第3話

 曇り硝子に彫り込まれたひび割れのような模様は揚羽蝶の細工だった。窓を開けようとしていた手を止めてそれを眺めていると、水面に揺らぐ波紋のように蠢きだして、そのまま飛び立っていくんじゃないかと思った。

 手にしたサッシ窓は固定されていて動かなかった。空気を入れ換えようと思っていたが諦める。入口のドアを開けるとホテル・セントラルの中庭の端に、キュウとケイスケが立っているのが見えた。部屋の中でジョイントを巻いているときから喋り声には気付いていたが、もっと遠くで知らない誰かが喋っているのだろうと思っていた。廊下に投げ出されている竹の椅子を逆さに持ち上げて、脚の底にパケ袋を隠していると、ケイスケの笑い声が聞こえてくる。顔を上げると笑顔の二人がゆっくりと近付いてくる。中庭に射し込む逆光に包まれたキュウとケイスケを、僕は目を細めながら手を挙げて迎えた。

「そんなとこに隠してたの…」

 にやつきながらケイスケが声を掛けてくる。僕は先ほど仕込んだジョイントを手で遊ばせながらケイスケに見せた。

「今さっき巻き終わったばっかだよ…、タイミングいいね。とりあえずいっとこうか、天気もいいみたいだし、その辺でってのどうかな」

 僕は中庭を見渡しながらそう言う。

「いいんじゃない…、ねえキュウさん」

 ケイスケがキュウに訊く。キュウは何度か頷きながら側に寄ってくる。

「うん、昼間だったら何やっても平気。夜でもモノ自体見つかんなきゃね。ヒロシ君とかとやってるときに部屋に踏み込まれたことあったけど、モノ置いてなかったから何にもなんなかったよ」

 キュウは褪せた緑色のトレーナーに、スカートのような鎖模様の布を腰に巻いている。明るいところで見ると子供のように見えるが、薄暗い部屋でジョイントを回してるときには老人に見える。サクラ・バーで初めて見たときの印象は今でも変わらない。ケイスケがジッポーをかざしてくる。僕は咥えたジョイントに火を付けた。枝が燃えて薪が弾けるような音がする。

「…このホテルも奥まった場所にあるしね、知らない人間はそうそう入ってこれないよ」

 僕はゆっくりと煙を吐き出して、そう言ったケイスケにジョイントを回す。キュウは体全体を縦に揺らしながら、また頷いている。

「…そのときはさ、踏み込まれて俺とかもう固まっちゃって、どうしようかと思ったけど、モノ外に置いてたからさ。でも煙で真っ白だったんだよ、モクモクとむせ返るくらいにさ。お巡りとかも笑っちゃってて、それでもまあ大したことにはなんなかったんだよね。でもモノあるとやばいよ…、ヒロシ君とか何でもやるからさ、自分でも色々持ってて、部屋とかも凄いの、入りたくないよヒロシ君の部屋…、捕まっちゃったら、あれだと死刑なんじゃない」

 キュウはそう言って笑う。ケイスケがジョイントを差しだすまで笑い続けていた。真顔になったキュウがケイスケの手からジョイントを摘み取る。流れ作業の工程のような動きだった。摘んだジョイントを口の先端に咥えている。いつものように一気には吸い込まず、小刻みに吸ってはすぐに薄い煙を吐き出している。詰まったストローを吸い出しているようだった。

「でも、ヒロシさんってそんなにクサやんないですよね…、やっても毎日じゃないでしょ。ここでだとこの三人でばっか回してるしさ」

 ケイスケが訊く。キュウが小刻みに吸っていたジョイントを口から離す。息を溜め込むように下を向いたまま、手だけを掲げてそのままジョイントを回してくる。僕がジョイントを受け取ってもキュウの手は宙に浮いたままだった。下を向いたまま動かない。目を閉じているように見えたが、ゆっくりと喋り始める。

