第5話

 空から降ってきたペンキのような影は、頭上を飛び去っていくプロペラ飛行機の物だった。空が捻れるかのような切り裂き音が辺りに響いて、通りに置かれたテーブルが音を立てて揺れる。振動でテーブルの上を転がってきたビール瓶が、伸ばした僕の手を弾いて地面に落ちる。泡を吹き出して横たわる瓶を見てキュウが笑い出す。僕は手に付いたビールの滴を払う。揺れが収まったテーブルの下に乾いた風が吹き込んできた。

「相当低く飛んだよね、すごい音。俺、固まっちゃったよ」

 側に寄ってきた店の女に拾い上げたビール瓶を渡しながら、キュウは目を広げてそう言った。

「あの飛行機って何ですかね、たまに飛んでる音聞こえるけど」

「山の反対側に街があってさ、結構でかい街なんだけど、側に飛行場あって、島と本土を往復しててね、多分その飛行機だと思う」

「へえ、交通手段ってフェリーしかないって思ってたけど」

「一日一便だけね。フェリーだと半日がかりでしょ、俺も飛行機使うもん」

「怖くないんだ。そんなに丈夫そうな音じゃなかったけど」

「キマってなきゃそんなに怖がりでもないよ、俺。キマってないとき自体がないんだけどさ、ここ何年かは」

 キュウは考え込むように首を傾げて笑みを浮かべる。しばらく視界に居たプロペラ飛行機はふと目を離した瞬間に見えなくなった。空に浮かぶタンカーのような入道雲の中に取り込まれたんじゃないかと思った。蜂が飛んでいたような微かな飛行音もいつの間にか消えていた。

 店の前の通りはビーチまで続いていた。何人もの観光客が横切っていくが、誰もこちらに目を向ける者はいなかった。僕もキュウもこの店と同じで背景の一部なんだろうと思った。入道雲の深い影が周辺を包むとそれほど暑さを感じなくなる。地面に落としたビール瓶の代わりと琥珀色の薄い煮汁で煮込まれた骨付きの豚肉が運ばれてきた。薬のような匂いの香辛料は漢方薬にも使われるものだと教えてくれたキュウは、それを手掴みで食べ始める。勧められたが僕は首を振ってビールだけを飲んだ。

「…キュウさん、結構それ食ってますよね」

「うん。毎日でもいいくらいだけど、太りそうだしね。キマってるといつまででも食べ続けそうだしさ、抑えるの大変」

 通りの反対側に見える茂みの奥からパーカッションの高い音が聞こえてくる。ここからは距離があるが向こうの砂浜で誰かが叩いているんだろうと思った。キュウの咀嚼音に合わせて叩いているようにも聞こえきて、今にもキュウが踊り出しそうな気がした。僕がにやついているのを見て、意味はわかってないだろうがキュウも笑みを浮かべている。

「…最近はあんまり暑くないですね」

「そうかな。そんなことないと思うけど、慣れてきたんじゃない、島に」

「そうですかね…」

 店の屋根が少しかかるくらいの場所に置かれていたテーブルに、客が一人座った。何度もこの店には来ているが、僕とキュウ以外の客を見るのは初めてだった。真っ白なシャツと短パンを履いた観光客らしき男は、何か探すように薄暗い店の中を見回している。陽に焼けた黒い顔に蠢く眼球が、白い芋虫のようだと思った。

「砂浜で鳴っているパーカッションみたいなの、ずっと聞こえるけど誰でしょうね。島の人が叩いてるのかな」

 僕がそう訊くと、キュウは少し考え込んだ。

「…たぶん、船を修理してる音だと思うよ」

「あ、そうですかね」

 そう言ってしばらく黙った後、僕は吹き出すように笑い出した。よく聞くと木槌で何かを叩いているようなまばらな打音だった。僕は悶えるように笑い続ける。キュウも釣られて笑い出す。ようやく笑い終わった僕は、ジョイントを摘む仕草をキュウに見せてからテーブルを離れる。狭い店の奥にあるドアから裏に抜けると、木に囲まれた庭に出る。離れがトイレになっていて、僕は手前の木にもたれてジョイントに火を点ける。周りの木々の間からは僅かに外の様子が伺える。空に向かって煙を吐き出す。空に浮かぶ雲に吸い込まれながら混じっていくような、そんな煙になるかと思ったが違った。外気に掻き消された煙はすぐに見えなくなった。

 元居たテーブルに戻るつもりだったが、そこには店の端に居たはずの観光客の男が座っていて、僕は足を止めた。キュウが居ることを確認すると、近くにあった椅子を引いてテーブルに戻る。男は僕の椅子に座っていた。

