第7話

 ヒロシが運転する軽トラックはしばらく海沿いの外周道路を走っていた。初日に降りた船着き場のある港を通り越して、山腹の峠道に入った後、脇道に逸れて下っていく。海のすぐ側、岸壁で軽トラックを止めたヒロシは少し離れた場所で知らない男と話している。僕が気になるのか男は何度もこちらに視線を向けてくる。肌は焼けているが現地人ではないようだ。僕は軽トラックから降りずにいた。岸壁には何艘もの漁船がひしめきあうように繋がれている。通りを挟んだ陸側には小屋が並んでいる。人の気配はない。作業か物置用の小屋だろうと思う。開けた窓からコンクリートに波が当たる音が聞こえてくる。柔らかい風に乗って、鳥の鳴き声がした。

「話付いたから…、行こうか」

 戻ってきたヒロシが声を掛けてくる。ヒロシと話していた男はもうその場から離れていた。僕は軽トラックから降りた。改めて辺りを見回す。ヒロシが視線を向けている先、小屋の裏はそれほど高くはないが山の斜面になっていて、殆ど崖に近い。小屋の奥まで見通せるわけではなかったが、何かがあるようには見えなかった。

「何も見えないけど、この辺り…」

 僕の言葉にヒロシがにやつく。

「この岸壁に沿って、この先をずっと歩いていくとドックがあってね、さっき話してた奴もその近くに宿があって、そこに帰っていくんやと思う。知ってるかなドックって。船を陸に揚げて修理する工場なんやけど、岸壁くり抜いたでっかい穴があってね、そこに船入れて海水抜く感じやね。今日はそこまで行かんけど、穴って言ってもね、多分君が思ってるんよりもずっとでかいよ…。ビーチでふらふらしてる僕らにはあんまり縁はないんやけど、この島の人間にとっては生活の場でね、男はそこで働くか、漁師やるかやから…」

 そう言って歩き出したヒロシを僕はしばらく眺めていた。ポケットのライターを探る。出てきたのはケイスケのジッポーだった。毎夜の騒ぎの内に紛れ込んだのだろうがよく覚えていない。咥えた煙草に火を点けて歩き出す。小屋の側で立ち止まったヒロシが振り返る。

「この奥やね…」

 ヒロシは僕の返事を待つこともなく、小屋の脇に滑り込むように消えていく。そこに道があるとは思えなかったが、躊躇しながら覗き込むように入った小屋の裏手は、両手を広げた程度の狭い路地になっていた。待ち構えていたヒロシは僕を確認すると、にやつきながら路地の奥に向かっていく。僕もヒロシに続いて奥に進む。路地を挟んだ小屋の反対側に建ち並ぶ建物は民家のようだった。山を背にするように建てられている。外壁だけ見ると朽ちた廃墟のようにも見えたが、猫か犬かが飼われている匂いに混じって生活臭がする。不規則に立ち並ぶ民家の土壁に沿って路地が続く。曲がりくねっていて先が見通せない。僕はヒロシの背中を追って縫うように歩いていく。踏み固められた地面に、土埃がこびり付いた生活器具や色褪せた民芸品のような物が転がっている。手に取れば粉々に崩れて、砂のように零れ落ちていくんじゃないかと思った。

 路地を抜けたらしく視界に空が広がった。狭い空き地に出たようだ。長屋のように連なった建物が周りを囲んでいる。巨大な建造物の中庭に居るようだった。どの建物も柱や壁の木材が火に巻かれたかのように黒くくすんでいる。煮立つ前の料理酒を撒いたような匂いがする。端にある入口側の壁が開かれた建物からだった。軒から突き出たテーブルに煤で汚れた鍋がいくつも並んでいる。鍋の料理はどれも飴を焦がして煮込んだような色をしている。まばらに座っている男達が食事を取っている。現地人ではないようだ。こちらを気にかける者は誰も居ない。ヒロシが油で汚れた地面の上で立ち止まる。煙草に火を点けて振り返った。

「着いた…、ここやね。まあサクラ・バーのある広場なんかとあんまり代わり映えはせんけどね」

「じゃあ周りは飲み屋…、かな。見えなくもないけど」

 僕はヒロシの横に並んでそう訊いた。ヒロシがにやついている。

「そうやね、やってることはサクラ・バーと変わらんかな。二階が連れ込み宿も兼ねてるから、もっとわかりやすいけどね。でもここには男しかおらんよ」

 ヒロシはこちらを見ずに話す。僕がしばらく黙り込んでいると顔を向けてきた。

「どしたん?」

「え…、いや、ちょっとよくわからなかったけど、売春宿ってことかな…。でもサクラ・バーは飲み屋だしさ、ちょっと違うでしょ。それに男しか居ないっての、どういうことかな…」