「…好きってわけじゃないみたいだね。全然やんないってわけでもないけど、上がんないこともあるし、眠くなっちゃったりするんで、それが好きじゃないんじゃないんだって。あ、でもそれ言ってたのアキラ君だったかもしんない…、どっちだったかなあ。でもここの人達って酒とかもそうだけど、クスリも結構やるでしょ。クサだけってあんまりいなくてさ、俺くらいなんじゃないかな、クサ専門なの。ケイスケ君もヒロシ君とよく居るからさ、あんまやんないのかと思ってたし、ヒロシ君、近頃はエルにはまってるでしょ、ずっと口に紙入れてるよね、LSD。その前はミンザイ飲んでたし、もうね、ふらふらでさ、あれは見てて怖かったな…、最近はやってないけど、ほんと、怖かったよ。今は止めたみたいだけどさ、ほんとよかったよ」

 キュウから回ってきたジョイントを咥えるが、唾液で湿ったフィルターが詰まっていて上手く吸い込めない。火が点いたままのジョイントをライターで炙って乾かす。紙が焦げる匂いがする。ジョイントは随分と短くなっている。長くは吸い込まないようにしたが、思ったよりも熱い煙が入り込んできて、咳き込みそうになる。唇が火傷しそうだった。コンクリートの通路の押し付けて火を揉み消す。ケイスケが手を差し出してきたのでそのまま渡す。ケイスケは吸い終わったジョイントを中庭に放り投げた。

「それでいいんだっけ」

「…いいんだよ」

 下を向いていると思っていたキュウが笑っていた。

 キュウが部屋に戻った後、僕とケイスケは通路に座り込んで二本目のジョイントを回した。

「…入れ墨入れようと思っててさ、足首んとこ」

 座ったまま足首を上げて、指でなぞりながらケイスケはそう言った。

「そんなとこ入れて意味あんの?」

「何で、かっけえじゃん」

「肩とかにでかいの入れればいいじゃん」

「それだと夏に海とかでバイトできなくなるだろ。足首だったらアクセサリーで隠れるし…」

「…太ももとかだったら海パンで隠れんじゃん、根本んとこ」

「お前、太ももとか神経張り巡ってるからすげえ痛いんだぞ?」

「どこ入れたって痛いって。まあ好きにすればいいけどさ、まさか、この島で入れるって話じゃないよね」

「いつの話だと思ってんの、島で入れなきゃこんな話しないって」

「大丈夫かよ。あれ結構怖いんじゃないの、ばい菌とかさ…、言っちゃあ悪いけど、この島で入れることはないんじゃないの」

「平気だよ。俺そいつ知ってんだよ、何回か一緒にキメたことあってさ、個人でやってんだけど、いい奴だよ。自分のこと、タトゥーって呼んでくれとか言ってんだぜ、かっけえだろ」

「それ、止めといたほうがいいよ。絶対危ない…、ちょっと頭悪いぞ、そいつ」

「平気だって…」

 ケイスケは笑顔でそう言った。釣られて僕も笑い出した。目が熱で痺れている。瞼を擦ると視界がぼやけて濁る。中庭の草木が万華鏡のように光り輝いていた。

 コンクリートを擦るような足音がして、顔を上げるとキュウが立っていた。

「…キマったときの飲むのはどっちがいいかって話したじゃない、オレンジジュースかポカリスウェットかって。ポカリもいいね。粉のやつあってさ、水に混ぜて飲むやつ…、さっき飲んでみたら、よかったよ」

「そんな話しましたっけ?」

 僕は笑いながら訊いた。ケイスケも笑っている。

「イオンが攻撃してくるって言ってたじゃん、キュウさん」

 ケイスケがそう言うと、キュウも笑いだした。そのうちに「キュウさんの部屋でキメよう」とケイスケが言いだした。にやついた顔で僕を見ている。こいつは自分でネタを買うことは殆どない。その割にこういう場面には必ず居る。

 ケイスケがキュウの部屋に敷いてある絨毯の前で靴を脱ぎ始める。僕は入口の前で立ち止まった。ケイスケの背中越しに、色を付けたシダを散りばめたような模様が床一面に広がっているのが見える。絨毯だと思っていたがただの広い布のようで、繊維がほぐれて破れそうな部分が所々に見える。床の殆どの部分はその布で覆われていて、中央にキュウが座っている。

