第8話

 アキラの家の縁側から外に出て、草木に覆われた手付かずの庭の端をぶらついていた僕に、ビールが注がれたグラスを持ってきたナオミが何かを言った。耳のすぐ裏で鳴かれているかのように響く虫達の鳴き声に掻き消されてよく聞こえなかったが、ナオミが指差した木々の間に夜空に浮かぶ月が見えたので、そのことを伝えるとナオミは笑いながら僕の耳元で、「昼間なら海が見えるの」と呟いて庭の中央に戻っていった。

 誰かが鳴らしたラジカセの回りで女達が踊り始めている。ケイスケとサエコも居る。ナオミが腕と腰を振りながら女達の輪を通り抜けていく。輪の中に居た色の白い女と目が合った。何処かで見たことがあるような気がしたが、ほかの女達もサクラ・バーでよく見る顔だったので、店の関係者を集めたのだろうと思った。縁側にアキラが座っている。少し離れたところに居るヒロシは女達と話している。アキラが僕に手招きをしている。

「パーティーどうするの…、行かないってことはないよね」

 アキラの前に立ち止まった僕に訊いてくる。

「…今日のじゃないよね、別のパーティーかな」

「そうそう、フルムーンパーティーって結構でかいイベントなんだけど、もうすぐだからさ」

「ああ…、みんな話してるもんね、ちょっと楽しみにしてるよ。アキラさんとかも行くんだよね」

「ヒロシ君とかケイスケ君とかは行くんだろうけど、俺はもういいかな。キュウさんはどうだろね、前んとき行きそびれてたみたいだから行くかもしんないけど、最近セントラルでも姿見せてないらしいじゃん」

「そうだね、部屋にも居ない感じ」

 僕がそう言うと、アキラはしばらく考え込む。両手を後ろに突いたまま夜空を眺めている。

「何か用事があって本土に戻ってるとかね、そんなことだとは思うけど、セントラルは変な人ばっかだからさ、何も言わずに消える人も多いんだよね。キュウさんは島も長いし筋金入りだけどさ、実際のところ、どうなるかなんてわかんないじゃん。まあキュウさんだけじゃないけどさ、みんなぶっ壊れちゃってるから」

 アキラは笑いながら縁側に転がる。

「後さ、ヒロシ君とうまくいってないんでしょ、キュウさん…」

 アキラは寝転がったまま、空に向かってそう言った。僕が黙り込んだままでいると、アキラが起き上がる。

「揉めてるって言ってたよ。出所は誰だか知らないけど、俺はナオミから聞いた」

「どうだろ…、普段暮らしてるだけならそうは見えなかったけどね」

「ふうん。まあ俺は結構前から知ってるからさ、二人供…、だから何となくはわかるよ。俺だってずっと一緒には入れないと思ってセントラル出てるからね。キュウさんも、普段遊びで付き合う分にはいんだけどさ、何か怖いとこあるんだよね、最後の最後でさ、付き合いきれないって感じてたのかもしれない」

 アキラがこちらを見ているが、僕は視線を外す。庭の様子を眺めたまま何も答えなかった。

「まあ、みんな楽しくやっていければ何でもいいんだけどね。後さ、パーティー行くのはいいんだけど、やばいモノは置いて行きなよ、結構やられてるからさ」

「…行く前にキメとけばいいんだよね。ふらふらで目いっちゃってても、モノなければパクられないって言ってたよ」

「そうだけどさ、そういうのも全部だからね。全部置いてかないとやられるよ」

 アキラがにやつきながら僕の胸ポケットを指差す。

「煙草も駄目なんだっけ…」

 僕がそう返しながら煙草のケースを手渡すと、アキラはケースの中のジョイントを取り出しながら、体を揺らして笑った。

「ほらね…、やばいやばい」

 アキラが取り出したジョイントに火を点ける。僕とアキラの頭上に白い煙が上がった。

 家屋からの灯りを浴びた羽虫が、火花を散らすように軒の下で舞っている。庭の先に見える林は真っ暗で奥が見通せないが、木々の頭が微かに白く輝いている。バーハーツがある繁華街の灯りだと思う。音楽の曲間に女達の歓声が上がる。ケイスケが出来上がったらしく、叫ぶように高い声を上げている。何人かは庭に散っていったが、殆どの女は踊り続けている。庭先はどこにでもあるクラブの踊り場のようになっていた。