「まあ、一緒やと思えばええよ。サクラ・バーの女の子もね、バーで売り子やってるんはみんなそう、別に雇われてるわけじゃなくて、バーで酒売る代わりに客見つけてね、酒の上がりは店のオーナーんとこ、女の子は体売ってお金稼ぐ…。店自体はそんなに儲かってないとは言ってたけどね、アキラくんは。あの広場にあるバーは全部そうやと思うよ。ここは二階が宿やから、直行ってだけやね」

 そう言ったヒロシは吸っていた煙草を足元に落として、また歩き出す。僕はその場で立ち止まっていた。ヒロシは正面の建物の入口に吸い込まれるように入っていく。連なった建物は継ぎ接ぎだらけで原型がよくわからない。壁を蹴飛ばせば辺りを巻き込んで、積み木のように崩れ落ちるんじゃないかと思った。

 建物に入ると仕切りのない土間になっていた。ヒロシの姿は見えない。物が何も置かれておらず、解体前の住居のように生活感が感じられない。ドアが外された型枠だけの入口が見える。そこから誰かの話し声が聞こえてくる。型枠を潜り抜けるように奥に入る。土間自体も薄暗かったが、そこから先には外の光は殆ど届いていない。壁に掛けられた小さな灯りが届く範囲にヒロシが居た。カウンターの椅子に座っている。灯りに照らされて、飾り気のない灰色の石壁が見える。洞窟の中に居るようだった。

「あら…、待ってたわよ」

 オブジェに話しかけられたんじゃないかと思った。痩せているが肩幅が広く、化粧をした男がカウンターの中からそう言った。しゃがれているが高い声だ。ヒロシが僕を見て軽く手を挙げる。僕はヒロシの横に座ろうと、辺りを見回しながら椅子を引く。手を付いたカウンターのベニヤ板は所々が剥がれかけていて、ささくれ立っている。男が壁に掛けられた残りの灯りを次々と点け始める。次第に明るくなっていくカウンターの中に目を凝らす。物置のような古びた冷蔵庫がある。横のテーブルには調理器具やグラスが散らばって置かれている。それらが色褪せて見えるせいか、壁際の半円型の棚が零れ落ちそうなほどの酒瓶のラベルの色で溢れていて、廃墟のモノクロフィルムに合成されたベゴニアの花壇のようだと思った。

「あなた、港で見たわ。手を振っていたのよ私…、覚えてるかしら」

 最後の灯りを点け終えた男がそう言った。僕の顔を見ている。

「えっと…。ああ、フェリーに乗ってるときに…、かな。よく覚えてないけど、誰かが桟橋に居たような気がする。でもあれは知り合いか誰かを迎えに来てたんじゃないかなって思ってたけど」

「あなたをよ。やっと来たわね、ここに」

 椅子を手にしたまま立ち竦んだ僕を見て、ヒロシが声を出して笑った。

「座るとええよ、そこ。ビール…、じゃなくてバーボンやね、ロックで。暑いから景気付け」

 男はヒロシの注文に応えて用意したグラスに氷を入れ始める。僕は椅子に座った。男は作業の合間にも何度か視線を送ってきた。

「女作らんからね、この子。カオルちゃんにも目はあるかもしれんけど、騙したらあかんよ」

 カオルと呼ばれた男は唇を閉じたまま微笑む。アーリータイムズのボトルを抱えるように手に持っている。

「…男しか居ないってそういうこと?」

「そういうことってなんやろう。でもまあ見たまんまやね、売るもんも買うもんも、みんな男」

「…知らずに来たの? 変な子ね」

 そう言ったカオルが空のグラスにバーボンを注ぎだす。

「あ、ビールにしようと思ったんだけど、いいかな」

 カオルは僕の言葉に手を止めて微笑んだ。冷蔵庫からビール瓶を取り出して栓を抜くと、バーボンが入ったままのグラスに注ぎだした。止めようとしたが声を出せなかった僕を見て、ヒロシがまた声を出して笑う。