「…ペルシャ絨毯みてえ」

 ケイスケがそう呟きながら部屋の中に入り、続いて僕も足を踏み入れる。乾いた油を燃やしたようなお香の匂いが微かに漂ってくる。壁一面にも床と同じような模様の布が掛けられており、無機質なコンクリートの色は殆ど目に入らない。壁際は様々な物で溢れている。物が多いせいで狭く感じるが、僕の部屋と間取りは変わらないのだろうと思う。部屋の角に背の低いラタンのチェストがある。零れ落ちそうなほど載せられた置物の中の何処かでお香が焚かれているようで、薄い煙が上がっている。先に部屋に入ったケイスケが床に座る。部屋を見回している。

「…ここの部屋の窓ってさ、開かないんだよね」

 靴を脱ぎながら僕が呟くと、ケイスケが振り返る。

「そうだよ。ここに来て結構経つじゃん…、知らなかったの?」

「そんなに経つかな…。でも窓開かないのは今日初めて知ったよ」

 僕はそう言いながらケイスケの横に座った。

「あれ…、照明のプロペラないな。俺の部屋にはあるんだけど…」

 ケイスケが天井を指差したので僕も見る。

「うん、怖いから取って貰ったの。寝てるときあれ見ると落ちてきそうでさ、怖かったんだよね」

 キュウは天井を見ずに呟く。照明の根本に羽根をもがれたプロペラがゆっくりと回っていて、それなら動き自体も止めればいいのにと思った。

「そういうの駄目なんだよね、怖くなっちゃって。俺もう毎日トンじゃってるから、そういうの見えると気にしちゃうの、だから取ってもらったの。何か嫌じゃん、あれが落ちてきてさ、腹とかに刺さっちゃってさ、そういうの考え出すと、もう深いとこ落ちちゃうんだよね、すごい深いとこにさ、こうベッドで震えちゃって…」

 キュウは怯える子供のように身を縮めて震える振りをする。

「落ちちゃうの、あれ嫌だよね。だから俺、知らないとこではやんないようにしてる、落ちちゃったら怖いから。島の中央がさ、山になってるでしょ。前にそこに登ってキメたことあったんだけど、ヒロシ君とかアキラ君とかと一緒にさ。二人共ずっと前から居るしね、ここに。そんで山登っていくとでっかい池っていうか湖があってね、そこに橋があるんだけど、それ渡ってる途中で怖くなっちゃってさ、ぶっトンでて。その前までは平気だったんだけど、急に怖くなっちゃって、そんなに高い橋じゃなかったし、別に下覗いたってわけじゃないんだけど、途中で立ってられなくなっちゃってさ、座り込んじゃって、あれ嫌だったなあ。早く立たなきゃって思うんだけど、怖くて、何が怖いのかわかんないだけど、とにかく怖くて、みんなに置いて行かれちゃうと思っちゃって、急いで立とうとするんだけど、全然立てなくて、置いて行かれちゃうって思って、アキラ君とかさ、ずっと笑ってるしさ、ほんとあれは嫌だったなあ」

 キュウが喋り終えたが僕もケイスケも何も返さなかった。こちらを向いて喋っていたが、僕にもケイスケにも焦点が合っているようには見えなかった。

「ほら、いっとけよ。ラストだけど、足りなきゃまた巻いてくるからさ」

 僕は煙草のケースに紛れ込ませていたジョイントを引っ張り出してケイスケに渡す。キュウにも視線を送ったが反応しなかった。

「おう…、来たな」

 ケイスケがジョイントに火を点ける。躊躇わずに吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出している。

「すごいすごい…、すごい煙。そんなに吸ったら俺なんかぶっ倒れちゃって、床に張りついちゃうよきっと…」

 部屋に舞う煙を目で追いながらキュウが手を叩いている。三人でジョイントを回し終える頃には、部屋の空気は煙で白く霞んでいた。

「これ、結構効くよね…、俺の手持ちのはこんなに効かないよ。やっぱ鮮度なのかな…、一年分くらいまとめて買っちゃてるから俺のはもう乾燥してきてるし、鮮度落ちてるのかな。マジックのやつだっけ、これ」