 先ほどの踊りの輪に居た色の白い女が僕の隣に座った。料理が載った皿を手にしている。やはりどこかで会ったことがあるような気がしてそう訊いてみたが、女は笑っただけで何も答えなかった。女は僕の横に皿を置いた。香辛料の匂いがする煮汁に白身魚が浸っている。煮汁が跳ねたらしく、舌で舐め取ろうとしたときに見えた薬指に、二つの指輪が嵌められていた。島に来た初日にサクラ・バーに居た女だった。歪な二つの指輪と金木犀の香水の香りで、僕は女を思い出した。

「…バーハーツでも何度か見かけたけど、あなた、もう何年もこの島に住んでるみたいに見えるわ」

 女は微笑んでいるようにも無表情のようにも見える顔でそう言った。僕を見ている。思わず目を反らす。外した視線の先にナオミがいた。ナオミは横に居る女に何かを話し始める。女はナオミにリョウコとよばれていた。誰かがラジカセのボリュームを上げたらしく、ナオミは顔を近付けてリョウコに何かを言った後、脱ぎ捨てるようにサンダルを転がして縁側から家の中に入っていった。

「みんなにも配ってこなきゃ…、料理冷めちゃうから」

 リョウコは呟くようにそう言うが、僕の目を見たまま動こうとしない。

「それ…、指輪、イルカかな。なんで二つ付けてるの?」

 僕がそう訊いた。しばらく発していなかったかのように声が萎む。リョウコは少し首を傾げた後、笑みを浮かべる。

「そう、イルカ。二つで一つだから…、少しだけ形が違ってて、ペアになってるの」

 立ち上がったリョウコはそう言い残して僕の側から離れていった。握ってもいない手をゆっくりとほどかれたような気がした。重心を掛けて突いていた手の平が汗で滲んでいる。縁側の無垢の木が湿って黒ずんでいた。

 側で話しているアキラとヒロシの声が聞こえてくる。二本目のジョイントに火を点けた僕の横にケイスケが座ってくる。ケイスケはそのまま縁側に足を乗せるとジーンズの裾を捲って見せた。所々に傷があって紫色の痣のようにも見えたが、鎖模様の刺青が足首に彫られていた。僕が回したジョイントを摘んだまま、ケイスケは笑みを浮かべている。

「痛そうだね、ちょっと腫れてない?」

「まだ彫ったばっかだからな。でもいいだろ、腫れ引いてきたらもっとかっこよく見えるよ」

 ケイスケはにやつきながらジョイントを吸い込む。顰めた眉間の汗を手の甲で拭きとりながらジョイントを僕に差し出してきたが、それを取ったのは目の前に立っていたサエコだった。

「泣いたのよケイスケ、それ入れてるときに。私笑っちゃったわ」

 サエコは笑みを浮かべながらジョイントを咥えた。

「そりゃ笑えるね、見たかったよ」

「痛かったけど泣いてはないだろ…」

 ケイスケはそう呟くと、笑っている僕とサエコから目を離した。リョウコが置いていった料理を頬張っている。

「…キノコ食いに行ったって聞いたけど、マジックに」

 どこからか折り畳み椅子を持ってきたヒロシが、僕の目の前に座って訊いてくる。

「ちょっと前だけどね、やばかったよ。舐めてたんだけど、どこに連れて行かれるんだろって思ったよ」

「面白うそうやね、僕も食いに行ってみようかな、今度」

「ヒロシさんだとどうだろ、エルやってる人には物足んないと思うけど、まあ話のネタにはなるかな」

「私も行くわ、面白そう」

 サエコが僕の肩に手を載せて言う。

「じゃあみんなで行こうか、飯食いがてらに」

 ヒロシがそう言いながらケイスケとサエコに目を向ける。

「舐めてるとやられるよ。スープのほうが効くっていうから俺らそうしてもらったけど、初心者にはオムレツのほうがいいっていうからさ、サエコもそうしとけよ」

「ケイスケがスープでキメたんでしょ。なら私もそれでいいわ、ケイスケなんかより強いわよ」

「大体の男よか強いよ…、サエコは」

 ケイスケは笑わなかったが、僕とヒロシは声を出して笑った。

 縁側で一人黙って音楽に乗っていたアキラが庭に飛び出して踊り始める。アキラを追ってケイスケも庭に戻っていった。ヒロシも続く。残ったサエコが僕の横に座り直す。グラスの氷を口に含ませて遊んでいる。視線を合わせずにはいたが、こちらを眺めているようだった。

