第6話
入口の天井近くに填め込まれた硝子窓から、水彩絵具を溶かずに塗ったような青い空が見えた。『フェイク』の店内にはそこ以外に採光窓がない。木漏れ日のように射し込んだ光が照らすビリヤード台を、キュウと白い肌の観光客風の男が囲んでいる。重厚な模様が彫り込まれたビリヤード台が狭いフロアを占めているので、座席はカウンターに並べられた椅子だけだった。入口に一番近い椅子に座っていた僕は、ビリヤードの球が弾ける音を聞きながら、手にしたカップに注がれたミルクティーの表面がさざ波のように揺れるのを眺めていた。
「…この後さ、サクラ・バー寄るよね」
横に座っているケイスケが話し掛けてくる。
「まあそうなると思うけど。いつものことだしね」
ケイスケは僕の言葉に間を置いて頷く。カウンターの中の少し離れた所に、店主のユイとサエコが居る。サエコと目が合ったように思えたが、こちらを見る気配はない。二人共真顔で何かを話している。
「一服キメた後、部屋でニヤニヤしてたら駆り出されちゃってさ、隣町に連れてけって。後でサクラ・バー戻るから訊いとこうと思って」
ケイスケはそう言いながらサエコを親指で指差す。
「…それ、どうしたの、目の下」
僕はケイスケの左目の下に出来た隈のような痣を見て訊いた。ケイスケはビール瓶を握ったままで、何も答えなかった。
「…お酒飲んでないのね、ビールじゃなくていいの?」
笑みを浮かべたサエコが、カウンターの中から身を乗り出して訊いてくる。
「起きたばっかだしね、朝からは飲まないよ」
「もうお昼回ってるわよ」
サエコは笑いながら僕達の前を離れる。カウンターの中で、ユイの作業を手伝い始める。
「何か手伝ってるみたいだけど、仲いいんだっけ。サエコがここに来てるの始めて見たけど」
僕が訊くと、正面を向いたままケイスケが唸るような声で頷いた。
「この辺の女ならどこのバーでも働くよ。サクラ・バー専属ってわけでもないしさ」
「そうなんだ、よくわかんないな…」
「…あいつさ、信じられる? あれさ、手に嵌めるやつあんじゃん、拳に、鉄のやつ。あれ付けていきなり殴ってくんだぜ、すげえ楽しそうにさ。笑ってたよ、あいつ」
「え、何で…」
僕はそう言った後、バーハーツで夜を過ごした初日の晩にサエコが言っていたことを思い出して、笑った。
「俺が訊きたいよ…。思い出した、メリケンサックだ。骨に鉄が当たる音聞こえてさ、ヒビ入ったかも。あんまし笑うなよ」
「適当にやり過ぎなんだよ、お前は…」
「何がだよ、ちゃんとやってるよ。ほんとさ、もう切れたいよ、あいつと…」
ケイスケは両手で揉みほぐすように顔を覆う。
「お待たせ」
サエコが背後から声を掛けてくる。いつの間にかカウンターの中から出てきていた。僕とケイスケの肩に手を乗せて、間に体を入れ込んでくる。
「隣町で何かあんの?」
僕が訊くとサエコが笑みを浮かべる。
「サンタフェのイベントがあるの。バーハーツなんかよりもおっきな箱なんだから、楽しいわよ。一緒に行く?」
「…そうだね、今度行ってみようかな」
「そう、じゃあまたね」
そう言ったサエコが手を振りながら席を離れる。
「…行ってくるわ」
ケイスケもそう言って立ち上がる。先に店を出ようとするサエコの背中を見ながら顔を顰めている。入口のドアに付けられた呼び鈴を鳴らしながら二人は店から出て行った。
店内に鳴り響いていた鈴の音が消えないうちに、白い肌の観光客が歓声を上げる。僕がそちらを向くとキュウの肩を掴んで握手をしていたので、ゲームが終わったのだろうと思った。
「やらないんだっけ、ビリヤード。ルールわかんないなら教えてあげよっか」
掠れているわけではないが風が吹いたような声だった。カウンターの中に顔を向けるとユイが僕を見ている。潰れたトマトの絵が描かれた缶詰を開けている。捲られた堅い生地のシャツの袖からは、島で出会う女達と同じように陽に焼けた肌が見えている。僕は首を横に振ってカップに口を付けた。下唇が火傷したらしくざらついていている。少しづつ何度も口に運んだ。
「口に合ったみたいね。いつも同じの飲んでるでしょ」
「ちょっと甘いけどね、斜めにしか立てないようなときにはちょうどいいから」
「そうよ、どうしようもない人達向けの味付けにしてるの。サンタフェでイベントあるんだって言ってたわ、サエコ。一緒に行かなかったの?」
「…そうだね」
「自分の時間で生きてるもんね、あなた達みんな…」
ユイは上目で僕を見ながら微笑んでみせる。その後すぐに、作業をしている自分の手元に目を落とす。
「あのさ…、そのビリヤード台、どうやって店に入れたの」
ユイの手が止まったので、カップを持つ僕の手も止まる。囁くような笑い声が聞こえてきた。