「ヒロシが連れてくる子はみんな大事よ、あなたは特にね。港で見たのは本当なんだから」

 カオルは笑みを浮かべたまま僕とヒロシの前から離れた。僕がグラスを手に取ると、ヒロシが重ねてくる。重厚なグラスで、低い音が鳴った。

「楽しそうでよかったよ。ホテルのある辺りからあんま出てないでしょ。ケイスケ君やキュウさんなんかと一緒におるんはよく見るけど、夜はいつもサクラ・バーやしね」

「…たまには出るけど、そんな遠くへは行かないね。ケイスケとかと居るときは何かしらキマってるからさ、酒飲んでぶっトンで、大体それで朝まで終わっちゃう」

「島に来た初日からずっとぶっトンでるんやろ、そんな奴はあんましおらんよ。ケイスケ君なんか、初日からサエコちゃんとおったような気がするし、女やったらどこでも買えるからわかるけど、初日から一人でさ、クサとかクスリとか手に入れてキマってるってのは流石にないと思うけどね」

「…初日にクスリくれたのって、ヒロシさんじゃなかったっけ」

「そうやったかな…、もうずいぶん前みたいに感じるなあ」

「…野暮用に付き合えって言ってたの、ここのこと? 女作らないって言っても、島に来て毎日がお祭りでさ、ただただ騒いでるのが楽しいってだけで、そんなケは全然ないんだけど…」

「そりゃ残念やね。まあいいけど、用ってのは別…、これのことやね」

 そう言ったヒロシが口を開けて、舌を出してみせる。小さな紙切れが舌の上に張り付くように載っている。

「ああ、エル食ってたんだ。ひょっとして車乗ってるときから?」

「そうやね。ちょっと来るのが早かったみたいやから、バーボン入れて待ってるんやけど、僕が言ってもって感じやし、感覚が麻痺してるやろうから信じられんかもしれんけどね、そんな簡単には手に入らんのよ、クサもクスリもね。何でもありっていうのは案外狭い範囲でね、そこらにおる人みんなそうってわけじゃないのよ」

「よくわかんないけど、それがここに来たのと関係あるの? それに、ヒロシさんとか、セントラルの人と一緒に居るとさ、この島の人みんなぶっトンでるんじゃないかって思っちゃうよ」

「そっか、そりゃそうやろうね」

 ヒロシはそう言って笑った後、空けたグラスをカウンターに置いた。結局、何の用でここに来たのか、ヒロシの話ではよくわからなかった。僕もグラスに口を付ける。ビールで割られたバーボンは、終わりかけの夜に飲むような酒の味がした。

 入口から物音が聞こえてきて、カオルと紫色のドレスを着た男が入ってくる。紫色のドレスを着た男が側に寄ってきて、ヒロシの背後に立った。脇に置かれていたバーボンのボトルを持ちあげている。僕と目が合うと、男はヒロシのグラスにバーボンを注ぎながら微笑んだ。

「…今日はちょっと早いんかな、まあちょうどよかったんやけど」

 ヒロシが振り返りながら訊く。

「カオルちゃんが呼びに来てくれたのよ」

「そっか…、そんなつもりはなかったんやけど、悪かったなあ」

 ヒロシが立ち上がりながら財布を取り出す。抜き出した札をカウンターに置いた後、何枚かを紫色のドレスの胸元に挿し込んだ。

「ちょっと行ってくる…」

 ヒロシはそう言い残してカウンターから離れる。紫色のドレスを着た男がヒロシの後に付いていく。二人はカウンターの端にあるドアの奥に入っていった。開いたドアから階段を上がっていく姿が見えた。

「お楽しみだからね…、邪魔しちゃだめよ」

 そう言いながらカオルがカウンターの中に入っていく。カオルが側から離れた後、香水の匂いがした。薪を燃やしたような香水の残り香で、ぼくは島に来た日、フェリーから港に降り立ったときのことを思い出した。

「フェリーから降りるときにフライヤーくれたよね。何かの告知だと思ったんだけど」

「そうよ、ちゃんと見てくれた?」

「いや、燃やしちゃった…、ジョイント巻く紙なくてさ。ちょっとしか見てないからよく覚えてないんだ」

 カウンターの中でグラスを片付けていたカオルが手を止める。少し離れた場所に居たが、僕の側に寄ってきた。

「パーティがあるの…、フルムーンパーティよ。盛り上がるから来るといいわ、場所なんかはヒロシが知ってるから。でも嬉しいわ、覚えててくれたのね」

 そう言ってカオルは作業に戻っていった。僕はやることもなくカオルの様子を眺めた。目が合うたびにカオルは笑み作ってみせる。グラスを手に取ると、溶けた氷が崩れる音がした。