「…昨日島に来たんだって」

 椅子を引く音に振り返ったキュウが僕を見てそう言った。僕は頷いて椅子に座る。男はアキラやヒロシと同じくらいの歳に見えた。

「何かうまいもんでもないかなと思って訊いてみたんだけど、色々と面白そうなことあるみたいでね。楽しそうな島だね」

 男はそう言って笑みを浮かべた。皺や汚れのない服を着ていたせいか、付けてもいない香水の匂いが漂ってきそうだった。

「昨日来た割には陽に焼けてるよね」

「ああ…、ボードやるんですよ」

 男が両手でサーフボードに乗る仕草をしてみせる。

「そうなんだ。この時期はいつも雨多いから海も濁ってて奇麗じゃないんだけど、最近はどうだろうね、今年はあんまり降らないみたいだからさ。俺なんかは波のことよくわかってないんだけど」

「そう、案外晴れてるみたいでね。時期外れかなと思ってたし、ここへは滞在も短いからそんなつもりもなかったけど」

「ケイスケくんもやるとか言ってたよね、確か」

 キュウが思い出したように僕を見たので、男も同じように僕に顔を向けてきた。

「どうだろう。あいつ、大抵のことは手を出すから本当なのかもしんないけど、映画とか見ただけでやってるつもりになってるときもあるよ」

 キュウが目覚まし時計が鳴り出したかのように笑い出したので、同じように笑い出そうとした男が躊躇して動きを止めた。そんな男の顔を見て僕は笑った。

「…昨日来たってことは、まだハッパとかクスリとか手に入れてないのかな」

 笑い終えたキュウが男に訊く。

「え…、いや、簡単に手に入るのかな。この辺のことはよくわかってなくて…。賑やかなのは飛行場のほうだと思ってたけど」

「そうだね。まああっちのほうが人多い分ちょっと厳しいけど、この辺はマーク緩いから。モノ自体はどこででも手に入れられるけどね」

 キュウがそう言うと男は黙り込んだ。

「ジョイントまだあるよね、いっとこうか」

 キュウの言葉に頷いた僕はテーブルの上で煙草のケースを何度か振る。一本だけ出すつもりだったが何本ものジョイントが飛び出る。テーブルに散らばったジョイントを見てキュウが笑い出す。

「一本だけでいいよ、十分」

 キュウが一本だけ摘んで咥えたジョイントに僕が火を点ける。ビール瓶を持ってきた店の女が、ジョイントを咥えるキュウを見て笑っている。キュウから回ってきたジョイントを僕が差し出すと、女は目の前でそれを受け取った。

「あれ…、こういうのやんないんじゃなかったの」

 僕の言葉に微笑んでいた店の女がゆっくりとジョイントを吸い込み始める。それほど深くは吸っていなかったが、腰を曲げて何度か咳き込んだ。キュウが笑い出す。横で様子を眺めていた男にジョイントが渡る。男は辺りを気にしながらジョイントを吸い込み始めた。キュウの吸い方によく似ている。あまり慣れていないようだった。女と同じように咳き込み始めて、キュウがまた笑った。残りは僕とキュウとで回した。短くなったジョイントを足で踏み潰して火を消す。通りから聞こえていた足音がすぐ側で止まる。顔を向けると、目の前に居たのはアキラとナオミだった。アキラが僕が踏み消したジョイントを摘む。笑みを浮かべながら、茂みのほうにそれを放った。

「最近は晴れ続きでいいね。君が来てからずっとそうなんじゃないかってナオミが言ってたよ。ねえ」

 アキラは空を仰ぎながらそう言う。横に居るナオミが笑みを返す。

「私だけじゃなくてみんなも言ってたわよ。今年はずいぶんと雨期空けるの早かったけど、あなたが来てからじゃないかって」

「そんなことないと思うけど。でも、ナオミが言うならそうかもね」

 僕がそう言うとアキラが笑う。釣られて僕も笑い出す。

「…あれ、こういうのやらないんじゃなかったっけ」

 テーブルの側に居た店の女はアキラの問い掛けに答えず、笑みを浮かべたまま店の中に戻っていく。ナオミが女に付いていく。店の端で二人が何か話している。笑い声が挙がった後、店の女が奥の厨房に入っていった。

「…どうせだからやることにしたんだって」

 戻ってきたナオミがそう言って笑った。アキラが笑みを浮かべながらナオミの耳元に声を掛ける。何を言ったのかはわからない。横に居た観光客の男には聞こえたのか、笑っているように見えた。