 キュウはゆっくりと体を揺らしながら喋っている。海中で揺らめく海藻のようだと思った。

「初日に居たコテージ…。結局は泊らなかったけど、ここが空いてなかったから島に来た日は浜辺のほうのコテージに泊まろうと思ってて、何でだが知らないけど、そこの管理人に貰ったやつ。そいつプッシャーっぽかったからモノは結構やばいと思う。マジックってところは何処にあるんだろう」

「海岸線沿いをずっと行くとあるよ。ただのレストランだけど、大体みんなそこで買うんじゃないかな」

「ああ…、ケイスケが言ってたとこかな。まだ連れてもらってないけど」

 僕がそう言うと、ケイスケが笑う。

「そういや言ってたね。今度連れてくよ、ちゃんと」

「お前、初日からそんなこと言ってないか。別にいいけどさ」

 僕も笑ってケイスケにそう返す。

「ヒロシくんがマジックにキノコ置いてるって言ってたよ。最近はLばっかやってるけど、彼、そういうの好きだから、訊いてみればいいよ。俺も誘われたけど、その辺りの山に生えてるんだって言うからさ、怖くなってさ。本当に効くのかもわかんないって言ってたけどさ」

「…キノコってなんだろ」

 僕がそう訊くとキュウが考え込む。

「マジックマッシュルームじゃないかな。どう効くのかは知らないけどさ」

 代わりにケイスケが答える。

「わかんないけど、俺はもうクサだけでいいよ。酒とかも弱いし色々やる気もしなくてさ。最近はみんな若いからさ、いいよね、ほんと羨ましい…。みんな見てると楽しそうでさ、前はセントラルにも俺より年上の人が結構居たんだけどさ、今だと俺が一番上なんじゃないかな…、俺もみんなくらいのときにクサとか色々知ってたらよかったよ」

 そう言い終えてキュウが立ち上がる。雑貨が積まれた部屋の端で何かを探していたが、物陰に隠れていたランプを引っ張り出すと、コンセントを繋いで灯りを点けた。灯りの色はよくわからなかったが部屋中がライトアップされる。壁や床を覆っている布が、塗料を塗って描いたばかりかのように鮮やかに見えた。

「…この絨毯ってペルシャ絨毯だよな」

 床を触りながらケイスケが呟く。

「え、違うと思うけど」

「うん、違う」

 僕とキュウが返す。

「え、そうなの…、絶対そうだと思った」

「絨毯っていうか、結構薄いし…。布だよこれ」

「うん、違うよ」

 ケイスケが黙り込む。両手を後ろに突いて天井を見上げている。

「…そういえばさ、ペルシャってどこだっけ?」

「何…、何って言った?」

「いや、ペルシャってさ、どこにあるの…。国の名前だっけか」

「さあ…、ペルシャ猫が居るとこだよね」

「うちの叔母さんちにも居るよ、ふさふさしててさ、偉そうな猫だろ。キュウさん知ってるかな、先生だったんでしょ」

「え、そうなんだ…、学校の?」

 僕がキュウに目を向ける。笑みを浮かべている。

「そう…、中学のね。随分と昔のことだから、今じゃもう見えないでしょ、そんな風に」

 ケイスケもキュウを見ている。キュウはどこを見ているのかわからなかった。

「田舎のさ、山奥の学校だよ。ほんと何にもない山奥でさ、面白いことも、面白くないことも、ほんとに何もなかったなあ…」

「…何の先生だったの?」

「社会科だよ。地理とか歴史とか」

「そうなんだ。じゃあわかるかも、さっき話してたんですけど、ペルシャって何処にあるんだろうって」

「やめてやめてやめて…。もうわかんないよ、全然わかんない」

 僕の問い掛けに、キュウは音がしそうなほど何度も首を振りながらそう言った。大声だったわけではなかったが、座っていた僕とケイスケは後ずさって固まる。そのまま二人共黙りこむ。キュウから目を離すことができなかった。