 僕がグラス空けた頃に、ヒロシが一人で戻ってきた。同じ椅子に座るとグラスを一気に煽る。

「…早かったね」

 ヒロシは僕の言葉にすぐには答えない。にやつきながら、咥えた煙草に火を点けている。

「どういう意味なんかな…。まあええけど、今日はこれ仕入れに来たのよ」

 ヒロシはズボンのポケットから小さな瓶を取り出して見せる。濃い緑色で香水の瓶のように見えた。しばらく手の平にかざした後、カウンターの上に置いた。

「何これ…、香水かな」

 僕は瓶を手に取って訊いてみる。ヒロシは咥えていた煙草を手に取って、自分の口の中を指差した。

「これ、LSDの原液…、このまま飲んだらたぶん死ぬ。小さな紙切れに吸わしてね、口の中で転がすわけ」

「へえ…。でもこれ、量多いよね、紙切れって言ってもさ、小指の先より小さいじゃん、何回分くらいあんの」

「どうやろうね、さすがに自分でやる量じゃないし、そんなつもりで仕入れたわけじゃないからね…。これ、売り捌こうと思ってるのよ」

「…結局、プッシャーやるって話、本当だったんだ」

「うーん、どうやろうね、正直なところそこまで気合い入れてやろうとか考えてたわけじゃなくて、小遣い稼ぎって言うか、この辺で暮らしていけるだけの金が稼げればいいかなって。このルートもね、別に探してたわけじゃなくて、たまたま知っただけでね、岸壁で話してた人居たでしょ、あれ海の人…、貨物船の船乗りでね、その人がどっかの国で仕入れたブツをここの子に預けてくれるってわけ」

「…それってさ、結構やばいよね、そんなのここで話していいの?」

「これくらいの話ならそこら中に転がってるし、ルートはここだけやないから別に大した話やないよ。それに僕ね、君と一緒にこの商売やりたいと思っててね…、どうかな」

 カウンターの中を向いていたヒロシが横目で僕を見る。僕は何を返したらいいのか分からずに黙り込む。

「…急に言われても困るかな」

「いや…、この島なんてセントラルの人くらいしか知らないからさ、売りさばく伝手なんかないし、そんな話、ちょっと思いもしてなかったよ」

「島の中に限った話じゃないよ。たとえば君が本土に戻ったとしてね、これ染み込ませた切手貼って、僕が君に手紙出すとかね、君は切手をもうちょい細かくして売り捌くだけ、まあ大々的にやったらやばいことになるけど、君の周りにおる連中だけやったらそんな問題でもないと思うよ。まあ例えばの話やけどね…」

「よくわかんない…、やっぱり想像つかないよ。他の人はどうなの…、アキラさんとかさ、もう住んでるみたいなもんでしょ、この島に」

「アキラくんはさ、自分のこと飽き性だって言ってるし、実際これからもずっと島におるんかはわからんしね。君はこの島にずっとおるんやないかなって、アキラくんも同じこと言ってたけど、僕もそう思っててね、そうなるんやったら一緒にできたらええなって」

「キュウさんは?」

 僕がそう訊くとヒロシは首を傾げながら考え込む。カオルが空いたヒロシのグラスにバーボンを注いでいる。ヒロシは溢れそうなグラスを爪で弾く。音は聞こえなかったがグラスが少し揺れたような気がした。

「キュウさんとかどうなん…、面白いん? しょっちゅう一緒におるみたいやけど」

 ヒロシが僕を見て訊いてくる。僕の目を覗き込むように見ている。思わず視線を反らすと、ボトルを持ったままのカオルが僕を見て微笑んでいた。頷いた僕のグラスにもバーボンが注がれる。

「…よくわかんないけど、つまんないと思ったことはないかな」

「そう…、僕なんかは結構長いからね。キュウさんもね、まあ普段はクサ吸ってニコニコしててね、誰とでもジョイント回すんやろうけど、たまに女買うときとかあってね、そんときは冷たいのよ、時期決まってるわけやないけど、たまにそういうときあって、部屋に女を泊めてる間はほんとに誰とも口聞かないし、顔も見せんのよ、尋ねていっても真顔であしらわれてね。実際のところね、どこで知ったんやろうか、この話にもかませろって言ってきててね、でも、ちょっとやる気がせんっていうかね…、今なんかもね、軽く誘ってるように見えるかもしれんけど、それは君やからってだけでね、それなりに気い付けんといかん商売やから、普段遊んだり一緒にキマってる分にはいいんやけど、ちょっと信用できんとこあるっていうか、やっぱり仕事するんは別やね、キュウさんと一緒にはできんよ」

