第4話
赤土の道に見えた大きな轍をケイスケのカブが避ける様子もなく通過しようとする。荷台に乗っていた僕は、ケイスケを止めようと出し掛けた声と舌を引っ込めて、荷台の手摺りを掴んで歯を食いしばった。止まりそうなくらいに速度を落としたにも関わらずカブは跳ね上がる。思っていたとおりに尻を叩き付けられて、僕はバランスを崩して蛇行するカブから飛び降りた。
「…絶対無理だと思ったよ」
少し先に止まったケイスケには聞こえなかったかもしれないが、僕はそう呟いた。
「よく転けなかったなあ」
しばらく雨が降っていないせいか、煙のように舞う乾いた砂埃の中でケイスケはそう言った。僕のほうを振り返って笑っている。
「ほんとだよ…、無茶しすぎなんだよ」
「イメージと違った。最後はジャンプする予定だったんだ」
そう言ったケイスケが煙草に火を点ける。何かに挑戦し終わったかのような顔をしているが無視する。剥き出しの赤土は風雨に固められていて、道の両端には背丈ほどに伸びた草が繁茂している。島の大通りから少し外れただけだが、ホテル・セントラルの辺りより荒れていた。僕はケイスケを追い越して歩き出す。少し離れた先に白い建物が見えている。
「あれでしょ…、あの建物」
僕がそう言いながら指差したほうを見て、ケイスケは何度か頷く。
「やっぱり道間違えた。大通りのもうちょい先だったかな。多分、向こうから回れるんだな」
ケイスケは煙草を口に咥えたまま、エンジンを止めたカブを押し始めた。
「こんなに酷い道、誰も使ってないでしょ。間違えるほうが難しいんじゃないの…」
「そうだな、なんでここに出たのかもわかんないよ。まあ次はちゃんと来れるでしょ」
「何度か来てるんじゃないの…」
ケイスケは笑っただけで答えなかった。
緩やかに曲がった道を歩いていくと、背の高い草の隙間に見え隠れしていた建物の外壁に、ピンクのペンキで塗られた看板が見えた。『レストラン・マジック』と黄色い文字で書かれている。それがはっきりと読める頃には、波の音がそれとわかる大きさで聞こえてきた。
「やっぱ海近いんだよな。ビーチ歩いても来れたんじゃない」
「そうかもしれないけど、めんどくさいしね」
「そんな距離でもないじゃん、どうせ暇してんだから。それに、島に来てからまだ海見てないよ…」
「…今までここに居て海行ってないんなら、言うほど見たくもないんじゃないの」
「そうでもないよ。毎日さ、セントラル界隈でキマってるだけってのもね」
レストランを囲ってある塀に入口らしき部分が見える。そこに行くには目の前に茂っている草の壁を越えるしかなかった。僕とケイスケは草むらを掻き分けながら、そこを目指して足を踏み入れた。
「ひでえなこりゃ…、やっぱ道じゃないな、ここ」
僕が手足で倒した草にカブを押し込みながら、ケイスケが笑う。青草の匂いにむせ返りそうになりながら、草むらを通り抜けてレストランの前に出る。木の塀の脇にカブを止めたケイスケが、煙草を投げ捨てて歩いてくる。
「煙草捨てんなよ…、火事になるだろ」
僕の言葉に足を止めたケイスケは振り返って煙草を拾い上げている。僕はケイスケを待たずに塀の中に入った。
木製の階段を上がると青空に開放されたステージのようなテラスが見えてきて、白く塗られたテーブルや椅子がいくつか並んでいた。客は誰も居ないようだった。派手な看板だったので、店の中で原色のネオン管でも点滅させているのではないかと思っていたが、違った。
「火は消したんだって…」
ケイスケはそう呟きながら足を止めていた僕を追い越して、テラスから建物の中に向かっていく。辺りを見回しながら歩き出した僕は、テラスの外に見えた海に、また足を止めた。視界一杯に見えなくなるまで砂浜が続いている。浅瀬に波立つ飛沫に溢れた陽光が弾け散っていきそうで、眼を細めるくらいに白く眩しかった。