「せっかくだし、もう一本いっとこうか」

 キュウがそう言い出したので、僕はジョイントを探り出そうと煙草のケースを開けて中を覗く。

「これ、どうしたんだろ。煙草が一本もないの…、全部ハッパみたい。自分で巻いたやつ煙草の箱に紛れ込ませてたんだけど、いつのまにか全部ハッパ」

 僕がそう言ってジョイントを取り出すと、引いてきた椅子に座ろうとしたアキラが地面に転げ落ちながら笑い出す。ナオミも笑っている。

「壊れちゃってるからそうなるんだよ、もうみんな壊れちゃってるから…」

 アキラは笑いながら言葉を絞り出している。ナオミが直した椅子にアキラが座れたのはしばらく経ってからだった。アキラが座った後、店の女が戻ってくる。皆でジョイントを回した。煙が店に舞ってる間、何人もの観光客が店の横を通る。人が増えたせいか、今度は誰もがこちらの様子を眺めていた。

「観光してないわよね。あんまり焼けてないもん」

 ナオミが訊いてくる。キュウとアキラが何か話している。観光客の男はそれを聞いていて、店の女は三人の傍らに立っている。

「セントラルの中庭とかね、ジャングルみたいなもんだから。あと、たまに砂浜行くと、砂漠」

 ナオミが笑う。手に挟んだ長細い煙草の先から煙りが揺れる。

「あのホテルにいるんだもん、そうなるわよね。ここにはよく来るの?」

「キュウさんか、ケイスケと一緒にね」

「その子、私の妹なのよ」

「…そうなんだ。気付かなかったよ」

 ナオミに言われて、僕は店の女のほうを見る。女は何か喋るわけでもなく三人の側に居る。喋っているのは殆どアキラだ。時折女が笑みを見せる。

「こういうことやんないって言ってたんだけどね。でも、雰囲気全然違うでしょ」

「そうかなあ」

「…私の妹だけど擦れてないからね、あなたにも合うんじゃない。紹介してあげよっか? この辺りもよく知ってるから、色々と連れてって貰えばいいじゃない。楽しいわよきっと」

「擦れてないから合うっての、違うかもよ」

「そう。まあ気が向いたら言ってね」

 ナオミが首を傾げながら笑みを浮かべる。

「ねえ、煙草ちょうだい。全部ジョイントになっちゃってたから」

 ナオミがまた笑う。自分が吸っていた煙草を僕に差しだしてくれた。

「…トンでる割には顔色悪いみたいだけどね、彼」

 アキラが僕に聞こえるようにそう言った。観光客の男はしばらく声を発していない。表情も変えずにいる。アキラの言葉に力なく笑ってゆっくりとうなだれた。着ている服が急に皺だらけになったように見えた。

「ちょっと目が回るっていうか、船酔い…、みたいな気がする」

「あんま慣れてなかったかな…」

 キュウが喋り終えないうちに立ち上がった男が、押し出されたように通りに出る。よろけながら歩いていって、そのまま倒れこむように奥の茂みに転がった。

「大丈夫?」

 キュウが声を上げる。アキラが笑っている。僕は倒れた男の側に寄っていった。

「お水貰ってこようか?」

 僕に付いてきたナオミが訊いてくる。僕が頷くと、ナオミは店に戻っていった。僕は男の腕を取る。何か喋っているが、言葉になっていない。そのまま引っ張り起こしたが、立っていることができないらしく、また茂みの中に倒れ込んだ。キュウとアキラの笑い声が聞こえてくる。

「…立てそうにないかな」

 茂みを押し倒して仰向けに転がった男に尋ねるが、答えられないようだった。涙と鼻水が溢れだしている。喉を震わせながら呼吸していたが、顔を横に向けた拍子に何度か嘔吐した。しきりに何か呻いている。

「ホテル…、帰りたい…」

 口元に耳を近付けないと聞き取れないような声だった。嘔吐物の匂いが鼻を付いて、僕は思わず顔を離した。

「ホテルってどこだろう…、この辺りかな」

 僕の声に男はゆっくりと首を振る。何かを喋ろうとしている。もう一度口元に耳を近づけようとすると、僕の手首を握り込むように掴んできた。男に引っ張られる形になってバランスを崩した僕は、手を突きながら地面に転がった。そのまま茂みを背にして通りに腰を下ろす。横に居る男は胸を上下させながら息をしている。次第に落ち着いてきたようで、これ以上悪くなることもなさそうだった。

「まあ、死にはしないよ…」

 僕の言葉に男は反応しなかった。ビーチに向かう観光客が顔を顰めて通り過ぎていく。ナオミが持ってきたペットボトルの水を飲ませようとしたが受け付けない。

「大丈夫かしら...」

 ナオミが呟いた。僕は首を傾げる。キュウとアキラはまだ笑っている。

 男の頬を伝っていた涙が乾き始める。ナメクジが這ったような跡が残る。男の両目は全く動いていない。視線の先には青空があったが、男が見ている景色と僕が見ている景色とは、全く違うものなのだろうと思った。

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