子を買うときは、セントラルから離れるのよ、キュウは。それに見つかった死体って何年も経ってて白骨化してるって聞いたわ、昔セントラルに居た人よ、きっと。みんなそう話してる、キュウが来る前に同じ部屋に前に住んでた人だって」

 笑みを浮かべたままそう言ったリョウコを、僕はしばらく眺めていた。

「ほっとしたの?」

「…何だろう、よくわかんないな」

 椅子が擦れる音がする。立ち上がったリョウコが僕の体に振れそうな距離に寄ってくる。僕はリョウコを見上げた。リョウコは指に嵌められた指輪の一つを外す。テーブルに置いてあったグラスの中に外した指輪を潜らせると、そのまま自分の口に含んだ。カクテルに濡れた指先で、撫でるように僕の首に手を回してくる。リョウコの顔が近付いてきて、唇が重なった。春先の街角で受けた突風のようなキスだった。歯に当たった指輪の音が頭に響く。リョウコが唇を離す。舌で探ると金属の苦い味がした。

「いつまでも居るわけじゃないんでしょ…、この島に」

 リョウコが訊いてくる。僕は口の中にあった指輪を自分の手の平に吐き出した。リョウコがそれを手に取る。

「わかんない…、まだ居るとは思う」

 僕がそう言うと、リョウコは微笑みながら、僕の指に指輪を嵌めてくる。その間も僕の目から視線を外そうとはしなかった。リョウコは僕の手を絡ませて離さない。僕とリョウコの指に、同じ形をした銀色の指輪が鈍く輝いている。

「時間なんてあっという間に過ぎるわよ。楽しまないとね…」

 リョウコは笑みを浮かべたまま僕の隣に座った。僕は踊り場のほうに目を向ける。アキラや女達が戻ってくるかもしれないと思った。今から始まるショーを二人で待っているような、そんな気がした。

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