「夜にばかり遊んでいるんでしょ、ちっとも焼けてないわ、あなた」

「…そうかな。まあセントラルなんかじゃさ、みんなそうなんじゃない」

「同じじゃなくたっていいわ…、つまんない奴も居るんだから、セントラルにも。相手にしたくないし、あなたも真似なんかしちゃ駄目よ」

 庭に歓声が響く。ラジオを中心にアキラとケイスケが庭を走り回るように踊っている。バーボンの瓶を握ったヒロシは地面に座り込んで二人を眺めている。家の中から縁側に出てきたナオミが庭の様子を見て笑った。

「…サエコ、玄関の前にお酒が届いてると思うんだけど、取ってきてくれるかしら。アキラとかもうあんなだし、カゴが置いてあるはずだから、一緒に行ってきて」

 ナオミは僕を見ながらそう言った。サエコが何も答えずに勢いを付けて立ち上がる。

「そこの庭の裏から取りに行けるから。ちょっと狭いけどね」

 サエコはナオミの言葉に黙って頷くと、座っていた僕の手を引っ張りながら歩き出す。

「ちょっと…、靴履けてないって」

「平気よ、裸足でも…」

 サエコは微笑みながら僕の手を引っ張っていく。軒下はコンクリートで舗装されていた。サエコも止まるつもりはないようだったので、僕はスニーカーを履くのを諦めて、裸足で歩き出した。

 雑草とは思えない大きな葉に塞がれていて、家の裏に入れなかった。抱え込むように葉を掻き分ける。そういうつもりもなかったが、サエコが僕が避けた葉を潜り抜けて先に進む。笑みを浮かべている。サエコに続いて奥に入ったとき、草陰の暗闇を光が照らした。間をおかずに雷が鳴る。空を見上げるのとほぼ同時に雨が降ってくると、自分が何処に居るのかもわからなくなるほどの雨音が響き始めた。足元に土混じりの雨が弾ける。それを避けるように、僕とサエコは軒下の壁際に身を寄せる。庭からの灯りが消えて、歓声にも聞こえる女達の悲鳴が上がる。仰ぐように眺めた空は真っ暗で、降ってくる雨もよく見えなかった。

「みんな濡れちゃっただろうね…。灯りも消えちゃった」

 サエコの声が思ったより近い。肩が触れる位置に居る。蒸れた空気に混じって微かに香水の香りが漂ってくる。サエコが僕の腕を掴んでくる。離そうとしない。顔を上げて僕の目を覗き込んでくる。

「ねえ、ここならわからないわよ…、口でしてあげよっか」

 体を寄せて囁いたサエコの声が僕の首元をくすぐるように撫でる。視線を外せずにそのまま僕が黙っていると、サエコは僕の腕を離して笑い出した。

「…あなたの匂い、嫌いじゃないわよ」

 サエコが離れると、風が吹いた。足元にあった生温い空気がさらわれていく。サエコは壁に背中をもたれたまま俯いている。その後しばらくの間、口を開かなかった。

 次第に雨が上がっていく。雨音の代わりに木の葉や屋根から落ちる滴の音が聞こえ始める。サエコが一人で歩き出した。僕は足の甲に跳ねた土を拭う。後に付いていこうとすると、サエコが振り返る。

「いいわよ…、靴がないと濡れちゃうわ」

 サエコはそう言ってまた歩き出した。僕一人になってどうしようか迷っていると、庭のラジカセが再び鳴り出した。ケイスケがよく口ずさんでいる曲だ。ずっとどこかで聞いたことがあると思っていたが、バーハーツでよく流れている曲だった。音楽を聞きながら立ち竦んでいると、サエコが戻ってきた。酒瓶が入ったカゴを抱えている。

「これなら一人でも持てたわ」

 サエコが僕の目の前にカゴを置く。笑みを浮かべたまま僕を見ている。僕は置かれたカゴに手を掛けようとしゃがみ込んだ。屋根の先に見えた夜空にいつの間にか点された電灯の灯りが見える。その灯りが眩しくて両目を手で覆うが、指の隙間から見えたのは電灯ではなく月だった。

「じゃあ、後よろしくね」

 サエコが僕を追い越して庭に戻っていく。立ち眩みのような月明かりの中に、サエコの後ろ姿が包み込まれて消えていった。

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