「変なこと考えるのね。初めてよ、そんなこと訊いてきた人」
ユイはそう言いながら側の鍋に火を掛ける。鍋のすぐ横には開いた缶詰が何個か置かれている。
「…台を入れてから店を作ったの、本当よ」
ユイの声がコンロから噴き出して燃えるガスの音に溶け込むようにように混じり合っていった。鍋を掻き回しながら俯くユイの顔はよく見えない。誰に向かって言ったんだろうと思った。玉葱が焦げる匂いがする。少し動いた拍子に表情が見える。ユイは笑みを浮かべている。缶詰のトマトを鍋の中に掻き出し始めた。
白い肌の観光客が短パンのポケットから出した札をカウンターに置いて、サンダルで地面を擦りながら店を出ていった。呼び鈴がまた店内に響き渡る。鈴の音が鳴り止むとコンロのガスが燃える音だけが残った。汽笛が鳴り響いた後に聞こえる船の航行音のようだった。島に来た日、いつ着くのかも想像もできないほど見渡す限りの青い海を、フェリーの甲板の上に座ってずっと眺めていたことを思い出した。
「ビリヤードやんないよね、面白いのに…。この辺だとエイトボールっていって、あんまりナインボールはやんないんだよ」
側に近付いてきたキュウが椅子には座らずにそう言った。ゲームが始まる前に頼んだミルクティーのカップを手にしている。表面に張っていたミルクの膜が波立って破けた。
「ケイスケもだけど、あんまりやんないかな。ヒロシさんとかはバーハーツとかでもよく台の前に居るし、好きみたいだけど…」
「そうだね。長いこと居ると、島も遊ぶことなくなっちゃうしね、海も山も飽きちゃうよ。ビリヤードくらいかな、島に来てからずっとやってるのは…。多分、ヒロシ君もそうじゃないかな。ヒロシ君、最近来てる?」
キュウは口の周りを手の甲で拭いながらカウンターの中に声を掛けた。
「ここ何日かは見てないわね」
鍋を掻き混ぜるユイの手元から湯気が上がっているのが見えた。
「でも、今日にでも来ると思うわ、頼まれたもの届いてるから。ヒロシと遊びたいんなら待ってるといいわよ、キュウ」
ユイが鍋から離れて店の奥に向かった。コンロの火は点いたままだったので、すぐに戻ってくるのだろうと思った。
「…そのビリヤード台のこと訊いてたでしょ」
そう言ってカップを啜るキュウの横顔を眺めながら、僕もカップを口に運んだ。
「店を作るってときにさ、ヒロシ君が買ってきたの。アキラ君と一緒に運んできてさ。軽トラで港から持ってきたらしいんだけど、大変だったって言ってたよ、荷台にうまく載らなくて。本当は一緒に手伝いたかったんだけど、軽トラ狭いしさ…。でも、あの二人は歳も近いから仲良くてさ…、なんか楽しそうだったな」
キュウは僕に顔を近付かせて、囁くような声でそう言った。店の奥に入ったユイが物音を立てていて、ここからでは店の奥がどれほどの広さなのかはわからなかったが、大声じゃなくても聞こえそうな距離には居るのだろうと思った。
「ボトルキープみたいなもんですかね…」
「まあ、そうだね。ヒロシ君、ビリーヤード好きだしね」
店の奥からユイが戻ってくる。キュウがユイに目を向けたので僕も釣られると、野菜を抱えたユイは僕達を見て笑った。
「何? 話題にされるほど若くはないわよ」
ユイは僕達の返事を待つ様子もなく、持ってきた野菜を洗い出した。キュウも何も言わずに、またミルクティーを啜りだす。
空にしたカップの底にこびり付いたミルクティーの滴を眺めていると、また入口の呼び鈴が鳴った。キュウは音に慣れているらしく見向きもしなかった。店に入ってきたのはヒロシだった。
「珍しいね、二人でセントラルの外におるんも」
ヒロシは僕の前に置いてあった灰皿に押し付けて煙草を消した。
「この辺でよく飯食ってるよ、キュウさんと一緒に。そういやヒロシさんと会うこともあんまないね」
「そうなんや…、ケイスケ君とかと一緒におるんかと思ってたよ」
「あいつ、昼間はサエコと一緒だからさ。さっきまでここに居たけどね」
僕が喋り終わらないうちに、いつの間にかカウンターを離れていたキュウがビリヤード台の上を手で叩いた。
「ユイちゃんが来るって言ってたからさ、待ってたよ」
「ああ…、ちょっと待ってください。用があって来たもんで…」
ヒロシはそう言うと店の一番奥の椅子に座り、カウンターの中に居るユイに小声で何かを話し始めた。ユイが横目で僕を見たので僕は視線を外した。ユイの目は笑っていなかった。キュウが台の上の球を枠に入れて並べている。菱形ではなく三角形で、僕が思っていたよりも球の数が多かった。どうしてなのか訊くとルールを覚えさせられそうだったので止めた。
話が終わったらしく、立ち上がったヒロシがキュウに声を掛けている。カウンターの端の灰皿にヒロシが置いた煙草の煙が揺らめいている。ユイがその横にティーカップを置きながら、僕を見る。今度は口元に笑みを浮かべている。こちらに近付いてきた。