「マスター…、客なんだけど、居ないの?」
ケイスケが建物内のカウンターに向かって声を上げている。誰も出てこない。僕はテラスの一番砂浜に近い席の椅子に座った。テラスの端には柵が立てられている。潮風に削がれたのか白い塗装は殆ど残っていない。もたれ掛かると崩れ落ちていきそうだった。遠くの砂浜にカラフルな傘やシートが並んでいる。点々と観光客の姿も見えるが、このレストラン近辺の砂浜には足跡さえ付いていない。浅瀬のそう深くはなっていない所に男が立っている。無垢の木を刳り抜いて作ったような原始的な小舟の側で、銛を片手に海面を探っている。陽に焼けて痩せてはいたが、上半身は筋肉で引き締まっている。漁師だろうと思う。小舟の上に網のような物が見えた。
「その内気付くかね…」
ケイスケが僕の側まで来て、テーブルの向かい側に座った。
「変なレストランだね。客も居ないみたいだしさ」
僕がそう言うとケイスケは改めてテラスを見渡した。
「…前来たときはカウンターにマスター居て、クサ買ってすぐ帰ったからさ、ここに座ったのも初めてだわ」
「店ん中にも砂浜にも誰も居ないしさ、こんだけ人居ないのも面白いね。あっちに見えるビーチって、セントラルのほうでしょ、あの辺はやっぱ人多いね」
「シーズン前ってのもあるんじゃない。雨期明けたらこの辺にも人増えるんじゃないかな、盛り場から遠いけどね。ここからだとバーハーツに遊びに行くのも大変だよ」
「嫌いじゃないけどね。キュウさんなんかもこういうとこ好きなんじゃないの」
「キュウさんは結構、人が好きなんだと思うよ。この辺も知らないわけじゃないんだろうけど、セントラルから離れないしね」
ケイスケはそう言いながら首の後で手を組んで、足を柵の上に乗せた。
建物の奥にあるドアが開いて、男が出てきた。男は僕とケイスケを見付けると、カウンターの上に置いてあったエプロンを腰に巻きながらこちらに向かってくる。
「…やっと来たね」
ケイスケが足を降ろしながら男に声を掛ける。
「悪いね、気付かなかったよ」
男は僕とケイスケの前に立ってそう言った。そこら辺の現地人より更に深く陽に焼けていて、かなり背が高かった。
「えっと…、何だっけか。ヒロシさん、何て言ってたんだっけ」
ケイスケが僕に訊いてくる。
「ああ、キノコ…、マジック・マッシュルーム食べに来たんだけど」
僕はケイスケには答えず、男に向かってそう言った。
「そりゃいいこと聞いてきたね、うちのお勧めだよ…、どう調理しようか。オムレツかソテーかスープか」
「…ちなみに味はどうなの」
「どうだろうね、キノコ好きには堪らないのかもしれないけど、初心者ならオムレツだね。一番食べやすいから」
「効きが変わんないならそれでいいけど」
「効くのはスープだよ、エキスが胃に染み込むからね。でも味もきつい」
僕はケイスケに目をやる。ケイスケは椅子から体を起こす。
「スープでいいよ、二つね。初めてスキーやったときも初心者コースなんてすっ飛ばしたよ」
ケイスケの言葉に頷いた男は笑いながら席から離れていった。
「…っていうか、マジック・マッシュルームって効くのかね」
僕はカウンターに向かう男の背中を頬杖を突いて眺めながら、そう呟いた。
「そこら辺の山に生えてるらしいよ、ヒロシさんが言うには」
「それで効いたら大変だよ。食い放題じゃん」
僕がそう言うと、何を考えているのかケイスケは少しの間、黙り込んだ。
「…何てったって、マジックっていうくらいだからな、このレストラン。ただのキノコ料理は出てこないって」
「ほんとかね…」
僕は椅子に深く腰を沈めて、煙草に火を点ける。煙草のケースに仕込んだジョイントを確認して、胸ポケットに仕舞う。キノコが効かなかったときのために用意したものだ。潮風が頬を撫でるように吹いている。吐いた煙は風にさらわれて、すぐに消えていった。