「気持ちいいなあ…」

 動きを止めたキュウは笑みを浮かべながら呟く。天井を見ているようで、目の焦点はもっと遠くにあった。部屋の外ある空でも眺めているんじゃないかと思った。

「ほんと気持ちいいよね…。朝起きてクサ吸ってさ、そっから一日始まるって言うか、ほんと生きてるって感じだよね。これ知る前は何だったんだろうって思う…。うん、生きてるって感じ」

 キュウが体を丸めて堪えるように笑い出す。

「うん…、そうだね、生きてる…、うん、生きてるね、俺…、ああ、気持ちいいなあ…」

 キュウはそうやっていつまでも笑い続けている。いつから笑い始めたのかもわからなくなってくる。この部屋に入ってからずっと、キュウは笑っていたんじゃないかとも思った。

「…じゃあ、キマってないときは死んでるんですね」

 ケイスケの言葉に一瞬固まった後、キュウはまた、今度は弾けるように笑い出して床に転がった。もがくように足をくねらせている。床に敷かれた布がキュウを中心に皺を寄せて絡まってくる。包まれていた繭の殻を破って生まれてきたかのように見えた。ようやく笑い終えると、キュウは床に転がったまま動かなくなった。

「…もうさ、記憶がさ、昨日とか一週間前とか何年前とかの記憶がさ、頭ん中で混じっちゃってて、それがいつのことなのかよくわかんないの。朝起きてから寝るまでの間、ずっとトンじゃっててさ、キマってないときなんかないからさ、一つ一つの記憶がさ、輪っかになって回っちゃっててさ、溶け合っちゃってて、スープみたいにぐちゃぐちゃになっちゃってるの。今日のことだってさ、明日には溶け合っちゃってスープになっちゃうんだよ。でも、あの頃…、学校の先生だった頃は割と覚えてて、ずっと嫌だなあって思ってて、でも、何が嫌だったかよく覚えてなくてさ。ほんとに何もなかったんだよ、良いことも悪いこともさ、何もなかったんだよね、何で生きてたのかわかんないの、だから俺、死んでたんだよ、あの頃。今から考えたら生きてる理由なんてなかったもん、ほんと、よくわかんない…」

 キュウは一言一言、息を吐き出すようにそう言った。ケイスケが迷子になったチワワのような目で僕を見る。僕が言葉を探しているうちに、キュウが甲高い声で笑いだす。

「こんなこと毎日繰り返してたらさ、仙人みたいになっちゃうのかな。うん、いいね、仙人…、クサ吸ってないときってないからね、素面のときのことなんか思い出せないし、もう吸ってないときって考えられないね、こんなに面白くてさ、気持ちいいことないよね、ほんと気持ちいい、今日はみんなでトンでるから、ちょっと効きすぎてるのかも、こうさ、釣り竿の糸が戻ってこない感じ、ぽおんって竿投げてさ、リールが回るんだけど、いつまでも回ってるの…」

 喋り終わるとキュウが立ち上がる。背中を伸ばしている。僕とケイスケはキュウを見上げながら言葉を探す。キュウは何も言わずにそのまま部屋の外に出ていった。僕とケイスケは動くこともできなかった。

「…何処行ったの」

 僕が呟く。ケイスケは入口を眺めたまま動かない。しばらくしてこちらを向くと、ゆっくりと首を振った。キュウが本当にここに居たのかも、よくわからなくなっていた。僕は立ち上がって部屋の外の様子を覗いてみた。中庭のベンチにキュウは座っていた。空を眺めている。

「居るの?」

 ケイスケが訊いてくる。僕は頷いて元居た場所に戻って座る。ケイスケが笑い出す。どうして笑っているのかはわからなかった。中庭からラジオのノイズのような蝉の鳴き声が聞こえてくる。何匹か部屋に紛れこんだんじゃないかと思うぐらい、気が付けば部屋中に鳴き声が充満していた。

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