「…別に変な意味じゃないのよ、さっきのは」
ユイは僕の正面で両肘を付いて身を屈めた。
「何が?」
「さっき、ヒロシと話してたの、見てたでしょ」
「別に…、おかわり頼もうかと思ってただけだよ」
「あら、悪かったわね」
僕が指に掛けてみせた空のカップを受け取ったユイが離れようとする。
「あ、やっぱりビールにしようかな」
僕がそう言うとユイは動きを止めて僕を見た後、笑った。
「暑いもんね…。真上に居るでしょ、お日様」
「そうだね…」
ユイは冷蔵庫からビール瓶を取り出して僕の前に置くと、それを押さえ付けながら栓を抜いた。
「ここ何日か雨も降らないし、雨期も終わりかしらね。この島はこんな天気のほうが色々楽しいんだけど、あなたにはあまり関係ないのかな」
ユイはそう言いながら空のカップを流し場に運ぶ。
「なんで…、海とか山とか行けってこと?」
「そういうのもあるわね…、綺麗でしょ、海」
「…フラフラなときにしか行ったときなくて、殆ど覚えてないよ。ちゃんと見たのは港だけ、フェリーからに降りたときにね」
僕の言葉にしばらく間をおいた後、ユイは今までで一番大きな声を出して笑った。
「本当に変な人ね、海見てないなんて。この島に来てる人の殆どが海目当てなのよ」
「そうだろうね…」
ユイはまた鍋の中を掻き回し始める。ビリヤードの球が重なってポケットに落ちる音と、ヒロシの歓声が店内に響く。ユイはそちらを見た後、笑みを作ってみせた。煮立ったトマトの匂いが漂ってくる。鍋に蓋を被せると、ユイはカウンターの中に置いてあった椅子をずらして僕の前に座った。ここからは見えなかったが、椅子の床を擦る音が一緒だったので、多分、僕が座っている椅子と同じ椅子だろうと思った。
「クスリ…、やるんでしょ。ヒロシから聞いたわ、お得意さんだって」
「クサのほうが多いけど。でも、ヒロシさんからは貰ってばっかだから、そんなに買ってないよ」
「どっちにしても私にとってはお得意さんよ。ここから仕入れていくんだもん、ヒロシは」
ユイが笑って目を伏せた。僕は握っていたビール瓶をカウンターに置く。瓶に付いていた水滴で手の平が濡れている。拭い取るように頬に撫で付ける。
「メニューにないのはミルクティーだけじゃないんだね」
「スパゲティもね。今トマトソース作ってるの」
ユイはゆっくりと立ち上がって鍋の火を止める。
「何でそんなこと喋ったの?」
僕がそう訊いた。
「…別に意味はないわ。ヒロシの周りにはいいお客さんが揃ってるから、本腰入れてプッシャーやる気みたいよ。あなたはただ、楽しめばいいだけ」
それだけ言うとユイは僕の前から離れた。僕はユイの背中を眺めながら立ち上がる。それほど勢いを付けたわけではないが、傾いた椅子が揺れる音が店の中に響いた。
「あれ…、どこいくの」
キュウがビリヤード台の前で腕組みしたまま声を掛けてくる。ヒロシはキューを構えて球を狙っている。
「外で飲んでこようかなって、サクラ・バー辺り」
僕はポケットに畳んでいた札を抜き出してカウンターの上に置いた。先ほどの肌の白い観光客が置いていった札も、まだ置かれたままだった。
「次はビリヤード教えてあげる」
そう言ったユイが手を振っている。僕は軽く手を挙げて応えた。
店の外に出る。辺りに溢れている蝉の鳴き声に、ドアの呼び鈴はすぐに掻き消される。店の前を離れようと歩き出すと、再びドアが開いた。ヒロシだった。
「間に合ったね…。今度やけど、野暮用に付き合ってもらおうと思っててね、港のほうに面白いとこあるんやけど」
開いたドアの中から体半分乗り出して、ヒロシはにやつきながらそう言った。
「この辺りじゃなくて?」
「そう。来るときに乗ったフェリーが停まった港あったやろ、用があるんはその港のもうちょっと先のほうやけどね」
「うん、いいけど…。でも今日じゃないんだ」
「そうやね、今日だとまだ早いから。じゃあ、また今度…」
ヒロシそう言い残してドアを閉じる。僕は閉じられたドアを眺めたまま、店の前に立ち尽くした。豪雨の中に居るような蝉の鳴き声に、先ほどまでフェイクの店内に居たことも忘れてしまいそうだった。
サクラ・バーに向かう。通りの先に見える丁字路が陽炎で歪んでいる。歩き出そうと踏み付けた地面が揺れているように感じた。舟の上を歩いているようだった。手をかざしながら眺めた空に青以外の色が見付けられない。吹き出る汗が流れ落ちる前に蒸発していきそうで、巨大な焼きごての下を歩いているんじゃないかと思った。
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