「綺麗な海だな。やっと島に来たって感じがしたよ」
僕の言葉にケイスケは鼻で笑う。海を見ていたが、顔はにやついている。
「…すいません、ビール貰えますか」
ケイスケが僕にも伺うように声を挙げたので、僕は何度か頷いた。カウンターの中の男は料理をしているようで何の反応もなかったが、しばらくするとタオルで手を拭きながらその場から動き出した。
「すいません、ビール二つで」
ケイスケはカウンターに向かってもう一度声を張った。男が手を挙げて応えている。また、風が吹いた。ホテル・セントラルの辺りより空気に湿り気を感じる。海から直接吹いているからだろうか。目を閉じてみる。潮の匂いは感じなかった。
「何やってんの…」
そう言いながらケイスケが笑う。
テーブルに置かれたビールの小瓶が汗を掻き始めた頃に、男がやや大きめのカップを二つ運んできた。
「お待たせ。あんまり熱くすると、成分が飛んじゃうもんでね、ちょっとぬるめだから」
「ここらのスープはいつも舌火傷しながら飲んでるからね、助かるよ」
ケイスケがそう言って笑った。男がカップを置いたとき、一瞬漂ったキノコの凝縮されたような匂いに僕は顔を顰めた。
「じゃあ、ごゆっくり。店の中には居るから、用があったら呼んで」
男はそう言い残してカウンターに戻っていく。ケイスケはすぐにカップをスプーンで掻き混ぜ始めた。
「…飲めなくはなさそうだな」
ケイスケはスプーンで掬ったスープの匂いを嗅ぎながらそう言った。
「椎茸とかそんな感じだろうけどさ、キノコだから。でも、きついね、匂い」
僕はそう言った後、改めて匂いを嗅いでからスープを口に運んだ。コンソメに混じってキノコを干したような匂いがしたが、味は匂いほどはきつくなかった。キノコと判別はできなかったが、細かく刻まれたそれらしきものがカップの中に浮いていた。
「どうよ…、いける?」
ケイスケが訊いてくる。僕は頷いて、一気にスープを飲み干した。ケイスケも黙り込んでスープを口に運ぶ。
「あんまうまくはないな。よく飲めたね…」
ケイスケは眉を顰めてビールで口を濯いでいる。飲み干したカップの底に屑のようなキノコが残っている。口に入れて何度か噛んでみたが、やはり味はしなかった。
「きついのはのは匂いだけだね。味わうもんでもないけど、黙ってたらわかんないんじゃないの」
僕はそう言ってカップを置いた。
「何が…」
ケイスケが呟く。掬ったスープをこぼしてはまた掬っている。
「ただのキノコスープってこと」
「そりゃないって…、まずいよこれ」
ケイスケがカップを見ながらそう言った。僕はビールを口に含む。顔を顰めて舐めるようにスープを飲むケイスケを見て笑った。
「オムレツのほうがよかったんじゃない」
ケイスケが僕を見ながら頷く。
「ほんとだよ。初めてスキーやったときは骨折ったしな、小指ん所。後悔してる」
「一気に飲むの得意じゃん。それ、ゆっくり飲んでるから嫌な匂いが鼻を抜けるんだって…、味は殆どないからさ、匂いが強烈なだけなんだよ」
ケイスケは僕の言葉に頷きながらも、しばらくの間躊躇していた。その後、何回かに分けて、やっとスープを飲み干した。
「胡椒なんかで誤魔化さないと駄目だよこれ、効くかどうかもわかんないしさ」
そう言ったケイスケは咳き込みながら、投げ捨てるようにカップを置いた。
「効かなきゃ効かないでさ、その辺の砂浜でクサでもキメようよ。元々その予定だったしさ」
僕はそう言いながら椅子を回して海のほうを向いた。先ほどの漁師の姿が見えない。いつからいなくなったのだろうか。見える範囲の浅瀬と砂浜を探したが、どこにも見当たらなかった。
「…さっきさ、海に漁師居たよね」
「そうだっけ…、見なかったけど」
「あれ、魚採ってたんだよな…、銛持ってたしさ」