 そう言ってヒロシは僕から目を離した。今度は僕がヒロシの目を覗き込んでいると、ヒロシが笑う。

「なんやね…、君は人が好きなんやろうね。いつもそうやって誰かを観察してるような気がするよ」

 ヒロシはにやつきながら僕を見る。僕はまた、逃げるようにヒロシの視線を外す。

「…前にね、丁度今キュウさんがおる部屋に住んでた人が変な人でね、アキラくんとかもまだセントラルにおった頃なんやけど、みんなでぶっトンでたんは今と変わらんけど、その人は飛び抜けててね、部屋の隅に座ってピンポン球を一日中床に跳ね返してたりしてるようなね、そんな人。僕とか最初ね、その人のこと見るのも話すのも嫌でね、とにかく極端なダウナーやから、釣られて動けなくなったりとかしててね、それでもその内に慣れてきて、その人とおるんが何となく心地よくなってきてね、ずいぶん長いこと一緒におった気がするよ。今思えばやけど、ヘロインかそれに近いのキメとったんやろうね、僕らはクサだけやったから、付いていけんかったね。あの頃のことはよく覚えてないけど、ピンポン球が床に跳ね返る音だけね、今でも耳に残ってるよ」

「…キュウさんはセントラルに居なかったの?」

「キュウさんは島に来たての頃やったと思うけど、まだ違うとこにおってね、何でか知らんけどセントラルに入り浸りになってて、その人居なくなった後にキュウさんがその部屋入るんやけど、いつやったかな、ほんとに何てことないダラダラと過ごしとった日にね、山に行ってくるって言ったんやって、そうキュウさんが聞いたって言っててね、どういうわけか、その後戻って来んかったね。部屋とかそのままやったんやけど、キュウさんがその部屋に入ったんはすぐやったな。家具とかもそのまんまらしくって、しばらくあの部屋入ってないけど、今も何も変わってないよ多分。そんでその内にね、服とかもさ、なんかスカートみたいなの腰に巻いてるやろ、ああいう着るもんから立ち振る舞いまで似てきてね、その人に。なんやろうね、アキラくんはその後すぐにセントラル出ていったから、そういうの見てるんが気持ち悪かったんやないかな」

「まだ島に居るのかな…、その人」

「さあ…、島にはおらんと思うよ。おるんやったらもう死んでるやろうけど、どうかな。アキラくんはね、キュウさんが絡んでるって思ってるみたいでね、はっきりとそう言ったわけやないけど、キュウさんがあの人に何かしたって思ってる。セントラル出て行くときにね、そんなこと言ってたから。アキラくん、あれでね、自分で言うほどね、おかしくはないんやと思うよ、もちろんまともな人間ってわけじゃないけどね。僕もそうやけど、キュウさんとトラブったんやろうなっての、みんな思ってたんやないかな。でも、それが悪いことって思ってるわけじゃなくて、傍目で見ててね、その人いつ死んでも可笑しくなかったていうか、完全に狂ってたからね。だから、おらんようになっても何とも思わんかったね。でもね、だんだんキュウさんがあの人の真似するようになってからはね、何て言うんやろうな…、まあ憧れとったんやろうね。あの人になりたかったんかもしれんね、三人共ね。それでもね、なれんのよ、あの人には。僕もアキラくんもね、それはわかってたんやと思う。キュウさんだけ…、狂ってる人の真似なんかできんってこと、キュウさんだけがわかってなかったんやろうな」

 揺れていたヒロシの目が収束するようにまっすぐと僕の目を捉える。今度は僕も視線を外さなかった。

「ああ、そうか…、君はあの人に似てるんやね。そうやね、それでやね…、君はずっとこの島におるんやって思ったよ。僕もね、アキラくんもね、みんなそう思ってるよ。そうやったんやな…」

 ヒロシが声を押し殺すように体を揺らして笑いだす。カウンターの中のカオルの姿が見えなくなっていた。僕は黙っていた。ヒロシがゆっくりと笑い終えると同時にボリュームが絞られたかのように声も音もしなくなる。毎夜見る目眩のような喧噪が信じられなくなるくらい、静かだと思った。

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