僕は柵に足を乗せて、両手を首の後ろに回した。
「見てないからな…、でもまあそうなんじゃない」
ケイスケがそう言って黙り込む。僕も何も答えずにいた。相変わらず緩やかな風が吹いている。会話を止めると、砂浜に染み込んでいく波の音が聞こえてくる。消えそうになるたびに次の波がやってきて、波音が途切れることはなかった。ケイスケが咳払いをして、煙草に火を点ける。
「…どうよ」
僕が訊くとケイスケは低い声で唸る。空に向かって煙草の煙を吐き出した。
「やっぱ効かないな。その割に胃がちょっと重くてさ、けだるいっていうか、まあこんなもんかね…。自然食品だしな、人間の叡智には敵わないってことだよ」
「何だよそれ…、まあこんなもんでしょ。ビール持って砂浜行ってさ、ニヤニヤしようよ」
僕はそう言って立ち上がる。瓶に残っていたビールを喉に流し込もうとしたが、沸騰しているのかと思えるほどぬるくなっていて、思わず床に吐き出した。
「駄目だな、冷えたビール貰おう。そんなに時間経ってないと思ったけどね…」
僕はそう言って口を拭う。ケイスケが先にカウンターに歩いていく。ケイスケが言ったように、僕も調子の悪い朝のように下腹部が重かった。
「あんまうまくなかったけどさ、ごちそうさん。ビール二本くれる? 砂浜に持って行くから」
ケイスケがベルトを掴んでズボンを直しながら、カウンターの中に声を掛けている。
「…酷い言われようだな」
カウンターの中の椅子に座って雑誌を読んでいた男が笑う。僕はポケットから出した札をケイスケの背後からカウンターに置いた。ケイスケが横目で僕を見る。
「店先にでも置いとけばいいから、空き瓶は。それと、海には絶対に入らないようにね…」
冷蔵庫からビールを取り出してきた男はにやつきながらそう言った。僕はそれを受け取ってカウンターから離れる。先にレストランを出たケイスケは元来た入口の階段に立っていた。
「今度奢れよ」
ケイスケは答えない。階段を見下ろしながら一段一段何かを探しているように降りていく。
「何やってんだよ…、ほら、ビール」
「ああ、悪い…。いやなんかさ、階段が歪んでるような気がしてさ」
ケイスケは僕が差し出したビール瓶を受け取った後も階段から目を離さない。僕は冷えた瓶を握ったままその様子を見ていた。胃が重くて口を付ける気になれなかった。ケイスケは階段を降りようとしたまま動きを止めている。黙り込んでいる。ケイスケが斜めに立っているような気がする。でもそれは自分の視界が歪んでいるような気もして、目を見開いてもう一度ケイスケを見るが、ケイスケも僕も、お互い斜めに立っていた。ビールの炭酸が泡立つ音が耳のすぐ横で聞こえている。その内に世界中が泡で包まれていくような気がしてくる。
「こんなに曲がってたっけ、階段。いや、やっぱ歪んでるよな」
ケイスケが立ち止まったまま誰かに言った。誰に言ってるのだろうと思った。やばい。急いで階段を降りる。ケイスケを呼ぼうと振り返る。見上げた建物がケイスケの背後にそびえ立っている。空まで伸びている。僕はそれを眺めたまま立ち竦んだ。何を急いでいたんだろうと考えているうちに、何を考えていたのかもわからなくなる。辺りを見渡すが景色の境界がわからない。緑色の草むらがざわついてうねり出す。目眩ではない。草むらが踊るように動き始めて僕の回りを取り囲んでいる。草原に居るんだと思う。出口を探そうとするが見つからない。階段の板の目をしゃがんで見ている男が居る。あれが誰だか思い出せない。白い建物が塔のように空まで伸びている。階段を昇っていけば雲の上に乗れるんだろうと思う。世界が歪んでいく。ここは何処なんだろうと、僕は思った。
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